farCe*Clown
第二幕 泣きながら嗤う裏切り者 44
「シルヴィオは――、あなた以外の公爵家の人たちにとって、一番大切な宝なんでしょう?」
彼らには、シルヴィオを害する理由がない。
ヴェルディアナは、シルヴィオが自分とラシェルの居場所を奪わないことを知っている。
ベアトリスにとってのシルヴィオは、国のために失ってはならない王だ。
フローラは、シルヴィオに恋をしている。恋い慕う相手を、助かるかも分からない敵地に放り込むような真似を、夢見がちな深窓の令嬢はしないはずだ。
「シルヴィオの存在を知る使用人たちも、彼を裏切るはずがない。だって、彼らは、生まれたときから使用人としての道を決められてる。それ以外を知らない人が、それ以外の幸せを見つけることは、とっても難しいだろうね」
リアノ人の臆病さは、高位の者になればなるほど、顕著になる。
ローディアス公爵家の使用人の育成は、生まれた赤子を育てることから始まる。成長とともに刷り込まれてきた使用人としての心得、彼らはそれ以外の道も人生も知らないのだ。
何が待ち構えているか分からない不確かな裏切りの道を選ぶことなど、簡単にできるはずがない。
何より、彼らはシルヴィオや公爵家の人間に対して、よほどの大事がない限り悪い感情を抱かない。主人に対する好意は、彼らの中に刷り込まれているのだ。
「シルヴィオを憎むことができるのは、あなたしかいない」
それならば、シルヴィオを憎める人間は、刷り込みを受けていない者。
期待や愛情、洗脳という名の教育を受けることのなかった子ども。
――、誰にも構われることのなかった、末子だけだ。
「放り投げられて育った子どもだから、あなたはこの家で唯一、自由な意思を持っている」
そして、カルロスの言葉が、あの日に翁が呟いた呪詛のような恨み言が、希有の中で再生される。
『生まれながらにして、与えられないことが決められた者の心など、お前には分からぬのだろうな』
カルロス・ベレスフォードと通じていた裏切り者は、シルヴィオの血縁だ。ベアトリスの血を引くアルバートも当然、ヴェルディアナ同様、シルヴィオと血の繋がりがある。
生まれながらにして、公爵家の男児としての名を与えられなかった。
「証拠はない。でも……、きっとそうだと、わたしは思う」
アルバート・ローディアス。
哀れみだけを受けて育ち、何一つ与えられなかった少年。
「もし、違うのなら、はっきりと否定して」
アルバートは、諦めたように肩を落として、希有を見る。
「あーあ」
何もかも滅茶苦茶になってしまった子どもが呟くには、あまりにも軽い声音だった。
「誰に気付かれても、――君にだけは、気付かれないと思っていたのに」
希有は唇を噛む。
アルバートに関しては、常々近くにいられることに対する苛立ちがあった。 だが、この家で気にかけてくれた彼に対しての、それなりの思いはある。友だと言ってくれたことも、疑問だらけで訝しいとは思っていたが、嬉しくなかったわけではないのだ。
希有の想いに反するように、ついに、アルバートは明確な肯定を口にした。
「……、そうだよ。カルロスにシルヴィオを売ったのは僕だ」
予想していたことが正解で、ただ、泣きたくなるような感情が胸を穿つ。
「カルロスはシルヴィオの存在には気づいてたけど、公爵家に守られているシルヴィオを連れ出すことは容易じゃない。あいつの居場所は、いつも隠されていたから」
ただでさえ、あの時期は先王が崩御して間もない、警戒を強めなければならない時期だったのだ。ベアトリスは、シルヴィオの居場所を身内にしか教えなかったに違いない。
「だけど、本当、馬鹿」
アルバートは冷え切った声で、銀の瞳を細める。
「せっかくあげたチャンスを、カルロスは棒に振った。監獄塔になんか閉じ込めて、あげくの果てにキユみたいな小娘の手で逃がされた」
アルバートならば、決して、そのような手を使いはしなかっただろう。
カルロスは勝ち誇って油断して、手を抜くべきではなかった。時が来るまで、カルロスはシルヴィオを丁重に生かす必要があったのだ。
なぜなら、カルロスが即位するためには、遺言の子息の存在を公の場で罪人として葬る必要があったからだ。
予定していた罪状は、おそらく、――先王の殺害。
民に慕われていた先王を殺したとなれば、遺言があろうとも、シルヴィオは王になどなれなかっただろう。
罪人として辱めを受けて殺されるに決まっていた。
そして、己の道に迷い自暴自棄になっていたシルヴィオならば、そのまま殺される道を選んだのかもしれない。決められた道を歩くことを拒みながらも、シルヴィオは自分で選ぶことを恐れていたのだろう。生まれた時から彼に定められていた道は、何の切欠もなく捨てるには重すぎた。
「自分の道に迷ってたあいつなら、逃げ出しはしないだろうと言ったけど、……それは不測の事態が起こらない限りの話。逃げられた後も、僕が城門で張るように言わなかったら、シルヴィオの影さえも追えなかったくせにさ」
シルヴィオの一枚上手だった、城門での待ち伏せを指示したのは、カルロスではなくアルバートだったのだ。誰よりもシルヴィオを羨んでいたが故に、アルバートは彼のことを他の誰よりも理解していたのかもしれない。
「どうしてなのかな。君は、シルヴィオの迷いを消してしまった。王になること以外に自分の価値を知らなかったはずのあいつが、キユを助けたいって、周囲の反対を押し切ってまであの日の処刑にかけつけたんだ。怒鳴り散らす母様や泣きわめく姉様を、ひどく冷たくあいつは振り払ったよ」
希有は、アルバートの声が震えていることに気付く。
彼は片手で顔を覆って、遣る瀬無いように首を振った。
「信じられなかった。今まで与えられてきたものを、僕が欲しくて堪らなかったものを、あいつは自分の手で壊していくんだ」
今までシルヴィオに与えられてきたものは、アルバートが望んでも手に入らなかったものだ。アルバートの望むすべては、シルヴィオの手にあった。シルヴィオが望んで手に入れたものでなくとも、アルバートにとっては羨ましかったのだろう。
「どれだけ、憎らしかったか!」
一瞬のうちだった。
彼は、希有の腕を掴み、足をかけた。突然の行動になすすべもなく、希有の小柄な体は床へと打ちつけられる。
「……っ……!」
背中に感じた衝撃に、刹那の間、息が止まった。
交わった視線の先で、アルバートは何もかも諦めたような荒んだ目をしていた。
身体の上に勢いよく圧し掛かられ、思うように息ができない。
「動かないで」
何時の間にか抜いた短剣を、アルバートが希有の首筋に宛がった。
状況を理解した時、彼の銀の瞳には、困惑と恐怖で震える希有の姿が映し出されていた。
「ばかな子。黙ってシルヴィオのこと待っていれば良かったのに。君一人が動いたところで何にも解決しない。冷静に考えることができないくらい、……シルヴィオのことが大事なのかな。君は僕が憎くて、怒っていて、だから、感情のままに僕を責めに来たの?」
淡々とした口調で、彼は言う。
「都合良く、命の危機に駆けつけてくれる人なんて、現実にはいない。君がここで殺されそうになったところで、誰も助けはしない」
現実は物語のように綺麗ではない。
必ず誰かが助けてくれるなんて淡い希望は、抱く方が間違っているだろう。自分だけは例外で特別だと思ってしまった瞬間、それはただの愚か者でしかない。
「……、もう、苦しくて耐えられない。何度も期待してその度に裏切られてきた。どんなに努力しても、誰も振り向いてくれない。……この苦しい気持ちが晴れるなら、僕は今度こそシルヴィオを殺す」
震えた声が、静かに宣言する。
「キユは、死ぬのが怖いよね? だって、楽しいことも嬉しいことも、希望も君は知っている。……、温かなものをちゃんと貰っているもの」
次の瞬間、アルバートに浮かんだ微笑みは、まるで人間味が感じられなかった。彼は、長い間、作った笑顔を仮面のように貼り付け続けていたのだろう。
――、己の中に燻ぶる憎悪を、隠し通すために。
「君は自分だけ不幸そうな顔してるけど、僕からしてみれば、今の君はこの上なく幸せそうだ」
刃が首筋いに食い込む感覚に、希有は小さく悲鳴を上げる。頭の中が白く染まり、指先一本ですら動かすことができなかった。胸元に当てていた手に、懐にひそめた懐剣の鞘を感じながら、何とか心を落ち着かせようとする。
「怖いでしょ? 死んで、シルヴィオの傍にいられなくなることが」
目を見開いた希有に、アルバートが唇を釣り上げた。
「憎らしいな。綺麗事ばかり吐く君の唇も、口先だけは立派なくせに怯えて何一つできない弱さも」
「……う、っ……」
彼の指が、希有の唇をそっとなぞる。
「自分のことさえ満足にできないくせに、王ではないシルヴィオ自身を、一人の人間として大切に想った傲慢さも」
希有がシルヴィオを大切に想うのは、彼が王であるからではない。それは、公爵家や他の人々が、シルヴィオに対して抱くことのなかった種類の感情だ。
シルヴィオを王と関係のない、ただ一人の人間して見ることは、この世界の住人には難しい。
「シルヴィオも、同じくらい君に執着している」
唇をなぞっていたアルバートの指が、希有の頬を撫ぜた。
「自分の命も役割も、全部どうでも良い顔をしていたくせにね。今では、君を繋ぎとめるために、その命と役割さえも利用し始めている」
「あいつは、今、とても幸せだろうよ」
彼が吐き捨てた言葉が脳内に届いた途端、希有は引っかかりを覚えた。
「……、幸、せ?」
嘲るアルバートを余所に、希有は自分の頭が徐々に冷めていくのを感じていた。
何が、幸せそうに見える、だ。
自分だけ不幸そうな顔をしているのは、希有だけではなく、目の前の少年も同じではないか。
「あなたが言うとおり、口先ばかり立派で綺麗事ばかりの最低なわたしが……、彼にあげられるものなんて、……何も、ないのに?」
恐怖が振り払われていく。
目の前にいるのは、駄々を捏ねるだけの、――希有と同じ臆病な子どもだ。
「シルヴィオに甘えているだけの寄生虫が、どうして、彼を幸せにできる? 傍にいてほしいと言われたから傍にいたけど、それだって、……自分のためでもあったのに」
シルヴィオの隣にいる希有は、笑っていられた。
認めることが怖かっただけで、傍にいてほしかったのは、シルヴィオだけではなく、希有も同じだったのだ。自分のためにも、希有は彼の傍にいたいのだろう。
「何、言って……」
「人間は、利己的だ。誰かのためなんて幻想で、結局は全部自分のため。あなたが愛されなかったのだって、彼らはあなたを愛しても自分のためにならないと知っていたからだよ」
「だって、誰が、あなたみたいな子どもを愛するの?」
瞬間、頬を打ったのは鋭い平手だった。滲んだ痛みを堪えて、希有はアルバートを睨みつける。
彼はひどく顔を歪ませて、声を荒げる。
「……っ、何も知らないくせに、ただ守られているだけの君に何が分かる!」
「分かるよっ……!」
気づけば、希有は叫んでいた。
「欲しい欲しいと羨んでるくせに、手を伸ばそうともしない。自分が愛されない原因を他人に押し付ける! ……、それで、何が手に入った? わたしは、何にも手に入れられなかった!」
何度も嫉妬して、殺したいと思ったことさえある。
愛される美優を羨み続けた自分、――途中で努力さえも放棄した己は、裏切りと言う最悪の形で姉の存在を消し去った。
無邪気を装って裏山に誘い、彼女を置き去りにした日を、今でも鮮明に覚えている。十三歳の希有は、姉を陥れて醜く笑っていたに違いない。
そして、あの子が、帰って来ることはなかった。
それが、希有が犯した償うことなどできない罪だ。くだらない嫉妬心で、稚拙な羨みで、希有は大切な者を見失い、彼女の未来を奪った。
「ただ、喪って……、虚しくなっただけだよ」
奪ったから、いつも後悔ばかりが押し寄せる。
美優がいなくなっても、彼女を消してしまってからも、心は晴れやかにならなかった。むしろ、以前よりも苦しみが増しただけだ。
彼女の微笑みを思い出すたびに、自分の醜さと浅ましさを思い知らされる。
短剣を握るアルバートの手に、希有は触れる。
「シルヴィオが消えても、あなたは愛されはしない」
希有とアルバートは、打算や計算の上に成り立つ友人で、その間にほんの少しでも友愛があったかと言われれば首を傾げる。
だが、ありがとう、という一言だけで、子どものように嬉しそうに微笑んだアルバートを希有は見ている。
これが綺麗事だとしても、彼と希有が名ばかりの友だとしても、希有はアルバートを止めよう。
これ以上、彼が自分を追い詰め、シルヴィオに仇をなさぬように。
「シルヴィオを殺しても、その気持ちは晴れない。苦しくなるだけだよ」
シルヴィオを殺してしまえば、アルバートも希有と同じ苦しみを抱えることになるだろう。
「……、あの人を、殺さないで」
「これが、どんなに、……ばかげた行動か、分かってたよ」
浅慮で考えの足らない行動だと分かっていた。分かっていた上でアルバートに会いに行くことが、どれほど莫迦げたことかも知っていた。
「でも、何にもできないとしても、会いに来るべきだと思った」
それでも、シルヴィオを大切に想うならば、――ほんの少しでもアルバートを友だと想うならば、ここに来なければならないと思った。
シルヴィオの生い立ちが、彼を歪めてしまった。歪みを抱えて、傷を負って、彼は何処か欠落してしまったのだ。それ故に抱え込んでしまったものが、彼の矛盾だ。
もう、これ以上、シルヴィオに傷ついてほしくない。退路がないから泣けないなどと、二度と言わせたくなかった。
「辛くて、苦しくて、いつだって、楽になれる場所に逃げたくなるよ。背を向けて走り去ってしまえば、何も見ないで生きていけるから」
背を向けて、目を逸らし続けて、ただ逃げ去ってしまえば、苦しみから解放された気になれるだろう。実際は何一つ解決していなくとも、偽りの安息を得られる。自分は悪くないのだと、言い訳をして生きていける。
「だけど……、それを選んだら、大切なものを見失ってしまう」
逃避を選んだからこそ、希有は大切な人を見失った。姉の未来を、奪ったのだ。
「憎むなとも、恨むなとも言えない」
その言葉を言うことはできない。
希有自身、憎しみも恨みも、今も抱いていることは否定できない。それは、生きる限り切って捨てることのできない、どうしても付き纏う感情なのだ。
「こんな言葉で、あなたが憎悪を捨て切れるとも思っていない」
こんなにも簡単な言葉で諦め切れるような気持ちであれば、彼は最初からシルヴィオを裏切ったりしなかった。
「だけど、……少しでも、あなたがわたしを友だと思ってくれるなら、彼を殺さないでほしい」
アルバートの銀の瞳を見据えながら、希有は思う。
自分が言っていることは、うすら寒い綺麗事でしかない。半年前、シルヴィオに出逢う前の希有であったならば、絶対に口にすることのなかった言葉だ。あの頃の希有であったならば、アルバートに会いに来ようとも思わなかっただろう。
その変化が、愚かなことなのかさえも、希有には分からない。
「…………、なんだよ、それ。自分にそんなたいそうな価値があるとでも思ってるの? キユに免じて、僕の気持ちを諦めろと?」
――、価値があるなどとは思っていない。
それでも、希有に価値を見出してくれた人がいる。冷え切った心に優しい熱を分け与えてくれる、陽だまりの人。
「友だちだは、心配し合うものだと言ったのは、……あなただよ。これ以上その道を進むと言うのなら、わたしはあなたを止める」
「……、シルヴィオのために?」
「あなたが、傷つかないためでもあるよ」
唇から紡がれるのは、綺麗ではない世界には不釣り合いな、夢見がちな幻想でしかない。
それを知っていたはずなのに、希有は口にしている。
「……ああ、そうなんだ。君がどうして、僕のところに来たのか、……漸く分かったよ」
彼は顔を歪ませた。
「不愉快な、同情だね」
吐き捨てた言葉は辛辣だったが、その声は不思議と穏やかに聞こえた。
「……、知っていたよ。たとえ、シルヴィオが死んだところで、僕は代わりにはなれないって、分かっていた。でも、苦しかった」
分かっていても、アルバートは憎しみを抑えることができなかったのだ。羨ましくて妬ましくて、消えてしまえばいいと思ってしまったのだろう。
そっと短剣を鞘に納めて、アルバートが俯いた。
その銀の瞳から、大粒の涙が零れ落ちたのを、希有は見た。乱暴な手つきで零れ落ちた涙を拭って、アルバートは唇を震わした。
「君は、シルヴィオが大切?」
「……、うん」
「僕のことは、……?」
震える声で問いかけてくる少年に、希有は口を開く。
「分からない。だけど、友だちと言ってくれたことは……嬉しかった」
正直な想いを伝えると、アルバートはかすかに口元を歪めた。部屋の明かりを受けた涙が美しく滴り、希有の頬にも落ちる。
「嘘でも……、大切だって言ってくれれば良かったのに」
希有の身体の上から退いて、彼は小さく息をつく。
アルバートは、寝転んだままの希有に手を差し伸べた。希有は、躊躇することなく、その手をとった。
服についた埃を払って、希有は顔を上げる。
「そんなちっぽけな想いで僕なんかに構うなよ。どうせ、ばかみたいな同情のくせにさ。最悪だ、大っきらいな哀れみなのに、……どうして、僕は泣いているんだ」
「……、ごめんね」
「謝らないでよ、もっと惨めになる」
「それと、ありがとう、……アル」
初めて口にした愛称に、彼は銀の瞳を揺らす。
「……っ、本当に、君は最低で、ずるい」
優し過ぎる声は、震えていた。
希有は、振り返ることなく部屋を出て行く。
重たい足を動かせば、目の前には誰もいない廊下が続いている。
「……、ばかみたい」
何がしたかったのだろう。
伝えられるものなど何もなくて、自己満足のために来ただけだ。
笑わせるような茶番劇を繰り返しても、友だと言ってくれた人の一人すら助けてあげられない。
シルヴィオを裏切ったアルバートを赦すこともできないのに、友だちだと言ってくれたことが嬉しかったなど、笑わせる。
希有がしたことは、結局、かき乱しただけだ。
何も変えられない愚劣な同情など、抱くべきではないのだ。似ているからと言って同一にはなれず、哀れみを抱いたところで傷つけるだけで、余計な御世話にしかならない。
「本当、最低」
泣き笑ったアルバートの姿を思い出し、希有は目を伏せた。
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