farCe*Clown

第三幕 幸福を夢見る愚か者 45

 あれから、数日経った。
 最後に会って以来、アルバートの姿は見ていない。どのような処断が下されたのかも知らなかったが、何かしらの咎めをアルバートは受けたのだろう。
 何もしてあげられないならば、これ以上かかわるべきではないなどと言い訳を述べて、希有は軽く唇を噛んだ。
「……、もう、冬が迫ってる」
 窓から、少しだけ見える薔薇園。シルヴィオの髪色に似た薔薇は、秋の終わりの今頃では既に枯れかけていた。
 季節が移ろいでくのは、存外に早い。
 高等学校二年になって間もない時期に、希有はこの世界に招かれた。もし、地球と同じ時間がこちらでも流れているとしたら、今すぐに帰れたところで留年は確定だろう。
 思えば、希有は半年以上もシルヴィオと一緒にいるのだ。
 そっと目を伏せると、脳裏に浮かぶシルヴィオの顔を上手く思いだすことはできなかった。城に戻ったら、たくさん話がしたい。向き合って顔を見て、彼の笑顔を忘れないように網膜に焼きつけよう。
「……、シルヴィオ」
 公爵家が希有に求めることは、シルヴィオにとっての最善でもある。
 利用価値のない異界の娘を傍に置いて、そこにはシルヴィオにとっての損はあっても益はないだろう。命を助けてくれたシルヴィオのために、希有は身を引くべきだ。彼がこれから歩む道に、希有は邪魔なことは知れている。
 だが、それがどうして嫌だった。
 この世界で唯一、裏切らないと誓った人。希有は彼を裏切らないから、彼にも希有を裏切ってほしくない。
 等価を求めているのだ。信用なんて不確かなものに等価を求めることは間違っている。だが、それでも希有は欲しいのだろう。自分が身を委ねても良いと思える存在として、シルヴィオに在ってほしい。
 躊躇いもなく信じることのできる人、心から安心できる場所として、シルヴィオを求めている。
 未だに、何一つあげられるものなどないが、彼の隣で変わることを願っているのだ。いつか、与えられた分と同じだけのものを、返せるようになりたいと思う心がある。
「結局、わたしも、シルヴィオに期待する一人か」
 ベアトリスのことを言えたものではない。
 王たる存在であれと強要するベアトリスと、己に優しい人間であれと願う希有に、いったいどのような違いがあるというのか。
 だが、それでも、希有は身勝手な言葉を、己の中で絶対の真実とするのだろう。

「いらっしゃい、ベアトリス様」

 振り返った先に佇む女性に、希有は微笑んだ。
 アルバートの裏切りが発覚した今、彼女が希有の元を直接訪ねてくるだろうとも思っていた。
 心は決している。
 シルヴィオの隣を手放す気はない。
「今日は、何の用ですか?」
 険しい顔のままのベアトリスに、希有はわざとらしく首を傾げる。
 ベアトリスは、憤りに染まる表情で口を開く。
「何が、……何が気に入らないのです」
 絞り出すような声は、常の気丈さを欠いていた。
 自分の思い描いていた理想を滅茶苦茶にされ、その原因が希有だけではなく息子にもあったのだ。たとえ、アルバートが彼の言うとおりの要らない子どもだったとしても、ベアトリスが衝撃を受けるのは当然だ。
「気に入らない?」
「貴方など、……っ、異界の娘などいなければ良かった! 前も、今も……貴方たちさえいなければ、すべて上手くいったというのにっ……」
 甲高い叫びが耳をつんざく。
「貴方たち異界の娘は、あれを惑わす。突然現れて、私たちを滅茶苦茶にしていく……!」
 ここまで声を荒げた彼女を見るのは初めてだった。
「どうして、シルヴィオはっ……、貴方を傍に置くの」
 消えそうな呟きに、希有は拳を握りしめて、ベアトリスを見た。
「その答えは、シルヴィオに聞いてください。彼が傍に置いてくれるなら、……わたしは、それに応えるだけです」
「貴方の存在は、あれにとっては邪魔にしかなりませんっ……!」
 ベアトリスの描く理想、未来に、希有は存在しない。
 錯乱したように強く机を叩いて、ベアトリスは希有を睨みつけた。その視線を受けながらも、不思議と希有の心は凪いでいる。
「彼にとって不要かどうか決めるのは、わたしでも貴方でもありません。シルヴィオです」
 シルヴィオの未来を決めるのは、他の誰でもない彼自身だ。彼は、最早、公爵家の人形ではない。
「……っ、おのずから身を引こうとは思わないのですか。貴方は少なからずあれを慕っているはずです。相応しくない想いを抱き、みっともなく縋りついて! あれは王だというのに」
 希有などが傍に在ることは赦されない、尊い存在だとベアトリスは言う。彼女の主張は尤もであり、この世界の、この国の価値観に基づいたものだ。
「わたしはシルヴィオが好ましいです。でも、……それは王であるからではありません」
 今から述べるのは、希有の身勝手な暴論だ。
「わたしにとって価値あるのはシルヴィオで、王という飾りではありません」
 屁理屈でしかないことなど承知の上で、莫迦みたいな言葉を並べていこう。滅茶苦茶でも、整然としていなくとも、矛盾していても、構いはしない。
 それこそが、希有の本心だ。
「仰る、……意味が分かりません。あれは王になるために生まれてきました。あれを慕うということは、王を慕うことで……」
「わたしが生きてほしいと思ったのは、シルヴィオです。王を生かそうとしたのではありません」
 シルヴィオにとって、王という立場は重要なものだが、希有にとっては違った。初めて会った日から、彼は一人の青年でしかなかった。彼が希有に王としての姿を見せないが故に、今でもその立場が飾りにしか思えない部分がある。
 希有は、王だから傍にいたいのではない。シルヴィオだから隣にいたい。
「ベアトリス様、貴方にはおそらく分かりません。わたしも、同じように貴方たちの主張が理解できません。わたしたちは、あまりにも異なっている」
 生まれ育った地も、彼との出会いも、何もかもが希有とベアトリスは違った。それ故に、希有とベアトリスが相容れることはないのだ。
「理解など、求めていません。ただ、黙ってあれから、離れなさい。……王である以外に、あれの生きる意味など何一つありません」
 半分とはいえ血のつながった姉にまで、王であることを言われ続けてきたシルヴィオ。
 彼は、真実、心の底から王になることだけを願っていたのだろうか。
 それは、違う気がした。
 望まなかったのではなく、彼は望むことさえも赦されなかったのだろう。
「貴方たちは、彼が望む望まないに関係なく、……自分たちに都合の良い物ばかり与え続けた」
 退路はない。立ち止まることも後戻りすることも、赦されないと、彼は言っていた。
 それは、どれほどの苦痛であっただろうか。
 現状を打破する術などなく、王となることでしか自らの価値を見出せない、見出してもらえない。
 多くを与えられようとも、望むことさえも赦されないのであれば、それは彼にとって何の価値があったのか。生き地獄に曝されながらも、望む声さえも奪われた彼は、何一つ言うことができなかった。
「ずっと苦しかったはずです。期待や羨望に、嬉しさはあったでしょう。だけど、……死にたくなるほどの切なさだって、あったはずです」
 シルヴィオがいくら優れていようとも、彼とて人間だ。期待されるだけ応えたいと願い、羨望を抱かれる分だけ誇り高くあろうとするだろう。
 そのような当然の真理が、シルヴィオの心を抉ってしまった。
「求められる自分に近付きたくて努力しても、周囲の理想は高まっていくだけで……」
 必死に努力して出した結果は、いつしか、できて当然の結果となる。賛辞の声はかき消され、代わりに聞こえるのは溜息と笑い声。
 高まっていく理想に追い立てられて結果を出す度に、失敗してしまった瞬間の失望を思い描き、息苦しさで眠れない。
 そんな状態でも弱々しく微笑むあの子を、今でも憶えている。
 捨ててしまったからこそ、冷たい山に置いてけぼりにしてしまったからこそ、――いっそうと、あの子との記憶が思い出される。
 シルヴィオと希有の姉――美優みゆうは、あまりにも似ていた。
「彼には、シルヴィオになれる時間がなかったんです。貴方たちが、彼を王としてしか見なかったから」
 王となるためにシルヴィオを育てた公爵家にとって、それは当然のことだ。だが、シルヴィオは、自分を見てもらうことを望んでいたはずだ。
 本当は、ずっと、寂しかったのだろう。寂しかったからこそ、彼は、希有などの言葉を魔法のように思ってしまったのだ。
「姉である貴方くらいは、あの人をただのシルヴィオとして見てあげるべきでした。王としてではなくて……どうして、弟として愛してやらなかったのですか」
 彼は、何者でもない自分を愛してほしかったのではないだろうか。
 与えられるすべてが、王に与えられるものだと知っていたからこそ、虚しかった。どれほどのものを与えられようとも、決して満たされはしなかったのだ。
「愛して、いるに……決まっているでしょう」
 俯いていたベアトリスが、顔を上げた。
「王としても、弟しても、今は亡き友の忘れ形見としても! 幼い頃に母と死別し、自分の出生の秘密を抱えて生きるあの子に、他にどのような道を示してあげれば良かったのですかっ……! 権利を持つあの子は定められた道でしか生きていけない……、ならば、あの子を惑わすような愛情など、不要でしょう?」
 シルヴィオとは半年の付き合いしかない、赤の他人の希有は、彼や彼の周囲に対して何か言えるような存在ではないのだろう。
 だが、遠い地から来た異邦人だからこそ、希有は忘れない。
 彼がたった一人で歪みを抱えることになった事実は、いつまでも脳に蔓延るだろう。ベアトリスがシルヴィオを愛していたとしても、希有には、忘れ得ぬ彼の姿がある。
「……、あの日、わたしの前で泣いた彼を、わたしは生涯忘れません」
 泣き場所のない人間は、ひどく脆い。心に燻ぶる感情を吐き出すこともできずに、内に溜めることの辛さは、希有も知っていた。
 愛しているからと言って、すべてが赦されるわけではない。
 善悪の判断など希有にはできないが、ベアトリスの行動がシルヴィオの望むものではなかったことだけは明らかだった。
「わたしは、何もできません。……シルヴィオに甘えているだけの寄生虫でしょう」
 だが、そんな寄生虫でも。
 彼が傷つく姿を見たくない。
「だけど、わたしは、……あの人を泣かせてあげられると、思っています」
 彼に差し出せるものなど何一つ持たないから、希有自身がそれになろう。
 未だ、この世界の何処にも彼が泣く場所がないのならば、一時的にでも、異なる世界で生きてきた希有が彼の泣き場所になる。
 甘えてばかりだった分、甘やかしてあげられるような存在になりたい。もっと彼のことを知って、分かってあげたい。
「いつか帰る、その日まで。いいえ、……シルヴィオが愛し、彼自身を愛してくれる特別な誰かが現れるまで、わたしが彼の泣き場所になります」
 あの日、命を助けられた日から、心は決まっていたのかもしれない。
「お願いします。わたしを、あの人の傍にいさせてください」
 真っ直ぐにベアトリスを見つめると、その瞳には困惑の色が浮かんでいた。
「――、初めから、中途半端にしか傍に在るつもりはないというのに。理解者になったような顔をして。それで苦しくなるのは、結局、あれではないのですか」
 この関係は、いつか終わりを迎える。
 傍に在った分だけ、別れは辛いものとなるだろう。大切だと感じる分だけ、離れた後の虚しさは計り知れない。
 何の未練も抱かずに別れるには、最早手遅れであることなど、希有にも分かっていた。
「そんなこと、シルヴィオは分かってます。でも、その苦しさまでも乗り越えられるような人に、きっと、彼はなります」
 だが、彼はきっとすべて分かっている。覚悟の上で、傍にいててほしいと願ってくれたのだ。
 それならば、彼の願いに応えたい。
「傲慢な、娘ね」
「はい。……だけど、今だけは、彼の寂しさを埋めるのは、わたしだけがいいから」
 シルヴィオが希有に望んだのは、逃げ場所だ。
 臆病なリアノの王に相応しく、彼は退路が欲しかった。きっと、それだけのことなのだ。
 ベアトリスは、老いてもなお鋭い美貌で希有に言い捨てた。
「……好きになさい」
 希有は、ベアトリスに微笑む。
「お慈悲に感謝いたします。ベアトリス様」
「礼は要りません。傍に居て傷つくのは、貴方も同じであることをお忘れなく。……キユ・ファラジア」
 ベアトリスは眉をひそめたまま、大きな溜息をついた。


               ☆★☆★               


 直に日が暮れる頃、荷物の整理をしていた希有のもとに、本日二人目の来訪者が姿を現した。
 既に見慣れた青年の姿で、エルザは扉を開けて立っていた。
「あれ、もうすぐお帰りになるんですか?」
「いえ、……、連絡は貰っていないので、何とも言えませんけど……」
 だが、実質的に公爵家との話はついたようなものなのだから、遠くない未来にシルヴィオの下へ帰れるのだろう。それを見越して、少し気が早いが、荷物の整理をしようと思い立ったのだ。
「へえ、でも、もうすぐ帰れそう、だと。……寂しくなりますね」
 呟かれた言葉に、希有は小さく溜息をついた。
「本心でもないのに、そういうこと言うの止めてください」
 寂しく思うは間違いで、清々するが正解だろう。エルザは、希有のことがあからさまに嫌いなのだ。
「本心ですよ。ルディ様の八つ当たり対象がいなくなって寂しくなります」
 唇を尖らせたエルザに、希有は顔をしかめるた。
「……、あれ、八つ当たりだったんですか」
「ええ。ルディ様は女、子どもには優しい人なんですよ。だけど、あの方は異界の娘が大嫌いですから」
 嫌いであるが故に八つ当たりするなど、一体、いくつの子どもだ。
「……、つまり、あの態度は、わたし自身の問題だけではなかった、と」
 その上、希有自身だけに問題がなかった分、多少の怒りが湧いてくる。
「ルディ様のあんなに不機嫌な様子なんて、久しぶりです。良いものを見せてもらえました」
 人の悪い笑みを浮かべるエルザに、希有は笑顔を作った。
「……、それじゃあ、最後くらい仕返しさせてください」
「仕返し? できるものなら、勝手にどうぞ」

「ラシェル様だけ名前で呼ばないのは、わざとですか?」

 希有の言葉に、エルザが目を見開いた。
 その反応だけで、エルザとラシェルの間の関係性が見え隠れする。
「キユ様……、貴方、まさか」
 動揺を隠しきることができずに、エルザは、――彼女・・は体を震わせる。
 証拠のない推論で、半分は無理やりに繋げた博打でもあった。だが、どうやら、希有の考えは正解だったらしい。
「ラシェル様は、一見しただけではヴェルディアナ様に似ています。そう見えるように、髪型や服を意図的に似せているのしょうか。でも、二人比べてみれば、顔も骨格も……、あんまり似ていませんね」
 庭園でラシェルを見た瞬間は分からなかったのだが、後日ヴェルディアナに会って、希有は気づいた。
 ――彼らは似ているようで、その実、あまり似ていない。
 体格が良く頑丈そうなヴェルディアナと、見るからに線の細いラシェルでは、全く別系統の身体をしていた。
 それは、ラシェルがヴェルディアナに似た子どもではないことを示す。
 エルザがいなければ自分はここにいない、というラシェルの発言も、エルザが彼にとって、そのような存在であるならば納得できる。
「ルディ様とラシェル様が、あなたがシルヴィオを見捨てようとした理由です」
 ヴェルディアナとラシェル。この二人が、エルザがシルヴィオを見捨てようとした理由だ。
 ――王としての資格を持つ存在が消えたとき、何が起こるのであろうか。
「ルディ様もラシェル様も、王族の濃い血を引いていますよね」
 シルヴィオの血縁である前に、彼らは王女であったベアトリスの血を引いているのだ。公爵家の人間であるものの、彼らは王族の血を色濃く継いでいる。
 蟲とは、当代の王族一人に与えられる、世界の一部を操る権利だ。
 子どものいないシルヴィオが、権利を有したまま死んだ場合――それは、誰に受け継がれることになるのだろうか。
「賭けではありますけど、……試してみる価値は、あなたにはあったんですね」
 世界は権利そのものをはく奪するのか、それとも、既に成長した王族の血を引くものに受け継がせるのか。
 希有は答えを知らないが、エルザにとって賭けに出る価値があったのだろう。
「ごめんなさい。わたしは、……シルヴィオを見捨てたあなたを赦すことは、できそうにもありません」
 エルザやアルバートの行動のおかげで、希有はシルヴィオと出逢えた。それは紛れもない事実であるが、感情は綺麗に割り切ることはできない。
 シルヴィオが酷い目にあった原因の一端を担っている人間を、どうして赦すことができるというのか。自分が彼の負担になっていることを棚に上げているのは自覚しているが、どうしても、心中は複雑になってしまう。
 黙り込んでいたエルザは、やがて、肩を竦めた。
「ああ、そうですか。なら、やっぱり、キユ様は偽善者だ。綺麗事ばっかり述べた後に、赦さないなんて言うんだから」
 そして、彼女はひどく冷めた声で口を開く。
「ルディ様が貴方を嫌いな理由が、やっと分かりました。弱者を好むあの方が、異界の娘とはいえ貴方をあそこまで嫌う理由が今まで良く分からなかったんですけど。……、キユ様の性格のせいですね」
 殺意にも似た敵意を受け流しながら、希有は酷薄に微笑む。
「ルディ様の亡くなった奥様とは、お知り合いでしたか?」
「…………、詮索のしすぎは嫌われますよ」
「それは、失礼しました」
 エルザは、氷のような眼差しを希有に向ける。
 次の瞬間、鋭い何かが、希有の顔の真横を通り過ぎて後ろの壁に刺さった。頬に薄らと血が滲むのを感じて、希有は反射的に自分の頬に触れる。横を見れば、小さな刃物が壁に突き刺さっていた。
「あは、外しちゃいました」
 無邪気そうに嗤い、エルザは口元を釣り上げる。
「……、優しい僕が、良いこと教えてあげます。言っていいことと悪いことの区別くらいつけられなくちゃ、この先、無事で生きていけないですよ? シルヴィオ様の傍にいるということは、そういうことです」
 薄気味悪い笑みを浮かべていたエルザの顔には、明らかな怒気が滲んでいた。
 肩を震わした希有に、エルザは吐き捨てる。
「今回みたいな無茶が通ることの方が、稀なんですからね。……、覚悟もないくせに好き勝手言うんじゃねえよ、小娘」
 立ち竦む希有を鼻で笑い、エルザは大きな音を立てて扉を閉めた。
 暫く呆然とした後、希有は力なく座り込む。
 常の飄々ひょうひょうとした態度と一変したエルザの表情に、背筋に冷や汗が伝い、手は情けないほど震えた。
 今度から、余計なことを言うのは止めておこう。
 頬に滲んだ血を拭って、希有は唇を噛む。
「……、キユ様、先ほどエルザとすれ違いましたが、……何か、……」
 部屋に入ってきたカミラに、希有は顔を上げて苦笑いする。
「何でもないよ、何でも」
「……、ですが」
 カミラの視線は、壁に突き刺さったままの刃物に注がれていた。何か言いたそうな顔をする彼女に、希有は首を振る。
 語る気のない希有に、何かを察したのか、カミラはそれ以上聞いてこなかった。代わりに、一枚の白い封筒を彼女は渡して来る。
「数日前に届いていたようなのですが、……ベアトリス様が、止めていたようです」
 申し訳なさそうに眉を下げて渡された封筒を、希有は裏返す。綺麗な字で書かれた差出人の名に、希有は封筒を胸元で抱き締めた。
「良かったですね」
「うん……」
 明日の朝にでも読もう。
 希有は封を切ることなく、私物を入れた鞄の中に封筒を仕舞いこんだ。

 今日は、良い夢が見られそうだ。