farCe*Clown

幕間 指先の糸 52

 後宮に半ば引き籠っているような希有と違い、シルヴィオは日中を忙しく過ごしている。昼間、互いに顔を合わすことなど、皆無と言っても良いくらいだ。
 そのため、彼と会うのは夜になる。
「少し、散歩をしないか?」
 既に、時刻は深夜に差し掛かるが、希有はシルヴィオの提案に二つ返事で了承した。
 断る理由もなかった上に、外の空気を吸えば、いつもよりも気分良く眠りに落ちることができるような気がした。
 ミリセントから外套を受け取って羽織る。
 希有は灯りを手にしたシルヴィオの隣に並んで、部屋を後にした。
 薄暗い中を二人で歩いていると、半年ほど前、二人で逃亡していた夜を思い出す。あの時と状況はまるで違っているというのに、隣にいる人が変わらないことが、不思議に思えた。
 庭園に出た途端、頬を撫ぜた風の冷たさに、希有は思わず身を竦ませた。
「寒いか?」
 問いかけてくるシルヴィオに、希有は首を振る。大気は冷たかったが、暖かくしているため、寒さはそれほどではない。
 希有は、無言で足を止める。それに倣うように立ち止ったシルヴィオの頬に、希有はそっと手を伸ばした。
 突然の希有の行動に、シルヴィオは驚いたように瞬きをした。
「わたしより、シルヴィオの方が冷たい。……、散歩に誘ってくれたことは嬉しいけど、あんまり、外に出ない方が良いと思う。疲れているのに、風に当たると具合を悪くするよ」
 冷え切った彼の頬に希有は眉をひそめた。
 忙しくしている彼は、疲れも溜まっているはずだ。長い時間、風に当たれば、体調を崩してもおかしくはない。
「もっと、暖かくすれば良いのに……」
 厚手の服を着て外套を羽織った希有とは違い、彼は見るからに薄着だった。せめて、もう少し着込んでから散歩に誘ってほしかった。
「どうしたの?」
 自分を見つめているシルヴィオの視線に気づき、希有は小さく身じろぎをした。
 少しの間の沈黙の後、彼は躊躇いがちに口を開く。
「いや、……出逢った頃に比べて、お前は随分と丸くなったと、思って」
「丸く、なった?」
 希有が首を傾げると、シルヴィオが苦笑した。
「態度もそうだが……、口調が以前と違う」
 シルヴィオの言葉に、希有は息を呑んだ。

 ――彼に出逢った頃の自分は、どのような口調で話していただろうか。

 意図して作ってきたはずの仮面が、剥がれ落ちてたことにさえ、今まで気付いていなかった。
 美優と別れてから、言葉遣いや態度を乱暴にした。そうすることで、他者との距離を、あの子との相違を大きくしようとした。
 すべては、己が可愛いが故の行動だった。
 その仮面が剥がれ落ちて、四年前の希有に戻り始めているのだ。何一つ取り繕うことのなかった、あの子の隣にいた自分を曝け出そうとしている。
 ――、それは、この四年間、起こることのなかった変化だった。
 不意に恐ろしくなった。どれほど彼の傍で安心しているのか自覚して、怖くなる。
 いつか、帰らなければならない。今は先延ばしになっていても、方法さえ分かれば、希有は美優の死した世界へ戻るのだ。
 引き止めるシルヴィオの腕をふりほどいて、彼がいない世界へと、帰らなければならない。
「……、ばかみたい」
 希有は小さく首を振って、頭の中にある考えを振り払った。
 たとえ、この関係の先に待つものが確かな別れだとしても、彼の泣き場所になる。この世界に在る間、希有は彼を分かってあげたいと思ったのだ。
 その気持ちは真実だ。今の変化が、その想いによってもたらされたものならば、希有は恐れてはならない。
 いつか訪れる別れを気にする暇があるならば、今、彼のために何ができるかを考えた方が良い。
「何が、ばかみたい、なんだ?」
「……、何でもないよ。口調は、元に戻ってきているだけ。元々、……そんなに、乱暴な口調じゃなかったから」
 何重にも取り繕っていただけであって、昔から、乱暴な言葉遣いをしていたわけではない。
「……、そうか」
 彼は、希有に何も聞かなかった。その代わり、希有の頭に大きな手を乗せた。
 伝わる温もりが心地よくて目を瞑れば、暫くしてから、頬に痛みが走る。慌てて目を開くと、シルヴィオが空いている方の手で希有の頬を抓っていた。
「あまり、無防備にならないでほしい」
「……っ、何するの」
「安心してくれることは、もちろん、嬉しいが」
 言葉を濁したシルヴィオに首を傾げると、彼は脱力したように息をつく。
 シルヴィオは希有の頬を抓ることを止め、今度は希有の頬を両手で包み込んだ。
 彼は、そのまま希有の額と自分のそれを合わせた。
 目を逸らしたら何かに負けるような気がして、希有はシルヴィオの瞳の奥を見つめる。
 互いの息遣いが感じられるほど近しい距離に、希有の頬に徐々に熱が集った。
「……、無防備だから、……俺は怖い」
 彼の瞳が切なげに細められた。
「いつか、お前を傷つけてしまうことが、……怖いんだ。俺はきっと、お前を傷つけるから」
 縋って、甘えて、傷つけているのは希有の方だ。それなのに、シルヴィオの声には妙な説得力があったため、彼の言葉を否定できない。
 切実な声だった。
 まるで、希有を傷つけることを恐れている彼こそが、傷ついているように思えた。
「……、もし、わたしが無防備に見えるなら、シルヴィオが相手だからだよ」
 最初に出逢った頃、シルヴィオのことなど信じてはいなかった。だからこそ、これほど近くにいても安心していられる、今の自分が不思議だった。
 臆病で卑怯で、疑ってばかりだった自分が、目の前の彼に心を傾けている。彼が、決して善人とは呼べないことを知っていながら、信じようとしている。
「……、傷つけたって、良いよ」
 言葉は、自然と零れ落ちた。
 シルヴィオは、希有が思うよりも、ずっと、臆病な人なのかもしれない。
 触れてくる手には、迷いが見え隠れしていなかっただろうか。希有が見落としていただけで、その手には躊躇ためらいがあったのかもしれない。
「それでシルヴィオが楽になれるなら、……良いよ」
 希有は、強くない。強くなろうとしたつもりで、卑怯な道を選び続けてきた。幾重にも仮面を重ねて、現実に向き合うこともできず、虚勢を張り続けただけの愚か者だ。
 傷つけられない強さは持っていない。それでも、彼が希有を傷つけることで楽になれるならば、耐えてみようとも思った。
「だから、そんな辛い表情は見たくない」
 希有はできるだけ優しく微笑んでみる。上手くは笑えなかっただろうが、それでも良い。
 頬を包む彼の手を解いて、重ねられていた額を離した。
 桜色の髪に恐る恐る手を伸ばしてみると、柔らかな感触が指の腹をくすぐった。
 ――ああ、触れるだけで、こんなにも優しい気持ちを抱くことができるのだ。
 彼の傍で過ごすことで始まった変化を、恐れる必要など何処にもない。
 シルヴィオは、一瞬だけ、泣きそうに顔を歪めた。
「……、あまり、甘やかすな」
「それは、わたしの台詞だよ」
 これ以上ないくらい希有を甘やかす人間が、何を言っているのか。
 二人して顔を見合わせて、互いに笑みを零す。
「……、短い時間だったが、戻るか。あまり外に出ていると、お前が言うように体調を崩してしまうな」
 希有は頷いて、差し出された彼の手を握った。
 穏やかな時間が流れて、胸の奥に温かな想いが湧き上がる。
 希有と彼の関係は、何時、千切れるかも分からない細い糸で繋がれている。希有が異界の娘であるために、その糸が太く結ばれることは、あり得ないのだろう。どれほど彼に依存し甘えたところで、最後にはこの糸は切れる。
 どうせ別れが訪れるのであれば、関係など築き上げない方が良いと警告する心もある。
 ――、だが、希有はシルヴィオの傍に在ろうとするだろう。
 少しだけ泣きたくなった心に見ないふりをして、希有は彼の隣を歩き始めた。
 絡め合わせた指が、ひどく、熱かった。
 その熱を繋ぐ糸が切れなければ良いと、一瞬だけ、思ってしまった。