farCe*Clown

幕間 香る花 53

 シルヴィオは、小さく溜息をついて前髪を掻きあげた。
「……、どうしたものか」
 行うべきことは山ほどあるのだが、セシルの気遣いで本日の午後は丸々予定がなくなった。
 思いがけず、唐突に休暇ができたのだ。
 休暇というものは、趣味や好きなことに費やす時間だったと記憶しているが、シルヴィオは特に趣味を持たない。急に時間が空いても、何をすればいいのか分からなかった。
 そうして考えているうちに、シルヴィオの足は後宮の中を進んでいた。気づけば見覚えのある部屋の前に立っていて、思わず苦笑する。
 扉を開けると、ソファに腰掛けている少女の姿があった。
 室内にミリセントの姿はない。足音を立てずに近寄って、彼女の隣に腰掛ける。
 小さな寝息が、シルヴィオの耳に届く。俯きがちな希有の顔を覗き込むと、彼女は目を瞑り寝入っていた。
「……、キユ」
 名を呼んで、そっと頬に手を伸ばす。柔らかな感触に自然と笑みを零しながら、シルヴィオは希有の頬をつついた。
「ん……、シル、ヴィオ?」
 ゆっくりと開かれた闇色の瞳に、シルヴィオの姿が映し出される。驚いたように肩を震わせて、希有はシルヴィオを見上げた。
「寝ていたのか?」
「う、ん……、ちょっと、だけ。……シルヴィオは、休憩?」
 眠たげに目を擦る希有に、シルヴィオは首を振った。
「いや。今日の午後は、丸々休みになった」
「そっか。良かったね、ゆっくりできて」
 会話は直ぐに途切れて、部屋には沈黙が広がった。だが、それは苦しいようなものではなく、不思議と心地よく温かなものだった。
 シルヴィオの隣で、希有が身体を伸ばす。その動きに合わせるように長い黒髪が揺れて、シルヴィの手の甲に触れた。
 その髪を手にとって、希有は首を傾げた。
「……、どうしたの?」
 希有は知らないだろうが、髪の毛一本でも、彼女に触れることのできる事実にシルヴィオは安堵を覚える。彼女が手の届く場所にいるのだと、実感できることが嬉しいのだ。
 指の隙間を通り抜ける黒髪を見つめて、シルヴィオは笑む。
 彼女といると、触れたい、甘えたいという衝動が、シルヴィオの心に浮かび上がる。他人との接触が苦手だというのに、不思議なことに、希有に対しては違う。自分の感情一つで、ここまで違うことにシルヴィオも驚いている。
「少し、……疲れた」
 シルヴィオは身体を倒し、希有の太腿に頭を預けた。
 突然の行動に、彼女は驚いたように身を震わしたが、シルヴィオの様子から何か感じ取ったのか拒みはしなかった。
「……、眠いの?」
 甘く優しい香りがする。苦手な白粉の匂いではなく、赤子のように柔らかな香りだ。彼女の傍が落ち着く理由には、きっと、この香りも含まれているのだろう。
「あまり、寝ていなかったからな」
 セシルが大幅に臣下の異動を行ったために、ここ最近の仕事の量は増した。文句の一つでも零してしまいそうだったのだが、彼がシルヴィオの足場を整えるために行ってきたことであるため、何も言えなかった。
 微々たる変化とはいえ、彼を始めとして、シルヴィオに少しずつ力を貸してくれる者たちも集まってきている。後は、時間をかけて、シルヴィオ自身が己の力を示すしかない。
 希有の小さな手が、シルヴィオの頭を撫でた。
 いつもはシルヴィオが一方的に触れるため、彼女からの接触は珍しい。涙で顔を濡らして縋られた経験なら幾度かあるが、このような穏やかな時間の中で、彼女がシルヴィオに触れてくることなどあっただろうか。
「頭を撫でられるほど、子どもではない」
「でも、安心するよね」
 髪を梳かれ首筋に触れられると、シルヴィオの脳裏を遠い昔の記憶が過る。己と同じ髪色が、過ぎ去った日々の中で風に揺らめいていた。
「昔……、母が、同じように膝枕をして髪を梳いてくれた」
 幼かった時の話だ。何も考えずに、温もりに包まれていることが赦された頃の記憶。あの日の母親の言葉は忘れてしまったが、柔らかな手つきだけは憶えている。
 希有の手は、母と似ても似つかない子どもような手だ。それでも、彼女と母が似ていると思ってしまったのは、何故なのだろうか。
「穏やかな、心でいられた」
 あの頃は、何も知らなかった。真綿で包まれるように守られて、温かな想いばかりが心を満たしていた。痛みや苦しみなど知りもせず、世界がこんなにも生き難い場所だとは見えていなかった。

「愛されていたんだね」

 希有の唇から零れ落ちた言葉に、シルヴィオは目を見開く。
「……、どうして、そう、思う?」
 シルヴィオがいなければ、あるいは女児であったならば、母は自由を奪われることはなかった。ローディアス公爵家から出られないまま、息を引き取ることなどなかったのだ。
 二十を過ぎて、母親の幻影を見る自分は、随分と滑稽だとは思う。
 だが、優しい手を憶えているからこそ、いつまでも母であった人の存在が忘れられないのだ。
 自分は母を不幸にしていたのではないか、と、心の暗雲は晴れない。
「触れたいと思えるのは、その人に好意を持っているからだよ」
 柔らかに微笑して、希有は再びシルヴィオの髪を梳いた。細い指がうなじを撫で、耳朶に触れる。壊れ物を扱うような手つきだった。
「愛していないなら、……触れようなんて思わない」
 彼女は、気づいているだろうか。
 その声が、どれほど優しい響きを持っているか、きっと分かっていないのだ。シルヴィオに触れる手の柔らかさにも、気づいてはいない。
 愛しまれていると自惚れてしまいそうだ。

「まるで、愛の告白だな」

 触れてくる手に、確かな想いが籠められていると思っても、構わないだろうか。
「……もう、変なこと言うなら、落とすよ」
 言葉は冷たいが、その顔には笑みが浮かんでいる。痛みを堪えて泣きそうな顔も好きだが、やはり、彼女には笑顔の方が似合っている。笑っている方が、幸せそうに見える。
「それは、困るな」
 シルヴィオは、そっと目を閉じた。
 安堵して身を任せられることは、己の中で少女が特別になっている証だ。
 それは、希有がシルヴィオを害さないと思っているからではない。彼女にならば殺されても良いと、シルヴィオは心の何処かで思っているのだろう。
 自分が綺麗な末路を迎えられないことは、シルヴィオ自身が分かっている。それならば、少女の手にかけられる方が幸せだと、時折、思う。
 歴代のほとんどの王は、誇りを穢して散る。シルヴィオは、そのようにならない、強い王になるために育てられた。
 だが、末路は、そう変わらないはずだ。穏やかに息を引き取ることなど叶いはしない。
「……、シルヴィオ?」
 シルヴィオは、先王のように、国を腐らせかけてまで善人であろうとは思えない。これから歩いて行く道、既に歩き始めた道は、無血の道ではないと知っている。
 シルヴィオの行いのすべてを、希有は受け入れてくれるだろうか。何も言わずに抱きしめてくれたならば、それだけでシルヴィオは救われる、前を見据えて国のために生きていける。
 だが、すべてを受け入れろと言うには、希有があまりにも儚いことも知っていた。
「おやすみ」
 柔らかな囁きと共に頭を撫でられ、シルヴィオは眠りに落ちる。

 夢か現か、優しい花の香りがした。

 この香りに包まれる最期は望めないが、叶うだけ長く彼女を傍における未来を、シルヴィオは望む。