farCe*Clown

幕間 春の訪れ 55

 古びた本特有の匂いが鼻をくすぐる。
 希有は、先日、アルバートから渡された紙に書いてある本を探していた。
 指定された棚を指でなぞりながら探せば、不自然に膨らんだ本があった。題名から判断するに、おそらく、歴史書だと思われる。その本を取り出して開くと、中に薄い冊子が挟まれていることに気付く。
 冊子の表紙には、オルタンシアと思わしき名が刻まれていた。おそらく、これが希有の探していた本だろう。
 冊子を挟まれていた本に戻して、希有は歴史書ごと本を腕に抱えた。
 急いで書庫の入口へ向かうと、控えていたミリセントが首を傾げた。
「まあ。随分と厚い本をお読みになるのですね。お時間がかかりそうですわ」
 今まで簡単な本ばかり読んでいた分、小難しそうな歴史書を持っていることを疑問に思ったのだろう。探るような彼女の視線に、希有は気付かないふりをした。
「そうだね。……、あ、ミリセント。シルヴィオには、本を借りたことは秘密ね」
「構いませんが……、どうしてですか?」
 わずかに眉をひそめたミリセントに、希有は嘘をつく。
「秘密で勉強をして、後で驚かせたいの」
 ミリセントは、目を瞬かせた後、柔らかな微笑みを浮かべた。
「そういうことでしたら、陛下には黙っておきます。キユ様と私の秘密ですね」
 ミリセントを口止めをするためには、シルヴィオの名前を引き合いに出せば良いことは分かっていた。罪悪感がないわけではないが、このことをシルヴィオに知られるわけにはいかないのだ。


 それが、今から、二月ふたつきも前のことである。

 テーブルの上に載せられた薄い冊子を見て、希有は小さく溜息をついた。中々進まないのは、希有に勇気がないからではなく、一人になる時間が少ないせいだった。
 日中は、ほぼ四六時中ミリセントが一緒である上に、そうでない時はシルヴィオが訪ねてきたりする。夜中に読もうにも、あまり遅くまで明りを点けていると、ミリセントが不審がって部屋に入って来るのだ。
 二人がいる時に読めば良いのかもしれないが、勝手に調べ物をしていたことに関しての後ろめたさがあって、今さら大っぴらに二人の前で読めない。
 今日とて、珍しくミリセントが不在だから読み進めようと思っていたのだが、生憎と午後からはシルヴィオが訪れると聞いていた。
 オルタンシアの研究記録を寝台の中に隠して、希有は懐から一つの鍵を取り出した。
 希有の気がかりは、何もオルタンシアの研究記録のことだけではなかった。
「この部屋の主は、貴方を待っている、か」
 ヴェルディアナから渡された鍵を目の前に翳して、希有は呟いた。公爵家の人間ですら場所を知らない部屋には、一体、何が待ち受けているのだろうか。
 ――、いずれにせよ、希有は様々なことを知らなければならない。今までの無知を捨てて、多くを学ぶ必要があると感じていた。
 希有は一度伸びをしてから、立ち上がる。部屋の窓を開ければ、爽やかな午後の陽気が差しこんでくる。
 外を見渡せば、名も知らぬ花が咲いていた。
 ――、春の訪れは近い。
 こちらに来てから一年の時が経つのだ。
 今地球に帰ったところで、留年は確定だろう。こちらと地球の時間の流れが異なると言うこともあり得なくもないかもしれないが、それは希有の願望に過ぎない。
 たとえば、このまま帰ったとして、――希有の周囲は何か変わっているだろうか。
 きっと、以前よりも状況は悪くなっているに違いない。姉を行方不明にしておいて、今度は自分自身も行方不明だ。地球で再び生活をし始めたとしても、冷たい目に晒されるだけだ。
 窓から入り込んだ風を吸い込んで、希有は深呼吸した。ふとした瞬間に、考えないようにして来たことが頭に浮かんでは消えていく。
 ただの高校生だった自分は、いつの間にか一国の妃だ。
 無論、その肩書は名前だけのものだと分かっている。シルヴィオと希有の関係は、男女間の恋愛とは、かけ離れた位置にある。手を繋いだり、抱きしめたり抱き締められたりとしているものの、そこに甘い雰囲気が流れていたかと言えば首を傾げてしまう。
 あれは、傷のなめ合いだ。だから、時折、希有は自分とシルヴィオの関係を考えてしまう。
 シルヴィオと自分は恋人ではない。名目上は夫婦であろうとも夫婦でもなく、だからと言って、友人とも言えない。
 言葉にすることが難しい関係で、希有自身、どのような関係にあるのか良く分からない。
 窮屈だと感じることもなく、希有はこの地で過ごしている。まるで、物語のお姫様のような暮らしをさせてもらっているのだ。初めの半年は、生活になれることや、環境の変化について行くのに精いっぱいだった。それ故に深く考えないようにしていたが、希有は自分に過ぎたものを与えられている。
「……、似合わない」
 お姫様なんて、おそらく、一生似合わない言葉だ。
 どれだけ憧れを抱いたところで、そうなれるはずがないことは、自分が一番良く分かっていた。仮初かりそめだと言うのに、このような生活を受け入れて生きている自分が信じられない。
「何が似合わないんだ?」
 突然、背後から聞こえた声に、希有は身を強張らせる。恐る恐る振り返ると、案の定、シルヴィオが直ぐ傍にいた。
「……、いきなり部屋に入って来ないで」
「気付かないお前が悪い」
 飄々と返したシルヴィオに、希有は苦笑いした。
「珍しいね、シルヴィオが昼間から来てくれるなんて」
「なんだ、嬉しくないのか?」
 悪戯な笑みを浮かべるシルヴィオに、希有は口を噤む。
 疲れているだろうに、無理して会いに来てくれることは少なからず嬉しいのだが、それを素直に口に出せたら苦労はしないのだ。
 この心を伝えたいとは思うが、それを実行するのは、ひどく難しい。
 わずかに頬を染めた希有を見て、シルヴィオの笑みが、ますます性質の悪いものになっていく。
 それに耐えきれず、希有は、無理やり話題を変えようと、シルヴィオの持っている箱に視線を遣った。
「その箱は、何?」
「気になるのか?」
 シルヴィオの問いに、希有は素直に頷いておくことにした。これ以上、からかわれるのは我慢ならない。
 彼が骨ばった指で箱を開けると、中には薔薇の髪飾りが入っていた。彼の髪色に似た淡い赤色の薔薇の造花だ。
「……、綺麗」
 思わず零れ落ちた言葉を拾って、シルヴィオは薔薇の髪飾りを手に取った。
 そして、彼は希有の黒髪にそれを飾った。
「ああ、思った通りだな。良く似合う」
 シルヴィオは希有の手を引いて、強引に鏡台の前に座らせた。鏡に映る希有の黒髪に、薔薇の髪飾りが良く映えていた。
「気に入ったか?」
 鏡面越しに、シルヴィオの満足そうな表情があった。
 希有は自然と笑みをこぼして、貰った髪飾りに触れる。
「……、ありがとう。シルヴィオ」
 途端、虚をつかれたように、彼は目を丸くした。そして、苦い顔をして希有の頭を撫でる。彼がそのような表情をする度に、希有は少しだけ居た堪れなくなる。
「……、さて。俺は、少し休憩したいんだが」
 春の光を浴びた若草の瞳が、希有を映し出す。その奥にある真意に気づいて、希有は溜息を吐いた。
「前みたいに膝枕しろって?」
 立ち上がった希有がソファに向かうと、彼も続く。
「髪飾りの、お礼だからね」
 ソファに座って、言い訳のように口にした希有に、シルヴィオは眉を下げた。
「そこは、純粋なる好意であってほしいところだが、な」
「……、もう、莫迦言わないで」
 希有の膝に、彼の頭が載せられる。桜色の柔らかな髪が黒いドレスの上に散らばった。
 暫くすると、膝の上から幽かな寝息が聞こえてくる。その安らかな寝顔に、希有は苦笑した。
「……、偶然、だよね」
 彼の瞼が固く瞑られていることを確認してから、希有は呟いた。
 盗蜜者は、時間さえも地球を真似したかのように流れている。特にリアノの気候は日本に似ていて、当然のように四季があった。
 飾られた髪飾りに触れると、確かな感触がある。

「お誕生日おめでとう。美優ちゃん」

 穏やかな風と共に、名も知らぬ花が一片、室内へと舞い込んだ。
「もう、十八歳だね」
 隣にあの子がいなくなってから、何回目の春を迎えるのだろう。冬が終わり春を迎える頃には、希有とあの子の生まれた日が訪れる。
 ――、この世界に来て、希有は一つ歳を重ねるのだ。
「……、ごめん、ね」
 鏡に映る自分は、きっと、十八歳のあの子と同じ顔をしている。
 あの子が生きていたならば、今の希有の姿をしていたのだ。
 相手のいない謝罪に、意味はない。あったとしても、それは罪悪感を紛らわすための最低な言葉でしかない。
 それを知りながらも、言わずにいられない弱さ。
 あの子ではない彼が、希有の生を認めてくれている。居場所を作ってくれる。そのことが堪らなく嬉しくて、幸せだと、思ってしまった。

 眠る美しい人の頬に触れて、希有は目を伏せた。