farCe*Clown

第二幕 砂上に築いた城 65

 春島梨乃の姿を見てから、何をするにも認めたくない現実が胸を穿ってしまう。
 日暮れを迎える前、あたりがようやく薄闇に包まれ始めた時刻、ミリセントは寝台に横たわる希有の額に手をあてる。
「熱はないようですが、念のため、あとでアルバート様をお呼びしましょう」
 希有の額にかかった前髪を優しく払い、彼女は心配そうに希有に視線を遣った。
「何か仰りたいことがあれば、遠慮なさらずに。ずっと、お悩みだったでしょう? わたしはキユ様より年上ですから、もしかしたら、お力になれるかもしれません」
 できるだけ柔らかにゆっくりと口にしたミリセントに、希有の瞳に思わず涙が滲む。こんなにも情けない姿を晒した自分を、彼女は慮ってくれているのだ。不謹慎だと分かっていながら、そのことが泣きたくなるほど嬉しかった。
「大切な人が自分とは違う誰かを見ていた時……、どうすればいいのかな」
 零れ落ちた言葉と共に、涙が一筋流れる。弱さなど見せたくなかったのに、必死になって張っていた虚勢が剥がれ落ちていく。
「どうしようもないわたしを、大事にしてくれて……、救って、くれた。手を伸ばして、傍にいて、くれたの。だけど、……あの人は、最初からわたしなんて見ていなかった」
 ――シルヴィオの脳裏には、いつだって微笑む美優がいたのだろう。彼女に良く似た出来損ないを見て、彼は何を感じていたのだろうか。
「それを、相手の方が仰ったのですか。キユ様に向かって」
「ううん。でも、言われなくたって分かるよ」
 希有と美優を比較しない者など、誰一人存在しなかった。皆が皆、優秀な姉に硝酸を、不出来な妹に嘲笑を贈った。
「勘違い、かもしれません」
「そうだったら、……良かったのにね。ごめん、少し一人にして」
 気遣いを見せるミリセントを拒絶して、希有は深く毛布を被る。
「キユ様。それは、少なくとも貴方が決めることではありません。――それでは、あまりにも陛下が可哀そうです。どうか、話し合ってくださいませ」
 彼女の言葉は正論だったが、希有にはシルヴィオと話し合う気はなかった。
 美優の存在を問いかけて肯定されてしまった時、どうすれば良いのだ。シルヴィオの口から、美優の代わりだった事実を突き付けられることが恐ろしかった。
 否、代わりで済むならば、まだ良い方かもしれない。自分では美優の代わりになれないと、希有自身が誰よりも分かっている。
 毛布を被って真っ暗になった視界の中、零れ落ちる涙を乱暴に拭う。泣いているだけでは何も解決しないというのに、次から次へと零れ落ちる涙は止まらなかった。
 不意に、部屋の扉が開かれる音がする。ゆっくりと近づいてくる足音は、希有のいる寝台の傍で足を止めた。
「ミリセント……? 一人にしてって、言ったよね」
 毛布から顔を出した希有は、傍に立つ人物に絶句した。
「シル、ヴィオ」
 そこに立っていたのはミリセントではなく、希有が最も会いたくなかったシルヴィオだった。
「泣いて、いたのか……?」
 薄闇に浮かぶ白い肌をした美しい男は、春の日に照らされた若草の目を見開いた。
 何か言わなければならないと思うのに、喉の奥が渇いて声が出ない。顔から血の気が引いていき、寒くもないのに身体中が小刻みに震えだした。
「具合が悪いと聞いていたのだが……、泣くほど辛いのか?」
 骨ばった指先を希有の頬に伸ばして、シルヴィオは心配そうに眉をひそめる。
 その声が、手が、あまりにも優し過ぎて、まるで真綿で絞殺されていくような錯覚がした。彼が滴らせた甘い毒が、少しずつ心を麻痺させて、絡め取っていく。
 ――その声に、手に、本当は心など籠められていないくせに。
 淡い薄紅色をした柔らかな髪に手を伸ばして、希有は顔を歪めた。こうして手を伸ばしたとしても、彼の瞳に映るのは自分ではない。
「どうした。お前が甘えてくるなんて珍しい」
 自らの髪に伸ばされた希有の手を掌で包み込んで、彼は微笑む。大きな手が与える温もりが心地よくて、血が滲むほど強く唇を噛みしめた。
 ああ、この手は決して希有のものにはならないのだ。
「優しく、しない、で」
 伸ばされた手も、抱きしめてくれた腕も、温もりをくれた身体も、全部が全部、美優に与えられるべきものだ。代わりとして注がれた感情を、己に向けられたものだと思い込んで浮かれていたのだ。
「キユ?」
 これでは、ただの道化だ。
 自分には決して与えられるはずのないものを、自分のものだと勘違いして受け取って、真実を知らぬまま舞台に立っていた。
 与えられたすべては、自分には過ぎたものだった。臆病なまでの猜疑心で、その優しさを最後まで疑うべきだったのだ。どうして、希有は彼を信じてしまったのだろうか。莫迦みたいに心を傾けてしまったのだろうか。
 疑い続けていれば、裏切られても傷つくことはなかった。
 彼の頬から手を離して、希有は血の滴る唇を開いた。

「美優ちゃんが、好き、だった?」

 喉奥から絞り出した名に、シルヴィオは凍りついた。滅多に動揺を見せることなどないのに、彼の瞳は驚きのあまり揺れていた。
「ごめんね、美優ちゃんじゃなくて」
 希有を愛してくれた、たった一人の姉。皆から望まれるべき、世界に愛されるべき少女。醜い自分が影ならば、彼女は影さえも隠して守ってくれた光だった。
 美優は、希有の欲しいものすべてを持っていた。
 羨ましくて妬ましくて恨めしくて、――それでいて、好ましくて愛しくて誇らしかった。
「失望、したでしょ? わたしと美優ちゃんが、似ていなくて」
 姿形は瓜二つでも、中身がまるで似ていなかった。
 父母が離婚して間もない頃、美優ちゃんのようにはなれないと言った希有を、努力もしないで決めつけるな、と実父は罵倒した。父は心の何処かで、美優と同じ遺伝子を持って生まれた希有は何かしらの潜在能力を持っている、美優と同じになれる可能性を秘めていると信じたかったのだろう。
 希有が怠けているのだと思い込むことで、父は自らの心を軽くしたかったのだ。
 皆が言うような努力であるならば、美優よりも多くこなした。初めから大きな差が開いているのだから、彼女より多くを学ばなければ希有は美優に追いつけない。
 それでも、希有が努力した分を平気で美優は踏み越えていった。控えめな笑顔で、こんなの大したことない、と言った彼女を憎いと思ったのは、いつだっただろうか。
 愛していても、――愛しているからこそ、憎くて堪らなかった。あの子と同じになれない、美優の成り損ないとして生まれた自分が呪わしかった。
「同じに、なりたかったよ。美優ちゃんみたいに、皆から愛してもらえるような子になりたかった……」
 あの子の苦しみを知らない希有の勝手な言葉だが、それでも、同じになりたかった。
「だって、同じになれたら、……シルヴィオは、わたしのこと棄てない」
 零れ落ちた涙が、次々と床に滴り落ちた。
 みっともなく泣いて縋りついて嫌われたいわけではないのに、流れ落ちる滴は止まることを知らず、頬を滑り落ちていく。
 いつから、自分はこんなにも泣き虫になってしまった。
「棄てるのは……、俺ではなく、お前の方だろう?」
 一言一言を噛みしめるように、困惑したような顔でシルヴィオが口にする。
「何も知らないお前は俺に縋るしかなかった。俺を頼るしかなかったんだ……、俺がそうなるように仕向けた」
「ちが、う」
「俺以外にも、お前を助けてくれる者がいる。だから、俺がいなくとも、お前は……」
 寝台の上から身体を起こし、キユはシルヴィオの腕を強くに握りしめる。
「そんなの関係ない。一緒にいたいから、隣にいた……! 他の誰でもないシルヴィオが望んでくれたから、わたしはっ……!」
 この世界が、好きになった。
 居心地の良い場所を与えてくれたのは、隣に居場所を作ってくれたのはシルヴィオだった。どれほど希有の世界が開けたとしても、誰よりも傍にいたいと願うのはシルヴィオただ一人だ。
 それを、仕向けたなどと言わないでほしい。たとえ、この想いの始まりが彼の仕向けたものだったとしても、それは今も色づく想いの切欠でしかないことを、どうして分かってくれないのだ。
「帰りた、くない」
 零れ落ちた言葉と共に、希有は崩れ落ちた。
 この場所を、シルヴィオを愛おしく思い始めた時から、すべては手遅れになっていた。帰りたくない、この場所にいたいと、心が悲鳴を上げていた。
 帰らなくてはならない。――幸せになることなんて、幸せを望むことなんて赦されないと分かっているのに、本音が零れ落ちる。
「美優ちゃんには、なれないけど……っ、頑張るから、だか、ら」
 同じには、なれない。
 それでも、彼が傍に置いてくれるならば希有は最大限の努力をする。
 頑張って見せるから、どうか――。
「棄てないで、シルヴィオ」
 瞬間、シルヴィオが強く希有の身体を抱きしめた。
 シルヴィオは、希有の言葉に対して何も言わなかった。
 応えてくれないことくらい分かっていた。だが、心のどこかで期待していたのかもしれない。
「すてない、で」
 本当に、恐れているのは、――彼に見捨てられることだ。
 美優の代わりとして求められるのが辛かったのは、同じになれない自分を知っているからだ。決して彼女になれない自分は、いつか、シルヴィオに手酷く棄てられる。
 背を撫でる腕は優しいのに、何も言わない彼の唇は残酷だった。
 中途半端に傍にいて辛くなったのは、希有の方だ。何もかも捨てて、縋りついて縛りつけてしまいたいのに、その術を知らない。
 どうすれば、彼が隣にいてくれるのか分からない。

 縋りつくように彼の背に腕をまわして、希有は涙に濡れた頬をその胸にすり寄せた。