farCe*Clown

第三幕 砂中で生まれた子どもたち 66

 シルヴィオは目の前に座る女――サーシャ・ウル・レイザンドに気づかれぬように、小さく溜息をついた。仕事の一環とはいえ、他国の王女と何度も顔を合わせるのは気疲れがする。
 退屈な時間を紛らわすように、シルヴィオはサーシャから意識を遠ざけ、数日前に泣かせてしまった少女に思いを馳せる。
 希有が双子の姉について知ったと聞いて、シルヴィオは思いの外早かったと感じた。いつか彼女は隠し事の一端に気付くだろうと思っていたが、それはもっと先のことだと考えていた。こんなにも早くことが露見したのは、アルバートが彼女を唆した結果に違いない。
 余計なことをしてくれたと苛立ちを覚えたが、蓋を開けてみれば悪くない状況だった。
 秘されていた事実を知り打ちのめされた希有は、シルヴィオに縋って心の内を明らかにしてくれた。彼女は紛れもなく己を想ってくれている。すてないで、と縋ってきた少女の瞳に浮かんだ涙を見て、シルヴィオの中に芽生えたのは仄暗い喜びだった。
 希有は自らシルヴィオを求めた。何一つ繕うこともできず、感情のままに縋ってきた。今まで頑なに拒んでいた一線を超えてしまったことに、傷心した彼女は気付いていないだろう。
 ――これで、きっと、彼女を繋ぎ止めることができる。
「先日、あの娘に会った」
 唐突にサーシャが零した言葉に、シルヴィオは顔をあげる。薄いヴェール越しではあるものの、彼女が微笑んでいることが良く分かった。
「聞いています。あれが世話になったようですね」
「なに、世話になったのはこちらの方だ。楽しませてもらった」
 本音は知らないが、少なくとも彼女の声に希有に対する嫌悪や侮蔑は感じられなかった。
「実際に話してみて、……このような場所には似つかわしくない、愛らしい娘だと思ったよ。妾妃など辞めさせて、誰かに嫁ぎ直させた方が余程幸せに違いない。妾につけてくれた医師などどうだ? 年も近そうだ」
 さも素晴らしい提案をするかのように声を弾ませたサーシャに、シルヴィオは曖昧な笑みを浮かべた。
「以前も申しましたが、サーシャ様には関係のないことです」
 漸く繋ぎ止めることができたというのに、何故、手放さなければならないのか。
「元々、そう在るように育てられた妾たちと違い、市井で育てられた娘なのだろう? 籠の鳥として死んでいくには、あまりにも幼く哀れだ」
「籠の鳥でなければ生きられぬ娘もおりましょう。――昔、リアノだけの問題だと切り捨てて口を噤んだように、今回も何も言わずに黙していたらいかがですか」
「昔、ねえ。……さて、何のことやら」
 サーシャは肩を竦めてころころと笑う。
 彼女がはぐらかすのも当然だった。昔――カルロスが王子だった頃に起きた、両国に禍根を残す結果となった事件を、レイザンドは決して認めない。前女王が犯した罪の証がリアノで生きながらえていることを知りながら、昔と変わらずその存在を肯定することはない。
 認めてしまえば、自らの神性を否定することとなってしまう。レイザンドの王族は父なる神の手によって生まれ、彼と子を成す。彼の国において王族を王族たらしめる理由は、男神の子であり伴侶であるという神性だ。
 ――女王が他国の男の子どもを孕んだ過去など、抹消してしまいたいに決まっている。
「そろそろ失礼します。未婚の女性の下に長く留まるのも失礼でしょう」
「気にしなくても結構。妾は男神の娘にして伴侶の一人。未婚の女ではないからな」
 立ち上がったシルヴィオは彼女に別れを告げ、傍に控えていた護衛と共に退室しようとする。
「シルヴィオ・リアノ。明日の会談、楽しみにしている。妾はリアノとは仲良くしたいのだ」
 護衛を引きつれて歩き出していたシルヴィオに、彼女は楽しげに投げかける。
「ええ、明日は宜しくお願い致します」
 唇を釣り上げた彼女に、シルヴィオは作り笑いを向けた。


              ★☆★☆★☆              


 後宮内での仕事を終えたアルバートは、前方から歩いてくる人影に盛大に顔をしかめた。できる限り顔を合わせたくないというのに、何故、こんなにも頻繁に遭遇してしまうのか。
「……ああ、アルバートか。ご苦労だったな」
 こちらに気づいたシルヴィオは、興味なさそうに小さく呟いた。
 随分と披露が蓄積しているらしく、恐ろしいほど整った顔は青白く血の気が失せていた。立て続けに様々なことが起こった上に、今は国賓を迎えている最中だ。いくらシルヴィオとて疲弊するのだろうが、全くもって同情は抱かなかった。
 むしろ、顔を見るだけで怒りが湧いてくる始末だ。
「どうして、何もしないんだ」
 零れ落ちたアルバートの問いに、シルヴィオはわざとらしく首を傾げる。何もかも理解しているだろうに、白を切る男に対して苛立ちが募る。
 ――ここ数日、希有が塞ぎこんでいるのは、ミリセントから聞いている。アルバートが彼女を唆したことも原因の一端を担っているが、根本的な問題は別の場所にある。
 すべての原因は、この男が少女に何一つ告げることなく身勝手に行動して来たことだ。真綿で包み込むように彼女の目と耳を奪ったから、隠し事の一端が明らかになっただけで、希有はあんなにも揺らいでしまった。
「キユが傷つくと分かっていながら、身勝手に行動してきたんだろ。それが彼女にとっての幸せだって決めつけて」
 寄る辺のない異界の娘を、シルヴィオはゆっくりと柔らかな檻へと囲いこんだ。己だけが絶対の守護者になるために他者を遠ざけて、閉ざされた籠の中に少女を導いた。手の届く場所に閉じ込めて守ってあげることが、彼女にとっての幸せなのだと傲慢にも男は決めつけた。
 それならそれで、アルバートは良かったのだ。異界の娘である希有には絶対の守護者が必要で、市井で生きていくことなど端から不可能な話だった。希有を騙し繋ぎ止めることになったとしても、シルヴィオの下にいる限り彼女は守られる。
 何より、彼女自身がシルヴィオに寄り添うことを望んでいた。
 不満などなかった。友だと言ってくれた憎らしい少女が笑ってくれるならば、それが殺したい男の隣であっても耐えることができた。
「どうして、今、傍にいてやらないの? ……卑怯な手を使って繋ぎ止めたくせに傷つけたまま放りだすなら! 始めから手を伸ばしたりするなよ」
 目の前の男が、彼女を傷つけたまま放り出していることが赦せなかった。自分が望んだすべてを持っていたくせに、それらに何の価値も見出さず壊していった男だ。彼女もまた同じように壊してしまうのか。
 銀色の眼で彼を睨みつけたアルバートは、震える唇を開いた。
「要らないなら、手放すなら……、僕にちょうだい」
 シルヴィオが彼女を手放したなら、アルバートがその手を握ることに何の問題があるのだ。彼が棄てるなら、それを拾うことの何が悪いのだ。
 黙ってアルバートの声に耳を傾けていたシルヴィオが、ゆっくりと首を横に振った。日に照らされた若草の色をした瞳は異様に凪いでいて、思わず息を呑んでしまう。
「たとえ嫌われ憎まれたとしても、どれだけ傷つけることになったとしても、それで手に入るなら構わない。俺は俺の幸福のために、あれを囲う」
 それは、何とも身勝手で傲慢な――呪いの言葉だった。たった一人の少女を繋ぎ止めるために、かつて虚ろだった男が抱いた狂気にも等しい感情だ。

「決して渡さない。あれは俺のものだ、アルバート」

 青く燃える炎に似た静かな怒りを声に滲ませて、シルヴィオは吐き捨てた。彼はアルバートの横を通り抜けて去っていく。その姿を振りかえったアルバートは舌打ちをした。
「……っ、それは、お前だけじゃないだろ。ばかみたいだ。そんなに手元に置いておきたいなら、どうして向き合わないんだよ」
 シルヴィオが己の幸福のために希有を求めていたと言うならば、それは彼女も同じだろう。自分の幸福には相手が必要不可欠だと信じて、彼らは己のために互いを求めていたのだ。細く繋がった糸が切れぬように、恐る恐る手を伸ばし指を絡め、依存しあうことによって二人だけで完結した世界を作り出した。
 これは二人の問題だ。アルバートが憂慮する必要などなく、二人の関係性が壊れるなら壊れるで何の不都合もない。むしろ、彼らの関係がこじれることを自分は望んでいたはずだ。シルヴィオのいない隙に甘やかしてやれば、少女はアルバートに心を傾けるかもしれない。
 ――それなのに、どうして、こんなにも胸が痛くなるのだ。ただ独りきりで涙しているかもしれない少女を思うと、心が落ち着かない。
「キユ」
 たった一人の友の名を声に載せ、アルバートは拳を強く握りしめる。
 初めはシルヴィオに対する嫉妬が大半を占めていた。彼を裏切り殺すことを諦めてからも、羨望や劣等感が消えたわけではなかったのだ。彼のように愛されないならば、せめて、――彼が大切にしている存在を、自分のものにしてしまいたかった。
 それなのに、共に過ごすうちにアルバートはいつの間にか囚われていたのだ。異界の娘であるが故に、彼女は無自覚にアルバートたちの中に踏み込んでくる。何も知らぬ娘は、くだらない同情心だけで誰にも愛されることのなかった子どもの心を抉じ開けた。
 希有はアルバートのことを赦してはいなかっただろう。シルヴィオを大切に想っている彼女は、彼を裏切った自分を赦しはしない。それでも、彼女はアルバートを友だと言う。都合の良いことだね、と言えば、そうだねと寂しげに彼女は返してきた。決して振り向きはしないくせに、彼女は友としての感情をアルバートに与える。
 惹かれたのはきっと、シルヴィオを想って笑う彼女だ。弱くて偽善的で愚かで、どうしようもない少女が、誰かを想える強さを持った姿に焦がれたのだ。この想いなど始まった瞬間から報われないことが決まっていた。彼女の心は、出逢った時からすべて憎い男のものだった。
「ばかは、僕か」
 シルヴィオは希有を傍に置くことができれば、満足なのかもしれない。どれだけ傷つけ、憎まれることになったとしても、彼は隣に希有がいれば幸せなのだと胸を張るだろう。
 だが、それでは彼女は幸せになれない。
「僕は君の友だ。――友だちは、心配し合うものだ。そうだよね? キユ」
 アルバートはそっと目を伏せて、深く息を吸う。そして、ゆっくりと瞳を開けた時には、覚悟は決まっていた。