farCe*Clown
第三幕 砂中で生まれた子どもたち 67
ソファの上で膝を抱えて、希有は固く目を瞑った。悲しいという感情さえ通り越して、まるで反射のように涙が絶えず流れていく。塩辛い味が舌を刺激し、嗚咽が零れ落ちる。
泣いたところで、何一つ変わらない。時間ばかりが無為に過ぎていき、黒ずんだ心はよりいっそ澱み沈み込んでいくだけだ。
何度も部屋を訪れ世話を焼いてくれるミリセントにさえ口を利かず、優しい彼女に心配をかけ続けている。自分のことばかり考えている酷い人間だと思うが、何も知らない彼女とさえ向き合うことができなかった。
不意に、部屋の扉が開く音がした。何時頃なのか知らないが、ミリセントがまた食事を運んできたのかもしれない。
「キユ」
だが、己の名を呼ぶのは柔らかな彼女の声ではなく、少年らしい瑞々しい声だった。
恐る恐る顔をあげた希有の目に飛び込んできたのは、燃えるような赤毛の少年だ。シルヴィオよりもよほど王族らしい銀の目を細めて、彼は背を丸くした希有を見ていた。
唯一と言ってもいい友人の姿を目にしても、希有は座り込んだまま動くことができなかった。胸元で拳を握りしめ、彼が部屋から出て行くことを待つ。
「思いの外、元気そうだね」
彼の言葉に応えることなく、希有は唇を閉ざしたまま目を伏せた。今すぐに部屋から立ち去ってほしかった。希有がどれだけ滑稽なことをしていたのか、かつて公爵家の一員だったアルバートは知っているはずだ。
――彼は、シルヴィオと共にいた美優の姿を見ているのだから。
やがて、何の反応もない希有に痺れを切らしたのか、アルバートが大股で近寄って来る。彼は俯いた希有の髪を掴んで、無理やり顔をあげさせた。泣き腫らした赤い目で睨みつけると、彼は希有の髪から手を離して口元をわずかに歪める。
「ねえ、君は何を嘆いているの?」
小さな声が、静寂に包まれた室内に響いた瞬間だった。
彼の腕がしなり、希有の右頬を強く張った。何一つ手加減などされていなかった。渾身の力の籠められた彼の平手に、希有の身体はソファから落下して床に倒れ込む。打たれた頬の熱さと打ちつけた身体に走る痛みに、希有は思わず顔をしかめた。
突然の暴力に怒りが湧きあがり顔をあげた希有は、目を見開いて絶句した。
――そこには、今にも泣き出しそうな少年の姿があった。
「謝らないよ」
暴力を振るわれたのは希有であるはずなのに、真に傷ついているのは彼のようだった。その姿が泣くのを堪える小さな子どもと重なる。唇を強く噛み締めて、彼は強い眼差しで希有を見下ろしていた。
「君は何を望んでいたの。何を、あいつに求めていたの」
希有は双子の姉を醜い嫉妬心で突き落とした罪人だ。醜い心根によって彼女の道を閉ざし、よりにもよって自責の念に駆られ、自分を憐れんでさえいた愚か者だ。
それにも関わらず、棄てられない望みが、胸に抱くことさえおこがましい願いがあった。
――望んでいたのは、誰かに愛してもらうことだ。
「何もあげられないのに……、そんなわたしを選んで、欲しかったの」
何でもできる美優ではなく、何もできない希有を選んで欲しかった。いつか誰かが希有を選んでくれると、蹲って顔を伏せたまま傲慢にも願っていた。世界で一番不幸な顔をして、ひたすらに誰かが救いを与えてくれることを祈っていたのだ。
きっと、その救いをシルヴィオに求めていた。甘やかしてくれるから、ここにいて良いと囁いてくれたから、もしかしたら愛してもらえるのではないかと勘違いをした。何もしていない、何もできない自分が彼に与えられるものなど全て紛い物にしかならないと知っていたはずなのに、気付かぬふりをした。
――泣いてもいい、なんて何の価値もないありきたりな言葉を、魔法だなんて嘯いたのだ。
「莫迦だよね。美優ちゃんの代わりになれない出来損ないが、選ばれるはずなかったのに」
シルヴィオが求めていたのは美優の代わりだった。だが、代わりとしての役目など、希有に果たせるはずがなかったのだ。
「シルヴィオが、可哀そう。代わりにもなれない出来損ないだと気付いた後も、わたしを目の届く場所に置いておかないといけない。わたしが……、彼の権利を持っているかもしれないから」
一年前、処刑されそうだった希有を助けたシルヴィオは、リアノの王の血に宿る蟲――世界から賜った権利について話してくれた。当代の王族の内たった一人にしか赦されないその権利は、他人に譲渡されるはずのないものだ。
だが、その権利が譲渡こそしなかったものの希有の体内に伝染している可能性があると、あの日の彼は口にしたのだ。それを見極めるまでは傍にいてもらわなけらば困る、と笑っていた彼のことを今でも良く憶えている。
「ああ、君は本当に莫迦だよ。忘れないで。シルヴィオは、とっても嘘つきなんだ、と僕は忠告したのに」
アルバートは皺の寄せられた己の眉間に指をあてながら、重たい溜息をついた。瞳を揺らした希有と視線を合わせるように屈みこんで、彼は幼さの残る顔に苦笑を浮かべた。
「王族が特別なのは、盗蜜者の一部を自由に操ることができるから。その権限を世界から賜っているからだと、知っているよね」
希有は小さく頷いた。それはシルヴィオから教えてもらっていたことであり、オルタンシアの研究記録にも載せられていたことだった。
「そんな重大な権限が、……盗蜜者の一部を統制する役割を持った人間が容易く増えるのは、おかしいと思わなかった? 同じ権限を持っている人間が複数いれば世界に起こるのは混乱だ」
アルバートが何を言いたいのか察して、希有は思わず目を見張る。
この世界は意志を持った世界。己の幸福のためにすべてを操る、全知全能の神にも等しき存在。その神が己に不利益となる存在を赦すことなど、認めるはずがなかった。
「王族の蟲が他人に伝染するなんて有り得ない。シルヴィオは嘘をついたんだよ。その理由は、言わなくても分かるだろう?」
気付けば、希有の頬を次々と涙が伝っていた。アルバートに言われずとも、シルヴィオが嘘をついた理由は良く分かった。
――嘘をついてでも、彼は希有を隣に置いておきたかったのだ。
何の利益にもならない。むしろ、厄介事を抱え込むことになると知った上で、希有を繋ぎ止めようとしたのだ。
「わたしが権利を持っているから、傍にいてほしいと言っているんだって……、最初の頃は疑いを棄てきれなかったの」
あの頃の希有は疑り深いままで、心の底から彼のすべてを信じることなどできていなかった。上手く使えば国の利益になる可能性があるから、あるいは野放しにして後々の憂いになると困るから、希有を手元で保護したのだと思っていた。
「でも、だんだん違うことに気付いた。だって、シルヴィオは……、権利を持っているかもしれないなんて言っておきながら、一度だってそれを使わせようとしなかった」
彼の言葉は、行動は、すべて希有をこの地に止め置かせるためのものだった。惜しみないものを与えて、何一つ希有の嫌がることを要求することはなかった。その腕で抱き締めて、彼は寄る辺のない希有をいつも守ってくれた。
「シルヴィオも、怖かったのかな」
彼は自分とは別の生き物なのだと、ずっと思い込んでいた。同じ想いを抱いているなどと欠片も考えることなく、自分を卑下して、彼から向けられる優しい視線を否定していたのだろう。
――それが彼に対する最低の仕打ちだと、気づくこともなかった。
「置いて行かれたくないと、同じように思っていてくれたのかな。美優ちゃんの代わりじゃなくて、わたし自身を……、望んでいてくれたのかな」
すてないで、と縋る希有を抱きしめてくれた日、――彼は必死に耐えていたのかもしれない。あの時何を言われたところで、希有が受け入れることはできなかっただろう。彼の言葉は美優に向けられているものだと、頑なに信じたに違いない。
あのまま言葉を交わせば、希有とシルヴィオの関係は永遠に拗《こじ》れていた。
「あのね、シルヴィオがどれだけ君を大切に想っているかなんて、僕にだって分かることなんだよ。大切に大切に慈しんで、壊れないように守って、宝物のように扱っている」
アルバートが口にする一つ一つが真実であると思いたい。あの人を大切に想ったことは過ちなどではなかったのだと胸を張りたい。
「君もまた、あいつのことを誰よりも大切にしている。もう、過去を理由にして逃げるのは終わり。誰に責められても、赦されなくても、それが君の望みなら叶えるんだ」
すべてを疑って、世界で一番不幸な顔をして、救いが与えられることを待ち望んでいた。何もせずに、いつか誰かが助けてくれると浅ましい願いを心の奥底で抱いていた。
「君は愚かだ、それで良い。みっともなく縋ってでも繋がれた手を離すな」
――過去は消えない、いつだって、罪は残る。
赦されてはいけない。何度謝罪を口にしたところで、受け取る相手もいないそれに意味などありはしない。
それでも、どうか見ていてほしい。
信じてもいない、あるはずもない死後の世界に愛しい片割れがいるならば、彼女が今の自分を見てくれることを願う。愚かな妹の行く末を、滑稽な劇を見るかのごとく嘲笑ってほしい。
シルヴィオのことを諦めて、何もかもなかったことにしたくない。
「アルバート」
すべてを疑って、世界で一番不幸な顔をして、救いが与えられることをひたすらに待ち望むような少女は要らない。ただ同じ場所で足踏みして、誰かに縋って生きてきた己を悔いているならば、なおさら、足掻いてこの手を伸ばさなければならない。
「今、起きていることを教えて。カルロス・ベレスフォードのことも、レイザンドの急な訪問の理由も、わたしは知りたい」
「シルヴィオとミユのことではなくて?」
興味深そうに問いかけたアルバートに、希有は頷いた。
「それは、すべて終わってから直接シルヴィオに聞くから良い。今は、シルヴィオのためにできることをしたい」
この手に掴めるものは、ほんのわずかなものだ。それでも、そのわずかなものを守ることができるならば、希有は踏み出さなければならない。
「良いよ。僕が知っていること、全部、教えてあげる。……僕は、君の友だちだからね」
アルバートは無邪気に笑って、そっと希有に手を差し伸べた。
「ありがとう。ありがとう、アルバート」
その手を強く握りしめて、希有は涙に濡れた顔をあげた。
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