蝶が、嫌いだった。
翅を羽ばたかせて花々を行き交う彼女たちを、美しいと謳う者はたくさんいる。
だが、
蝶子は彼女たちが憎かった。
翅に刻まれた細やかな紋様も、光り輝く
鱗粉も、すべてが嫌悪を抱く対象でしかない。蝶の字を持つ己の名前さえも厭わしかった。
「
何処なの、ここは?」
焼け焦げた大地に、蝶子は座り込んでいた。
黒煙が立ち昇り、周囲には未だに赤黒い炎が燻ぶっている。煙を吸わないように口元を押さえながら、蝶子は眉をひそめる。
突如、前方で何かが落ちる音がした。
「な、なに?」
聞こえた物音に顔を上げれば、黒煙の中でもはっきりと分かる人影があった。
軍服のようなものを身に纏った華奢な少年が、驚いたように目を見開いて蝶子を見ている。夜空に流れる銀河のように煌めく髪に、紫水晶よりも深い色の瞳をした少年だ。
一見、普通の人間に見えた。だが、可愛らしい顔をした彼の右頬から右の首筋にかけて、びっしりと鋼色の鱗が張り付いている。
少年は、唇を
戦慄かせて、静かに蝶子の元へと歩いてくる。
『蝶、どうして』
彼が手に持っていた短剣の刃には、荒れ果てた地に似合わぬ、何一つ汚れていない蝶子の姿が映る。
「――、なに、これ」
刃に映る自分の姿を見て、蝶子は唇を震わせた。
むきだしになった肩甲骨のあたりから、白銀の
翅が生えている。その翅は、煌めく粉を振りまきながら、蝶子の意思の預かり知らぬところで勝手に動いていた。
あれほど憎かった蝶々が持つ翅そのものだ。
あまりの出来ごとに顔を青ざめさせていると、強く風が吹く。
「……っ、寒い」
辺りは焼け焦げているが、吹き込んで来る風は冷たかった。寒さに歯を鳴らせば、少年が来ていた服の上着を脱いで蝶子に被せる。
「あ、……ありがと」
『裸、寒い』
「……ええ、裸は寒、い」
少年の言葉に、蝶子は目を見開く。
そう言えば、先ほどの刃に映る自分の姿は、――。
少年は半ば放心しかけた蝶子に首を傾げながら、蝶子に被せた上着の釦を留め始める。
『もう、寒くない?』
少年の言葉に応えるよりも先に、蝶子は身を隠すように蹲《うずくま》った。
これは、夢だ。夢に違いない。
自分には、昨夜床についた記憶がある。このような未だ火が燻ぶり、黒煙の立ち昇る土地とは縁がない上に、眠りに就いた時には、しっかりと服を着ていたはずだ。
再び顔を上げると、目を丸くした少年の顔が直ぐ傍にあった。
『どうしたの?』
少年が首を傾げると、途切れ途切れに言葉のようなものが伝わってくる。それは、断続的な音に近く、それでいて、耳に直接響くものとは違っていた。
目の前の少年が話しているのかと思っていたが、彼の唇は少しも動いていない。
『レイ』
少年が自分自身を指差すと、また、音が響く。
耳で聞きとると言うよりも、心に直接響くような不思議な声だ。
レイ。それが少年の名であることに気付くのに、少しの時間がかかった。
「れ、い? あなたの、名前?」
肯定の意を示すように、彼は微笑んで蝶子の頭を撫でる。
「……、あ」
訳の分からない状況に晒されて、心は落ち着かずに、身体も震えている。それなのに、彼の微笑みに安心する自分がいることに、蝶子は驚いた。
『名前、教えて』
頭を撫でる手に身を任せるように、蝶子は震える唇で己の名を紡いだ。
「蝶子、よ」
『蝶子。ここ、危ない』
レイは、言葉と同時に、蝶子の身体を抱きかかえた。
「え? ちょっと、何してっ……!」
『目、瞑って。直ぐ、着く』
一瞬にして彼の背中に広がったのは、鋼の翼。見るからに固く鋭い翼は、少年の身体の何倍もの大きさを持っていた。
蝶子がその光景に息を呑むと、彼は、軽く地を蹴った。そして、蝶子を抱き抱えたまま、空へと舞い上がる。
「ひっ、そ、空!」
『落とさない、大丈夫』
レイの言葉に、蝶子は、怯えるようにして彼に縋りついた。落とさないと彼は言っているが、しっかり捕まっていなければ、今にも地上に落とされてしまいそうだ。
それから、暫く、強制的な空の旅は続いた。
どれほど、空を飛んでいたのか分からない。
だが、荒れ果てた荒野は超えたらしく、建物が建ち並ぶ街のようなものが見えてくる。
「……、街?」
『気にいった?』
喉を震わすように笑うレイに、蝶子は小さく頷く。
「ええと……、綺麗な街ね」
『うん』
レイは、街の外れに建てられた一つの建物の近くの森に急降下する。思わず叫びそうになった口元を咄嗟に抑え、蝶子は固く目を瞑った。
『着いた、立てる?』
蝶子が首を振ると、レイは蝶子を抱き上げて進む。自分で歩けると言いたかったが、初めての飛行で膝が笑ってしまっている。
「レイ、……ここは」
『話すの、危ない。黙って』
彼の笑顔に、蝶子は何も言えなくなった。優しい微笑みを携えていると言うのに、有無を言わさぬ威圧感がある。
彼は建物の中に入ると、人目を
憚るように慎重に進んでいく。やがて、一つの部屋の前で立ち止まり、レイは扉を開けた。
『ユーリ、ただいま』
部屋の中では、落ち着いた黒髪の青年がソファに腰掛けていた。見るからに、優しげで穏やかそうな青年だ。
「レイ、早かったな」
『うん、偉い?』
「偉い、偉い。……、それで、レイ」
『うん?』
青年の頬が、あからさまに引きつったのを蝶子は見た。その視線は、レイに抱きかかえられた蝶子に向けられている。
「お前が抱えている、その女の子は、何だ?」
『拾った。可哀そう、連れてきた』
「何でもかんでも拾ってくるなって、言っただろっ……! ここ、何処か分かってるのか!」
レイは、青年の言葉に笑顔で頷く。
「……、っ、お前、分かってないだろ! ここは、女人禁制だ」
その言葉に、蝶子は身を震わした。
女人禁制ということは、蝶子などがいれば大問題である。
『だから、秘密、ユーリ』
「そういう、問題じゃない。分かってるのか、女を連れ込んだなんてこと、ばれたら罰則だ」
『だって、蝶、放す、ダメ。見つかる』
「……、蝶?」
レイはいきなり蝶子を床に下ろすと、自分が被せた上着の釦を外し始める。
「ちょっと、何するの!」
蝶子の叫びを無言で制して、レイはユーリと呼ばれた青年に、蝶子の背中を見せた。
必死になって手で身体を隠しながらも、背中に感じる青年の視線が気になって、蝶子は居心地悪そうに俯く。背中の翅は、隠しようがない。自らの意思に反して動く翅を感じながら、蝶子は唇をかんだ。
ほとんど裸でいることに対する羞恥もあったが、翅に対する嫌悪感が募り、蝶子は固く目を瞑る。
「……、狩られてない繭が、まだあったのか?」
『羽化、綺麗。蝶、狩る、可哀そう』
そのような蝶子を置いてけぼりにして、二人は会話を続けている。
『王、姫、死んで、おかしい』
「確かに、最近の王の行動は目に余るけど、な……」
ユーリは少しだけ考え込んだ後、大きな溜息をついた。
「分かった。……、お前の、言うとおりだな。見す見すと、蝶を王に渡すわけにはいかない」
『ユーリ、分かってくれる、信じてた』
「俺がお前に甘いの分かってて、良く言うよ」
ユーリは苦笑してレイの頭を撫で、それから、蝶子の元まで歩いてくる。慌てて上着で身体を隠して、蝶子はユーリを見た。
年齢は二十代の前半といったところだろうか。レイのように派手な顔こそしていないが、こちらも、十分整った顔をしている。
「俺はユーリ。名前は?」
「……蝶子、よ」
「蝶子、ね。……、服を用意したほうがいいな。レイ、お前、小さくなったっていう制服、貸してやって」
『俺、蝶子より、大きい』
「こんな場所で裸でいるよりは、マシだろ。……ごめん、蝶子、暫くはこれにでも包まっていて。レイの上着だけじゃ、心許ないよな」
ユーリは寝台から毛布を持ってきて、蝶子に渡す。蝶子は言われたとおりに、毛布に身を包み、全身を覆った。
見た目の印象通り、優しげな青年で助かった。
変な夢だが、嫌な目に遭っていない分、幸運なのかもしれない。
『蝶子、これ』
レイの差し出してきた服を受け取って、蝶子はレイとユーリに視線を遣る。彼らは蝶子の視線に気づいて、慌てて蝶子に背を向けた。
彼らが見ていないことを確認して、蝶子はレイの服を身に纏う。下着がないのは残念だが、裸でいるよりはよほど良い。
「着替えたわ」
蝶子の言葉に二人は振り返る。
『蝶子、お揃い』
蝶子は自分の服装とレイの姿を確認して苦笑する。蝶子の着ている代物の方が色褪せているが、同じ制服だ。
「少し、話しておきたいことがあるんだけど、……。蝶子は、ここが何処か、知っている?」
ユーリの言葉に、蝶子は目を瞬かせる。
「ここが、何処かなんて、何も知らないわ。目が覚めたら、……レイ、に連れて来られたから」
レイは、相変わらずの笑顔で、蝶子の言葉に頷いた。
「そう。……、あんまり、歓迎してあげるべきではないんだろうけど」
「ようこそ、幻想曲へ」
心の底から哀しそうに、ユーリは言った。
その理由が、蝶子には分からなかった。
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