「幻想、曲?」
首を傾げた蝶子に、ユーリは頷く。
「世界の名であり、国の名でもある。あんまり深く考えないで、そういう場所なんだと思った方がいい。俺にもレイにも、良く分からないから」
良く分からないと言った彼の顔に、嘘はないように思えた。第一に、嘘を教えたところで、彼に何の利があるというのか。
『ユーリ、俺、報告』
ユーリの話の腰を折るように、レイが言う。
「ああ、お前は早く報告に行ってくれ。報告に来ないのを怪しまれて、部屋に立ち入られたら、堪ったものじゃない」
『蝶子、任せた』
ユーリが頷くと、レイは部屋を出て行った。
部屋には、蝶子とユーリの二人だけになる。レイがいない部屋で、先ほど会ったばかりのユーリと対峙するのは、正直気まずかった。
「……悪いな、レイの方が安心すると思うけど、龍のあいつは、王に報告に行かないと怪しまれるから」
「龍?」
レイの鱗や翼を考えれば、龍などと呼ばれるのも頷けるが、あまりにも現実からかけ離れ過ぎている。
自分は大嫌いな蝶になっている上に、助けてくれた少年は龍だ。
蝶子は、随分、非現実的な夢を見ているらしい。
「そう。王に連なる血統だ」
「……、そうなの」
理解できなかったが、蝶子は聞き流すことにした。
レイが何であろうとも、これは夢なのだから、蝶子には関係のない話だ。何度も言い聞かせるように心の中で呟いて、蝶子はユーリを見る。
「ねえ、それじゃあ、蝶は何なの?」
好奇心で蝶子が口を開くと、ユーリが苦しげな顔をして言った。
「蝶は、
願いを叶える」
ひどく、抽象的な表現だった。
願いを叶えるなどと言われても、蝶子には分からない。
「龍と同じくらい稀で、滅んだと思われていた種だ。元々の個体数が少ない上に、生まれてから羽化する確率も低い。――何より、最近では、王が蝶を狩っていたから」
「狩るって、……願いを叶えるために?」
「王は、妹姫を亡くしてから様子がおかしいんだ。根こそぎ蝶を狩って、今も生き残りがいないか探している」
つまり、王は妹姫を蘇らせるために、蝶を探しているということだろうか。
「自分の妹を生き返らせたいの? ……、そんなの、無理よ」
人が蘇ることなどあり得ない。蝶子でも、それくらいのことは知っている。
「分かっている。……、だけど、わずかでも、その願いが叶う可能性があるなら、王は何でもするだろうよ。だから、蝶子はレイの言うとおり、出歩かない方がいい」
「もし、……仮に、願いが叶ったとしたら、蝶はどうなるの?」
ユーリは言い難そうにしながら、口を開く。
「王は、狩った蝶を片っ端から殺している」
蝶子が肩を震わせると、ユーリは目を伏せた。
「伝説では、蝶の命を月に捧げることで、願いが叶うとされている。……、だから、レイは蝶子を匿おうとしているんだ。あいつは王と親しかったから、余計、今の王に反発している」
――蝶子は願いを叶える種だから、王から狙われるのだ。
夢の中とはいえ、殺されるなど御免である。顔を青くした蝶子を気遣うように、ユーリが続ける。
「怖がらせて、ごめんな。だけど、安心してくれ。この部屋から出ない限りは、レイや俺が守ってやる」
「そんなの、……信じられるわけ、ないでしょう」
「だけど、蝶子はレイと俺以外を頼れない。俺たちと同じで、この世界が何処だかも分からないから」
俯いた蝶子の頭を撫でる。
その手が妙に優しくて、蝶子は泣きたくなった。
『ユーリ、蝶子、泣かせた』
不意に、温かな声が心の中に響く。
いつの間にか戻ってきたレイが、蝶子の元へと駆け寄って来る。
『苛められた?』
「人聞きの悪いこと言って、睨んでくるな。いきなり、こんな場所に連れて来られて、不安になるに決まっているだろ」
『不安? 蝶子、大丈夫』
レイは蝶子の両手を握って、勢いよく顔を近づけた。
『蝶、綺麗。俺、守る』
まるで花が開いたような微笑を浮かべるレイに、蝶子は思わず顔を赤くする。
『安心、大丈夫』
いきなり、このような場所に連れて来られて不安だったのだろう。いくら夢だと言い聞かせても、身体は震える。殺されるかもしれない恐怖に泣きたくなるもなる。
それでも、彼の微笑み一つで、すべてが大丈夫だと思えるのが、不思議でならなかった。
『ここから、出ない、約束』
「……、ええ、約束、ね」
この部屋から出ない限り、守ってくれると、レイは言っているのだ。
幼子をあやすように、手を握ってくれていた手が蝶子の背にまわる。服に隠れた翅に触れないように背中をさすってくれる手に安堵して、蝶子は目を閉じた。
「え……?」
携帯電話の着信音に、蝶子は目を覚ます。
視界には、見慣れた自室の天井が広がっている。横を見れば、気に入りのぬいぐるみと顔を合わせることになった。
先ほどの着信音を思い出し、枕元に置いてあった携帯電話を開くと、級友である小野からメールが入っていた。
だが、そのメールを開かずに、蝶子は上半身を起こして強く目を擦る。
――、今まで、夢を見ていたのだろうか。
背中をさすってくれたレイの手の温もりが、今も残っている気がした。非現実的な夢だったと言うのに、何処か現実めいていて気味が悪かった。
急いで脱衣所に向かい、服を脱ぐ。浴室に入り鏡に背を向けると、そこには、何も生えていない背中が映っていた。
「……、良かった」
白銀の翅が消え失せていることを確認して、蝶子は息をつく。
やはり、あれは夢であったのだろう。
亡くなった母親の大好きだった、蝶々。
あの夢を見たのが彼女であったならば、自分が蝶になれたことに狂喜したのだろうが、蝶子は母が原因で蝶が嫌いだった。
軽くシャワーを浴びてから制服に着替えてリビングに出ると、既に父親は出勤した後らしく見る影もなかった。どうしても抜けられない仕事が入ったと、先日言っていたことを思い出す。この頃の父親は休日も返上して出勤しているのだ、今日も朝早くから仕事に行ったのだろう。
小さく欠伸をして、蝶子は自室から持ってきた携帯電話を開く。時刻は、いつも起きる時間より、一時間ほど早い。
先ほど受信したメールを開くと、要件は小野らしからぬ誘いだった。
「……、丘の上の、男子校ね」
同じクラスの女生徒たちが、騒いでいた話を思い出す。
蝶子が通う公立の高等学校から少し離れた場所に、なだらかな丘がある。その上に建つのは、良家の男児しか入学できないと言われている、私立の男子校だった。偏差値がすさまじく高い上に、高額の入学金や授業料を払える人間しか通えない高校である。
メールの内容は、そこの学校の生徒と一緒に出かけないか、というものだった。おかしなことに、メールに書かれている参加者の一覧には、小野の名はなかった。
「小野さん、強引に頼まれたのかしら」
おそらく、人数合わせ、あるいは、誰かの引き立て役として、蝶子を誘おうと言いだした女子がいるのだろう。だが、それを言い出した女子は、蝶子の連絡先を知らなかった。クラスで蝶子の連絡先を知っているのは、蝶子の前の席である小野だけだ。
そうして、自分が参加するわけでもないのに、小野は蝶子にメールを送る破目に陥ったのだろう。
クラスの一部の女子が、あの男子校の生徒と近づこうとしていたのは知っている。だが、蝶子はそんなものに興味がないということに、どうして気付いてくれないのか。
蝶子は苦笑して、返事を打ち始める。当然ながら、参加するつもりはなかった。
誘ってくれた女生徒たちにも、その男子校の生徒にも、さして関心が持てないのだから仕方ない。
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