fantasia-胡蝶の夢-

04

 何度目かも分からない幻想曲での目覚め、既に見慣れてしまったレイたちの部屋の天井を見て、蝶子は呟いた。
「レイは?」
 いつもなら目覚めた途端に駆け寄ってきた少年の不在に、蝶子はユーリを見る。
「任務だよ。レイは龍だから、多いんだ」
「……、そう。ユーリも行くの?」
「俺は滅多に行かない。明らかに戦闘向きではないからな」
「戦闘向きじゃないの? ここ、軍事学校なんでしょう?」
「単純に、戦いに向いているか向いていないかだけでは決められない。敵が敵だしな」
 ユーリは苦笑して、蝶子の頭を撫でた。
 年長者が子どもに対して行う、他意のない仕草だった。父親とは母が亡くなって以来、同じ家に暮らしながらも顔を合わる機会が少なくなった。年頃の娘の扱いを、どうするべきか困っているのだろう。それ故に、父は仕事に没頭するようになったのかもしれない。
 最近は父に頭を撫でてもらった記憶はないので、誰かに頭を撫でられるのは久しぶりだった。
「ここ、幻想曲。常に現実の影に脅かされている。……、だったかな」
 脈絡のない言葉に、蝶子は眉間にしわを寄せてしまう。
「……、現実の影なんて、抽象的過ぎて訳が分からないわ」
 そして、この世界がだと言い切るような言葉の真意も気になった。蝶子はこの世界を夢だと思っているが、この世界の住人にとって、この世界はまがかたない現実のはずだ。
「最初に言ったろ。俺も良く分からないんだよ」
 困ったように笑ったユーリに、蝶子はそれ以上何も言えなくなる。
「たった一つ分かることは、敵は確かに存在していて、俺らの住まう地を侵していることだけだ。それを跳ね返すためには力が必要で、そのための手段を持ってる者を集めたのが、この学校だ。……もう時間だから、俺は授業に行ってくるな」
「もう、行っちゃうの?」
 心に浮かぶ疑問は、まるで解決されていない。ユーリも答えを知らないのだから解決するはずもないだが、蝶子としては気分が悪かった。
「悪いな。たぶん、先にレイの方が帰ってくるから、それまで大人しくているんだぞ」
「……ええ、分かっているわ」
 ユーリは満足そうに頷いて、部屋を出て行った。先ほど言っていたように、授業を受けに行くのだろう。
 自分以外の存在がいなくなった部屋で、蝶子は呟く。
「……、少しくらい、抜け出しても良いわよね?」
 夢は現実には一切影響しない。それならば、夢の中くらい、大胆になってしまうのは仕方がないことだろう。
 最初の頃に感じていた不安や恐怖も、こうも何度も同じ夢を見続ければ、少しずつ薄らいでしまっていた。
 何より、部屋の中に籠っていることに飽きてしまった。
 そっと鍵を開けて、蝶子は部屋から顔を出す。
 辺りを見渡して人影のないことを確認すると、蝶子は忍び足で部屋を出た。
 周囲に気を配りながら、恐る恐る歩を進める。しばらくすると、遠くの方に訓練場のようなものが見えてきた。
 若い男たちが、必死になって剣を合わせている様子が見える。十歳を少し過ぎたばかりのような年少者から、ユーリのような二十代前半と思われる青年までいる。
 軍事学校というのは本当らしい。それでいて、女人禁制であることも真実のようだ。
 訓練なのだろうが、剣を合わせる光景など初めて見るため、蝶子は思わず見入ってしまった。
 すると、騒々しい音が響く中、こちらに向かってくる足音に気づく。
 蝶子は、慌てて近くに積まれていた防具の影に隠れた。
「噂、聞いたか?」
 足音の正体は、二人の青年だった。歩きながら会話をしているらしく、その声が蝶子の耳に届く。
「この間、龍が焼いた森で――、繭の痕跡が見つかったらしい」
「……、龍の報告では、蝶の繭は見つからなかったんじゃなかったのか?」
「だが、痕跡があったんだ。蝶の繭は、龍の焔でも焼け焦げたりしないだろ」
「抜け殻だった可能性は?」
「ばか、忘れたのか。龍の焔に、抜け殻の繭が耐えられるものか。蝶が中にいるからこそ、繭は絶対の強度を誇るんだろうが」
 会話をしていた青年たちは同時に黙り込んで、やがて顔を見合わせた。
「……、止めようぜ、こんな話。俺たちは、王の決定に従う。それだけだ」
「だよな、龍はともかく、王の焔だけは喰らいたくない。直系王族の焔なんて、触れただけで消し墨だ」
 肩を竦めて、男たちは再び歩き出す。
 その背を見つめて、蝶子は一人息をついた。
 龍とは、――間違いなく、レイのことだろう。
 レイが蝶子を見つけた日、周囲は焼け焦げていた。
 立ち上る黒煙と、周囲を焼く炎を思い出す。あれは、蝶子がレイを見つける直前に、あの状態になったように思えた。
「レイが、――焼いたの?」
 元々、あの地には森があったのかもしれない。それを、レイが己の焔を以って焼き尽くしたのだ。
 蝶子は辿りついた結論に小さく身を震わした。燃やされなかった自分は、運が良かったらしい。
「……、戻らないと」
 部屋を出てから、随分時間が経ってしまった気がした。それに、これ以上移動すれば、レイたちの部屋まで戻れなくなってしまうだろう。
 今まで歩いてきた道を、蝶子は早足で戻って行った。
 鍵の掛かっていない扉を開けて、レイたちの部屋に入った瞬間、蝶子は崩れ落ちるように壁に背を預ける。
 無事に戻って来られたとはいえ、勝手に部屋を出たのは軽率だったかもしれない。ここは軍事学校で、武器など山ほどある。その上、女人禁制だ。見つかった後に、どのような目にあわされるか分かったものではない。
「え?」
 突如、自分の身体に影が差したのを感じて、蝶子は顔をあげる。
 煌めく銀髪を掻きあげて、レイが無表情で蝶子を見下ろしていた。
「……、れ、い?」
 まったく、気配に気づかなかった。
『何処、行ってた』
 髪よりも深い銀色、鋼色に近い鱗が、部屋の灯りに照らされて鈍い輝きを放っている。
 いつもの柔らかな笑みを消したレイは、蝶子の頬に手を伸ばした。
『何処?』
 声にならない声、心に直接語りかけるような言葉が、今はひどく恐ろしかった。
 彼の手は、思っていたよりもずっと大きく、少年というよりは青年に近いものだった。それに気付いた瞬間に、胸に巣食い始めた恐ろしさ急速にが膨れ上がる。
「いっ……!」
 レイの鋭い爪が、蝶子の頬を傷つける。その拍子に、赤い血が頬を滑り、顎を伝った。
『痛い?』
「……い、痛いわ」
『ダメ、赦さない』
「れ、レイに、赦される必要なんて、ない、わ」
『嘘。蝶子、悪い子。約束、破った』
「……あ」
 レイの爪が、先ほどよりも強く右頬に喰い込んだ。走った痛みに涙を滲ませた蝶子に、レイが嗤った。いつもの笑みとは異なった、影の在る得体の知れない笑みだ。
『こんなの、痛い、入らない』
 蝶子の頬に這わせていた指を舐めて、レイが目を細める。
 彼の唇に付着する赤い血は、紛れもなく蝶子のものだ。
 レイは赤く濡れた唇を、蝶子のそれに合わせる。何をされたか分かった瞬間、蝶子はレイを突き飛ばそうとするが、男の力に蝶子が敵うはずがない。
『ここ、男しか、いない。意味、分かる?』
 もう一度、蝶子に顔を寄せたレイは、今度は鋭い牙で蝶子の唇に噛みついた。塞がれた口と、痛みに顔を歪める蝶子の瞳からは、一筋の涙が流れた。
 唇が離れた途端、紫水晶の瞳が蝶子を射抜く。
『見つかったら、蝶子、……もっと、痛かった』
 瞬間、レイは蝶子の身体を抱き込んだ。
 蝶子の肩口に顔を埋めた彼は、先ほどまでの冷たい雰囲気が嘘のように、安心したように息をついている。
『良かった』
 彼は、怒っていた。
 蝶子を心配して、怒っていたのだ。
『誰か、死ぬの、苦しむの、嫌』
 震える身体に抱きしめられて、蝶子は唇を噛みしめた。
 未だに短い時間しか共に過ごしていないが、レイが優しいことを蝶子は知っていた。そうでなければ、縁戚である王の命令に背いてまで、蝶子を匿ったりしない。
 蝶子がほんの少しでも傷つけば、彼が心を痛めるなど明白だった。
「……、ありがとう、レイ」
 蝶子の身を案じてくれた彼との約束を、蝶子は軽々しく破ってしまった。見つかればどのような目にあうか、分かった気になっていた。
 レイが傷つけた頬が、熱を持ち熱かった。
 たとえ、これが夢であろうとも、それが匿ってくれた恩人との約束を破る理由になるだろうか。
「ごめんなさい、約束を破って」
 目の前のレイの身体に、蝶子はしがみ付く。
 彼の身体は温かくて、感じる痛みも、本当だった。
『生きてて、良かった』
 蝶子は、泣き疲れて眠るまで涙を流し続けた。



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