朝、いつものように目覚めて、鏡の前に立つ。
鏡に映る頬には、
瘡蓋ができていた。
寝ている最中に自分で引っ掻いたのかと思ったが、それにしては、深い傷だ。
偶然にも、その場所は、夢でレイが傷つけた場所と同じ右頬だった。
「……、まさか、ね」
リビングに戻り、棚の上にある救急箱からガーゼを取り出して、頬に張りながら思う。
夢の傷が現実でも存在するなど、気味が悪い。
食事を終えて歯を磨く。歯磨き粉が染みる痛みに、蝶子は洗面台の前で眉をひそめた。
唇が切れている。
そのことに気付いた瞬間、蝶子は沸騰したように顔を赤らめる。夢の中の出来事が鮮明に脳内で蘇り、膝を抱えて
蹲った。
蝶子に危機感を抱かせるためとはいえ、レイの行動はやり過ぎだ。何も、あのような行動で示さずとも良いだろう。
「は、初めてだったのに……」
レイのことが嫌いなわけではない。助けてくれた彼に対しての好意は初めからそれなりにあった上に、共に過ごす時間によって、彼に対する好意は膨らむばかりだった。
だが、蝶子も人並みに夢を見る少女の端くれだ。
それなりの理想を抱いていたと言うのに、実にあっけなく唇を奪われてしまった。それも、好意からの口づけでなく、蝶子に警告するための事務的なものだ。
「……、夢、あれは夢」
夢の中だから、現実とは違う。現実での蝶子の唇は、未だに何の経験も積んでいない。
そう思い込もうとしても、脳裏には銀髪の彼の姿が過り、蝶子は唸った。あれが夢であるというならば、自分は、なんてはしたない夢を見ているのだろう。自分の妄想かもしれない人と口づけるなんて、信じられない。
「……、あ」
時計を見ると、そろそろ出る準備をしなくては遅刻してしまう時刻になっていた。慌てて歯を磨いて、軽く化粧をした後、蝶子は急いで家を出た。
登校し、教室に入る。
席に着くと、前の席の小野が、何やら落ち着かない様子だった。しきりに窓の外を見ては、哀しそうに眉をさげている。前々から思っていたことだが、かなり顔に感情が出る子である。
鞄の中身を机の中に入れた後、蝶子は前の席に座っている小野の肩を叩いた。彼女は驚いたように肩を撥ねあがらせて、それから、ゆっくりと振り返って蝶子を見た。
「ねえ、何だかそわそわしてるけど、どうしたの?」
「そ、そわそわ? うちのクラスが落ちつきないのは、いつものことじゃ……」
「違うわ。小野さんが、何だか落ち着かないみたいだから」
いつもの蝶子ならばあり得ないことだが、どういった心境の変化なのか、気づけば蝶子は小野に声をかけていた。
「あ、えと、……別に、大したことじゃないの。わたしには関係のないことだし、ね」
落ち着いていないだけではなく、心なしか気落ちしているようにも見える。いつも明るい彼女が落ち込んでいることなど、珍しい。もしかしたら、初めて見たかもしれない。
「関係のないことなら、聞いても構わないのね」
「えと、その……、うん。蝶子さんになら、話してもいいかな。でもね、本当にわたしには関係のないことだからね」
渋る小野に、蝶子は催促する。
「とりあえず、話したら? 聞いても構わないのでしょう?」
このまま、ずっと彼女が悩んでいる姿を見るのは、あまり気の良いものではない。蝶子自身に浅い付き合いの友人がいないわけではないが、一番親しくしている子は小野だ。落ち込んでいる彼女を見るのは、心に
靄がかかるように、気分が悪かった。
「あのね。絵島先生の妹さんがね、亡くなったの」
「絵島……、国語教諭の?」
絵島という名は、知っている。蝶子のクラスの授業は持っていないが、隣のクラスで古典を教えていたはずだ。
彼の下の名前は憶えていないものの、顔は知っている。
整ったつくりの顔をしているが、あまり人間味がなく、氷のように冷たい印象を抱かせる男だ。大学を卒業して数年という話だから、歳は二十代の半ばと言ったところだろう。
「一年くらい前に事故に遭って、それから、ずっと脳死状態で病院に入ってたみたいなんだけど……、昨日、容体が悪化して、そのまま亡くなったみたい」
「……、お気の毒ね」
唇から零れ落ちた言葉は、白々しいものだった。
顔も知らない少女が死のうが、蝶子の心は何一つ傷つかない。目の前の少女と違い、心を痛める振りさえもできない自分が、とても醜く思えてしまう。
「そうだよね。わたしたちと同じくらいの歳だし、歳の離れた妹は可愛いだろうし……、亡くなったら哀しいよね。なんだかね、落ち込んでいる姿が……、見てられなくて」
眉を下げた小野に、蝶子は適当に相槌を打つ。
そう言えば、彼女は絵島が担当教諭である図書委員会に所属していた。
小野と彼が、それなりに親しいことも頷ける。小野自身には関係のないことでも、自分のことのように落ち込んだのだろう。
彼女は、絵島教諭の妹が死んだことについて、哀しんでいるのだ。自らと何ら関係のないことだと言いながらも、お人好しな彼女は気になってしかたないのだろう。
「……、そうね」
誰かが死んだら、哀しむ人がいる。
人の死は誰もが遭遇する可能性の在る、ありふれた悲劇の一つだ。
蝶子とて、哀しむことこそなかったものの、己を生みだしてくれた人の死に遭遇したことはある。
不意に浮かんだのは、常に微笑を浮かべた、一人の少年の姿だった。
声にならない声を発して、蝶子を慈しむ、夢の中で生きる龍。
彼がいなくなったら、――蝶子の心は、悲鳴をあげるだろうか。
無意識に自分の唇に触れて、蝶子は胸の中に問いかける。
「蝶子さん? どうしたの?」
小野の声に、蝶子は顔をあげた。
心配するような視線を向けられて、蝶子は少しだけたじろぐ。あまり、こういった視線を向けられることはなかったため、どうすれば良いか分からなくなる。
「何でもないの。――、教えてくれて、ありがとうね。小野さん。聞くだけしか出来なくて、ごめんなさい」
「ううん、そんなことないよ。蝶子さんこそ、大丈夫?」
今まで話を聞いてあげる側だった相手に心配され、蝶子は苦笑する。
「ちょっと、ぼうっとしちゃっただけ。平気よ」
「それなら、良いけど。あんまり、無理しないでね?」
蝶子との会話を切り上げて、小野は前を向く。その背を見つめていると、先ほど抱いた疑問が、頭の中に何度も繰り返し浮かび上がる。
自分は、世界に対して、さほど関心がない。それほど興味がなかった。
人からどう思われようとも構わないわけではない。蝶子とて、嫌われて厭われるのは嫌であったから、最低限、人としての道を踏み外さないように生きてきたつもりだ。
――、誰かと関わりを持つことに、
躊躇いがあった。
どれほど思っても気持ちが返ってこないことなど、この世には腐るほどある。実際、想っても報われなかった経験があった。それならば、誰かと関わること自体が不毛な行為ではないかと、蝶子は感じていた。
感じていたはずだったのに、最近は少し違う。
「……、どうしたんだろう」
唇に触れると、鋭い痛みが走る。
その痛みさえも愛おしいと思った自分は、以前とは違うことを蝶子は知ってしまった。
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