視界に広がる銀色に、蝶子は慌てて身体を起こした。
腰にまわされた腕は、細いながらに力強く、蝶子は顔に熱が集まるのを感じた。
「れ、レイ? 起きて」
天使のような寝顔で眠る彼の肩を揺らす。
いつも使わせてもらっているソファではなく、どうやらレイの寝台らしい。おそらく、あのまま意識を失うように眠ってしまった蝶子を、レイが運び込んだのだ。
そして、何処か抜けている彼は、そのまま自分も眠りに就いてしまったのだろう。
蝶子とレイを包むようにかけられていた毛布は、ユーリがかけてくれたのかもしれない。世話焼きな彼のことだ、蝶子たちが風邪をひかないように配慮してくれたに違いない。
『ん、……蝶子』
開かれた紫の瞳に、蝶子の姿が映し出される。
「おはよう、レイ。手、放してくれる?」
彼は頷いて蝶子を解放し、それから、目を擦った。
『……お腹、すいた』
起きて早々の言葉の可愛らしさに、蝶子は思わず口元を綻ばせる。彼の寝癖のついた銀髪を直してあげながら、蝶子は口を開いた。
「ユーリが何か用意してくれているんじゃないかしら」
今は姿は見えないが、おそらく、食事の用意はしてくれているはずだ。レイは見るからに生活能力が皆無であるし、蝶子は自炊くらいならばできるが、何処に何があるかも分からない状態である。
予想した通り、机の上には冷めているが美味しそうな食事が用意されていた。
『食べる』
レイは芋虫のように這って動き、直後、寝台から転げ落ちる。あまりにも可愛らしい姿に、蝶子は再び笑みをこぼした。
『蝶子、笑った、酷い。俺、助けて』
「もう、仕方ないわね」
レイの傍に寄り、蝶子は彼の腕を掴もうとする。
「え?」
だが、レイが先に蝶子の腕を掴んで引っ張った。
『笑う、酷い。これで、蝶子、同じ』
突然引っ張られた蝶子は、レイと同じ体勢で床に転ぶ。
『同じ、嬉しい』
顔を上げると、至近距離に可愛らしい顔がある。蝶子よりも長い睫毛が、白い頬に影をつくっていた。
瞬間、鼓動が逸るのを感じた。
頬に熱が集まって、自分ではどうしようもできないような、ほろ苦い感情が胸に広がる。
『満足。ごはん、食べる』
レイは素早く立ち上がって、蝶子に手を差し伸べた。彼の手に重ねた自分の掌は、どうしてなのか、熱かった。
それから、二人で無言で食事をとった。ユーリの作る料理は間違いなく美味であるはずなのに、まったく味が感じられない。
――やはり、最近の蝶子は、変だ。
食事を終えた二人の間に、再び沈黙が広がる。
レイを見ると、彼は眠たそうに欠伸をしていた。唇の隙間から、鋭利な牙が見え隠れしている。
あの唇が、自分に触れたのだ。
彼は、蝶子が考えるような甘い感情で、口づけたわけではない。あの口づけは、単純な警告としての意味しかなしてはいなかった。
それを寂しいと思っている時点で、蝶子はおかしい。
彼が少しでも蝶子と同じ気持ちを抱いてくれていたら、と淡い期待を持っているのだ。
叶うはずのない、願いだ。
居た堪れなくなって、蝶子は口を開いた。
「……ゆ、ユーリは?」
『里帰り』
「里帰り?」
レイは一度頷く。
『親族、葬式』
「……、そう」
人の死は何処にでも転がっている。ありふれた悲劇の一つにしか過ぎないのだ。
人の中で生きていく以上、いつか、誰かの死に触れることになる。誰かの傍にいたいと願う限り、惜別は避けられない。
「レイは……、その……、誰かの死を、経験したことがある?」
『ある。友達』
亡くなった友人の姿を思い浮かべたのか、レイは哀しげに目を伏せた。
『優しかった。大好きだった』
レイが大好きだったということは、それほどまでに、素晴らしい人だったのだろう。
『死んで、哀しかった』
人の死を悼むことは、その人と深く関わっていたならば、当然のことである。
それが己の母親であるならば、哀しまないはずがなかったのだ。蝶子は、彼女が死んだときに、哀しまなければならなかった。
『蝶子は?』
聞き返してきたレイに、蝶子は俯く。
「母さんが……、数年前に、病気で亡くなったわ」
長い闘病生活を終えて、穏やかに死んでいった。穏やかに死んでいったからこそ、蝶子は悔しかったのだろう。
蝶子は涙の一滴さえも、彼女が死した時に流すことができなかった。
「母さんが死んだ時、ちっとも哀しくなかったわ」
『……、どうして』
「母さん、あたしよりも、蝶々が好きだったの。母さんが病気で臥せってたときも、お見舞いに来るあたしなんか気にかけてくれなかった」
あら来たの、一言そう言って、母は直ぐに窓に目を移した。
母が駄々を捏ねて父に
強請った病室は、一階の個室。その部屋は、色取り取りの花々が咲く花壇に近い場所にあり、花が咲き誇るその傍には、当然、母の愛する蝶が集まる。
「母さんは、蝶になりたかったの。自分は蝶だって思っていたかったの」
初めは、おそらく憧れだった。だが、長い闘病生活の間に、母は本当に思い込むようになったのだろう。精神的に脆い人だった。心までも病に蝕まれていたとしても、蝶子は驚かない。
蝶子。
蝶の、子ども。
蝶のように羽化して素敵な女の子になるようにと、願いを込めて名付けたと父は言っていた。蝶子には、それが嘘だと分かっていた。
「母さんはね、自分が蝶だから、自分の子は、……蝶の、子ども。
青虫と名づけたかったのよ」
母が、あれほど蝶に焦がれて、好きだった理由は知らない。父は知っているようだったが、あえて、口を閉ざしているようだった。蝶子も聞きたいとは思わない。
「死の間際の時も、傍にいるあたしのことなんて、気にも留めなかった。窓から入ってきた蝶を幸せそうに眺めて、穏やかに笑って死んだの」
蝶子は、母が死んだ時、哀しくなかった。
彼女が生きている間は、見舞いに行っても気にしてもらえず哀しかった。母は病で苦しくて、他を気遣う余裕などなかったであろうことは、蝶子にも分かる。それでも、どれほど想っても、母が想いを返してくれなかったことが、蝶子には寂しかったのだ。
だが、彼女の死後は何も思わなかった。
母は、そういう人なのだと、哀しみよりも諦めが先行した。
愛されていなかったわけでも、嫌われていたわけでもなかった。ただ、蝶子よりも、蝶々のことを母は愛していた。それだけのことだと理解した時には、決して自分は蝶々には敵わないと知った瞬間には、諦めが心に広がった。
『可哀そう』
「同情なんて、しなくていいのよ。母の死にも泣けなかった、……泣くよりも、諦めることを選んだような人間よ。可哀そうなんて言われるような、資格は……」
レイは首を振る。
哀しげに目を細めて、彼は蝶子を見た。
『泣けない、可哀そう』
「……、かわい、そう?」
『蝶子、寂しい。寂しい、痛い』
『――泣いて、蝶子』
「ばか……、泣いてるのは、レイじゃない」
彼の白い頬を滑る涙を拭って、蝶子は苦笑した。
目頭が熱い。瞳の奥からこみ上げる熱は、涙なんてたいそうな代物ではない。涙などと呼ぶには、あまりにも、足りな過ぎる。
「レイが代わりに泣いてくれるなら……、それでいいわ」
蝶子の身体が泣くことを拒んでも、代わりに泣いてくれる人がいる。
「レイがいれば、あたし、……寂しくなんかないもの」
隣に座る彼の存在が、とても大切に思えた。
失ったら、きっと、蝶子は哀しい。
震える手で、レイの身体に腕をまわす。可愛らしい顔や、その言動のせいであまり意識したことはなかったが、彼の身体は蝶子より随分と大きかった。骨ばった体型は、蝶子とは違う、男の子のものなのだ。
『眠い?』
不意に襲いかかる眠気に、蝶子は切なくなる。
また、学生に戻る。黒いセーラー服を身に纏って、勉学に勤しむ
夢を見ることになる。
『大丈夫、傍にいる』
頬に伸ばされえた指には、あの時と同じように鋭利な爪が生えている。それでも、その爪が蝶子を傷つけることはなかった。
どちらともなく触れ合った唇に、蝶子は目を見開いた。
少しだけ照れくさそうに、レイは視線を逸らす。隣り合った彼の肩に頭を預けると、レイは何も言わずに頭を撫でてくれた。
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