蝶子は、夜の帳が下りた窓を見ながら、ぼんやりと考える。
数日前、触れ合った唇に触れると、あの日の熱を思い出して、思わず顔が赤くなる。
レイが、任務で不在なことが幸いだ。
あの日のことを鮮明に思い出している今ならば、まともに彼の顔を見ることができなかっただろう。レイが意識していないために蝶子も意識しないようにしているが、多少の気まずさはあるのだ。
無邪気に笑う顔が、少しだけ憎たらしい。蝶子ばかりが、レイを気にしていることが、気恥かしくもあった。
「蝶子。レイなら、しばらく、戻ってこないぞ」
「え?」
「レイのこと、考えていたろ?」
「……っ、ち、違うわ!」
「はいはい。そんな惚けた顔で言われても説得力ないけどな」
肩を竦めたユーリを、蝶子は睨みつける。何もかも御見通し、と言った態度が恨めしい。
「そ、そんなことより! ねえ、ユーリ、最近レイの任務多くない?」
彼が王からの任務に狩りだされることは、さして珍しいことではない。優しい彼が望んで任務に向かっているとは思っていないが、彼には幸か不幸か力があった。
ただ、彼が龍であることを差し引いても、ここ最近は任務の数が多いと思うのは蝶子の気のせいだろうか。
「王は、焦っているんだろうな」
「……、蝶が、見つからないから?」
「そうだな。新しい蝶も見つからない上に、……今まで、何匹の蝶を月に捧げても、願いが叶わなかったことに対する焦りもあるんだろう」
王が今でも蝶を探していることから、彼の願いが叶っていないことは知っていた。王の愛した妹姫は、未だに、生き返ってはいないのだ。
「蝶を月に捧げれば願いが叶う伝説は、嘘なの?」
何匹もの蝶を犠牲にしたにも関わらず、王の願いが叶っていないのならば、伝説自体が嘘の可能性の方が高いだろう。
「伝説は、真実だと思うよ。実際、願いが叶った例が記されている。王も、何の可能性もないことなら、ここまで躍起になって蝶を狩ったりしない」
ユーリは、少しだけ言い難そうに続けた。
「――ただ、願いを叶えた者は、……願いが叶った直後に死んだらしいけど」
蝶子は小さく息を呑んでから、なんとか返事をする。
「……、そう、なの。でも、それなら、伝説は本当なのね。どうして、王の願いは叶わないのかしら」
伝説が真実であるならば、王の願いが叶わないことに理由があるはずなのだ。手順を間違えているか、或いは、何かが欠けているのかもしれない。
「さあ、な。どの道、考えたくもない話だ」
二人の間に、気まずい沈黙が流れ出す。
蝶子は、話題を変えようと思い、ユーリに聞きたかったことを話すことにした。
「ねえ、ユーリ。今の話とは、まったく関係はないのだけれど、良い?」
「構わないけど。なんだ?」
紅茶を口に含みながら、ユーリは蝶子を見る。
蝶子は小さく息を吸ってから、意を決したように言った。
「……、好きでもない相手に、口づけたりできるもの?」
蝶子の質問に、ユーリは飲んでいた茶を噴き出す。
彼らしからぬ失敗に、蝶子は慌てて駆け寄る。先ほど彼が淹れたばかりの紅茶だ、火傷でもしたら大変なことになる。
「ちょっと、大丈夫?」
「けほっ、……いきなり、何を言い出すかと思ったら……」
噎せ込むユーリにタオルを渡して、蝶子は苦笑する。
「だって、気になったから」
「気になったからって、お前、そういうのは同性に……、今は無理か」
ユーリは同性に相談しろと言いたかったのだろうが、生憎と、この場所は女人禁制である。そして、ユーリは知らないだろうが、地球に生きる蝶子も、恋愛相談ができるような友人を持っていない。
「好きでもない相手に、……その、キスくらいできる男は、腐るほどいる。全員が全員じゃなくて、人によるとしか言えないけどな。それは女も同じはずだし」
「……、そっか」
「だけど、普通は、好きでもない相手にキスしたりしない。少なからず、好意を持ってなきゃ、唇になんか触れられないだろ」
断言する彼は、好きでもない相手には口づけたり出来ない人間なのだろう。見た目通り、彼は心優しく穏やかな青年なのだ。
「なんだか、ユーリって思ったよりも、頼りになるのね」
「思ったよりも、は余計だ。一応、彼女がいる身としては、これくらいの相談は乗れなきゃ、……、恥ずかしいだろ」
「恋人がいたの?」
意外な事実に、蝶子は驚く。
ユーリのような人間ならば、女の子からちやほやされるとは思っていたが、特定の恋人がいるとは思ってもみなかった。
「言ってなかったか?」
「聞いてないわ。……こんな男子校に放り込まれているのに、良く、続いてるわね」
「そりゃあ、こっちでは会えないけど、別に……」
言いかけて、ユーリは言葉を止める。
「俺の話より、お前の話だ。どうせ、原因はレイなんだろ」
黙り込んだ蝶子に、ユーリは苦笑いをする。
「図星か。あいつのことなら、あんまり深く考えて悩む必要はないさ。好意を持っていなければ、簡単に口づけたりしない」
「でも、……レイって、優しいでしょう? 関わった相手、皆好きになるような人だから」
初めて会った時も、羽化したばかりの蝶子に優しくして、ここまで連れてきてくれた。王に見つかれば、自分も無事ではいられないことを承知の上で、彼は今も蝶子を匿ってくれている。
ほとんど見ず知らずの相手に、そこまで優しくできる人間は稀だ。
「蝶子が、どうしてそんな誤解をしているのか俺には分からないけど、……レイは別に、皆好きなわけじゃないし、そこまで優しい奴じゃないよ」
「でも、……」
「少なくとも、レイは好きになった相手、誰かれ構わず口づけたりしない」
ユーリは目を伏せて、続けた。
「レイの亡くなった友人のこと聞いたよな。その子、女の子だったんだ。とっても可愛い、レイの親戚の女の子。だけど、レイは一度もその子に口づけたりしなかったと思う。大事だったのも、大好きだったのも本当だろうけど、――ただの、友人だったよ」
「良く、知っているのね」
「レイとは、こっちでは、わりと長い付き合いだから。……蝶子が何を不安に思っているのか知らないけど、レイは蝶子を大切にしてるよ。それだけは、忘れないでやって」
ユーリは蝶子の頭を撫でて、苦笑した。
「子ども扱い、しないで」
視線を逸らして軽く頬を膨らませると、ユーリは喉を震わせる。
「俺から見たら、レイもお前も、可愛い弟妹みたいなものだから、……子ども扱いくらいさせてくれ」
蝶子たちの中で年長者である彼らしい、余裕のある行動だ。
蝶子には兄弟がいないため、ユーリのことを兄のような存在に思っていた。彼も蝶子を妹のように思ってくれていたことは嬉しかった。レイもきっと、蝶子と同じでユーリを兄のように慕っているのだろう。
「お子様は、もう、眠ったほうがいい」
「そんな、直ぐには眠れないわ」
「大丈夫。俺は、レイみたいな戦闘向きの種じゃないけど、……
眠らせることは、得意だから」
そう言って、彼は子守唄を歌い始める。柔らかなユーリの声に耳を澄ませていると、先ほどまで眠くなかったはずなのだが、不思議と眠たくなってきた。
「……、ねえ、最近騒がしいけど、何かあったの?」
次第に増していく眠気に耐えながら、気になっていたことを口にする。
ここ数日、学校の中が慌ただしく感じられた。
今も、遠くの方で誰かが口論するような声が聞こえている。
何か大変なことが起こっている気がしてならないのだが、外に出られない蝶子には、何が起きているのか全く分からない。
「……、蝶子は、何も心配しなくていいよ」
横向きに寝転がった蝶子に毛布をかけて、ユーリは蝶子の頭を撫でる。
彼の顔に影が差しているように見えたのは、蝶子の気のせいだったのだろうか。
いつものように学校に行くと、小野が機嫌良さそうに席に座っていた。彼女が明るいのは常のことだが、今日は何か特別良いことでもあるのだろうか。
蝶子が席に着くと、小野が嬉しそうに蝶子を振り返った。
「蝶子さん、おはよう! あのね、今日ね、古典の先生欠席なんだって」
「急なことね。古典は自習?」
「ううん、絵島さんが代わりに授業するの」
「ああ。……絵島、えと」
国語教諭の姿を思い出しながら、蝶子は眉をひそめた。興味がなかったためか、下の名前が思い出せない。
「絵島
理人さん、だよ」
小野の言葉に思い出す。そう言えば、そのような名前だった気がしないでもない。関心がなかったために、彼の名前など気にも留めていなかった。
「だから、教室がこんなに騒がしいの?」
「うん。だって、格好良いから」
ほんのりと頬を染めて、小野が笑う。
確かに、彼の容貌は格好良いと評したところで不自然ではない。冷たい印象を受けるが、その顔が整っていることは否定できない。
生徒にとって、教師とは同じ空間に居ながらも、何処か別世界を生きている存在である。立場の違いが、同じ空間で過ごす生徒と教師の差異を浮き彫りにするのだ。
絵島は、生徒たちにとって、一種の見世物のようなものだろう。進んで関わりたいとは思わないが、観賞する分には好ましい存在。美しい美術品を視線で愛でることと似た感覚だ。
「あ、始まる。準備しなきゃ!」
鳴り響いたチャイムの音に、小野は慌てて机の中から古典の教科書を引っ張り出す。大急ぎで準備していたせいなのか知らないが、小野が今出した教科書は現代文のものだ。
彼女らしい間違いに小さく笑って、蝶子は教室の扉に視線を遣る。
チャイムが鳴り終わると同時に、絵島教諭が入室する。
会話をしていた生徒たちは、彼の姿を目にした途端に、一斉に黙り込んだ。
蝶子は机の上に教科書とノートを広げ、それらしく振る舞ってみたものの、実際のところ勉強に集中することはできなかった。
ユーリの言葉が脳裏をよぎる。
好きでもない相手に、キスしたりしない。
レイは、蝶子を好いていてくれる。ユーリの言葉を信じるならば、それは特別な好き、恋愛感情としての想いなのだ。
そうであったならば、どれほど幸せだろうか。
早く教室に座って授業を受けるだけの
夢から覚めて、幻想曲に戻りたい。
「……、え?」
蝶子は、今、何を考えた。
今、地球を生きている蝶子こそが夢だと思ってしまった。地球を生きる自分こそが夢で、幻想曲を生きる自分が現実だと感じた。
だが、最初は逆に想っていたはずだ。
――どちらが夢で、どちらが現なのだろうか。
「胡蝶の夢、という」
冷たい声に、蝶子は顔をあげる。
黒板に書きだされたの言葉の意味は、――。
「意味の一つとしては、夢と現実の区別がつかなくなることだ。荘子が夢の中で胡蝶となり、自分が蝶なのか、蝶が自分なのか区別がつかなくなった故事に基づいている」
夢と現実の区別がつかなくなること。
それは、まるで、今の蝶子の状態のようだった。
「先生」
一人の女生徒が、手を上げる。絵島は彼女に視線を遣って、小さく頷いて質問の許可を出した。
「本当に、夢と現実が分かんなくなったら、どうすれば良いの?」
授業内容とは離れているが、皆が気になるような問いだった。眠りに落ちかけていた生徒も、意識を取り戻し、興味深そうに絵島を見ている。
絵島は一度目を伏せた後、唇を開いた。
「都合の良い方を、現実としろ」
それは、答えになっていない答えだった。
彼は、夢も現も関係なく、自分にとって良い方を現実として認識するように言っているのだ。
「それって、夢かもしれないのに現実として、思い込むってこと?」
首を捻りながら女生徒は問う。
「私は、夢も現実も確かめる術を持たない。お前もそうだろう。ならば、自分にとって、幸福な方を現実として取るべきだ。それから、年長者に対しては、最低限は敬意を払った言葉遣いをしろ。……、授業を続ける」
幸せな方を夢とする。
蝶子にとって、幻想曲の方が幸せだからこそ、あちらを現実と思い込むようになっているのだろうか。
何故、幻想曲が幸せだと思っているのだろうか。
無垢な笑顔の龍の姿が、優しく脳裏に蘇る。
今目の前に広がる世界を物足りなく思うのは、彼がいないからだ。
「……、幸せな方、か」
どちらが夢なのか、現実なのか。
確かめる術を持たない蝶子たちは、やはり、絵島の言うとおり、己にとって幸福な世界を現実とするのだろう。
誰だって、自分にとっての最善を選ぶに決まっている。
たとえ、誰かが不幸になるとしても、――自分が幸せになれるならば、容易くそちらを選ぶ。
幻想曲の王のように、何匹の蝶を月に捧げることになろうとも、大切な人を蘇らせようとしている者がいる。
何を
屠ってでも叶えたい願いを抱いてしまうのが、人間なのだ。
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