花と髑髏

第二幕 長い冬の終わりに 15

 図書館に向かいながら、エデルは先ほどまで見ていた夢の内容を思い出す。
 幼い頃の夢だった。王妃の前では笑顔を浮かべていながら、影では延々と怨嗟を呟いていた母親に辟易して、既にイェルクにしか心を開いていなかった時期のことだ。
 ただ一人の世継ぎとして多くを求められていたイェルクは、エデルの前では良く泣く子どもだった。民間出身の正妃である母の立場を気にかけ、常に賢く優秀な王子でなければならないと自覚していた彼は、自分の至らなさをいつも悔しがっていた。
 そうして、自分が至らないから、正妃と陛下が不仲なのだと信じて止まなかった。
『大丈夫。わたしが、ずっと傍にいるよ』
 落ち込んで泣いている彼を見る度に、その頭を撫でて囁いた。ずっと傍にいたかった。ずっと傍にいて欲しいと願っていたのは、イェルクではなくエデルの方だった。
『だめだ。だって、お前はずっと傍になんて、いてくれないから』
 だが、彼の返事はいつも残酷だった。嗚咽を漏らして震えているというのに、彼が縋って来ることは終ぞなかった。
『どうして、そんなこと言うの……?』
 ずっと一緒だと思っていたから、彼が応えてくれないことがもどかしくて堪らなかった。あの時、たとえ周囲がどのように変化しても、彼と自分を繋ぐものだけは確かなのだと信じていたのだ。
『忘れるな、エデル。お前が愛するのは、俺じゃない』
 顔を歪めた幼い彼が絞り出した言葉の意味を、エデルは今も探している。
「ねえ、イェルク様。それなら、わたしは誰を愛せば良いんですか……?」
 エデルの宝、唯一の半身。貴方以外は要らない、貴方だけがいればいいと、と心の底から願っていた。彼のために学び、彼のために家を中興させることを望んだ。この身も心も、すべて彼に捧げて朽ちていくものなのだと疑いもしなかった。
「……そう言えば、イェルク様の夢を見るのは、久しぶり」
 こちらに来たばかりの頃は、イェルクが恋しくて毎日のように夢見ていたというのに、今では彼が夢に出てくることはほとんどなくなっていた。
 ふと浮かんだディートリヒの顔に、エデルは首を横に振る。
 彼のことを厭っているわけではない。共に過ごしている間に情が移ってしまったことは否定できない。彼と自分は良く似ているから、見ていられないと思う時があるのだ。痛みに麻痺してしまった心を抱えた、死にたがりの彼の手を握ってあげたくなる。
 ――どうせ別れるのだから、そのようなことに意味はないと分かっているというのに。
 図書館に入ると、忙しなく動く司書たちと、静かに本を物色する者たちの姿が目に入った。時代が変わろうとも、この空間はそれほど変わり映えはしない。静けさと忙しなさが同居し、本に囲まれたこの空間がエデルは好ましかった。騒いでいた胸が少しだけ落ち着く。
「アロイス様、遅くなって申し訳ありません」
 部屋で居眠りをしていたせいか、約束した時間の直前になってしまっていた。慌ててアロイスのもとに駆けつけると、彼は目を細めた。
「お気になさらず、まだ約束の時間ではありませんから。私も溜まっていた仕事を片付けられてちょうど良かったです」
 そう言ったアロイスは、言葉通り、さまざまな案件を短時間のうちに処理したのだろう。一見頼りない青年であるため、初めて会った時は失望した・・・・ものだが、彼は膨大に知識を持ち、それを使うことにも秀でた人だった。
「今日はディーと一緒だと聞いていたのですが、一人ですか?」
「先に行くと言っていましたけど、来ていませんか?」
 ディートリヒが花冠の塔を出たのは、エデルよりも随分と前だ。まだ図書館に到着していないということはないだろう。
「ああ、それなら、いつもの場所に隠れているのでしょうね。困った人だ。――すみません、今日は最初のうちは一人で仕事を行ってもらえますか? 二階の東側の本棚、分かりますよね?」
「あの、ほとんど整理されていないという噂の……?」
 他の司書から話だけなら聞いていた。以前勤めていた司書たちの怠慢で、ほとんど整理されていないのが二階の東側にある本棚だ。
「ええ。本棚が痛んでいるらしいので、この際、棚を新しくして中身も分類し直そうという話になっていまして。私も別の仕事を片付けたら手伝いに行きますが……」

「アロイス」

 突如二人の会話を遮った声に、エデルは振り返る。
 そこに立っていたのは黒髪に同色の瞳をした美丈夫だった。たいそう美しい、作り物めいた美貌の男だ。見たことのない青年に首を傾げていると、アロイスが困ったようにわずかに顔をしかめた。
「メルヒオール様。王城にいらっしゃるなんて珍しい。……この度は、何をお探しで?」
 アロイスが口にした名に、エデルは思わず黒髪の青年を凝視してしまう。
 メルヒオール・アメルン。
 それは、アメルンの一族の長にして、ディートリヒの祖父に当たる男の名前だったはずだ。祖父ということはそれなりに年老いているはずだが、ディートリヒより二、三歳年上の青年にしか見えなかった。どれほど多く見積もっても二十代の後半が限度だ。
 エデルは、ようやく、男魔術師が老いを忘れるという意味を理解した。
「そちらの侍女に用があってな」
「……わたしに、ですか?」
 間違いなく初対面であるメルヒオールが、エデルに用があるとしたら、それはディートリヒに関することだ。身構えたエデルが訝しげに目を鋭くさせると、彼は薄い唇を開いた。
「娘、お前、アメルンの子を産むつもりはないか。謝礼は望むだけしよう。ディートリヒの子が欲しい」
 何を言われているのか、エデルには分からなかった。
「何を、考えているのですか?」
 アロイスが震える声で問いかけると、メルヒオールは唇を釣り上げた。
「この際、ドーリス・・・・でなくても構わぬ。アメルンの血を継いだ王族ならば、魔術師でなかったとしても良い」
 ドーリス。それは、度々図書館を訪れるアロイスの想い人であり、エデルの友。
「それでは、そのために王城に遣わされた彼女が、あまりにも不憫でしょう」
「そう思うならば、泣いているドーリスのために、お前がディートリヒへ取り次いでやれば良かっただろうに。あれを不憫にしたのは、お前の責任だ、アロイス」
「……お祖父、様?」
 皮肉るようなメルヒオールの台詞と同時、か細い声が響く。いつものように図書館を訪れたドーリスが、入口で立ち尽くしていた。
「今、何と……? どういう、意味ですか?」
「言葉の通りだ。お前が役目を果たせぬから、代わりを探したまでだ」
「……っ、で、でも! ディートリヒ様は、侍女なんて、近寄らせません! エデルには、エデルにだって、無理です」
「この娘が花冠の塔に住んでいることを知らなかったのか? 珍しいことに、気難しいあれがずっと傍においている。お前と違って」
「そ、そんな」
 涙声で縋るドーリスを、メルヒオールは嘲笑して切り捨てる。二人の遣り取りを見つめながら、エデルは混乱する頭を落ち着かせるように息をついた。
「……勝手に話を進めないでください。残念ながら、わたしみたいな子どもには無理です」
 自分勝手に話を進めていく男に向かって、いかにも不機嫌そうに聞こえる声音で言い放つ。
 ゆっくりとこちらを見る瞳は、闇を溶かしこんだように深い黒だ。若く美しい姿をしていながらも、その中身は何十年の歳月を過ごした老獪な男なのだ。だが、怯むわけにはいかなかった。
「子ども? そんな光のない目をする子どもがいるものか。一体、お前は何に絶望したのだろうな。ディートリヒと同じだ」
 瞬間、胸の奥底から怒りがこみ上げた。ディートリヒを絶望させたのは目前の男だ。身体にも心にも大きな傷を負わせ、今もなお新しい痛みを与えようとしている。
 黙ってメルヒオールを睨みつければ、彼は楽しげに肩を竦めた。
「娘よ、色好い返事を期待している。できることなら、はやく、な。老いた身では、時間が惜しいのでね」
 喉を振るわせて嗤うメルヒオールは、ゆっくりとした足取りで図書館を出ていく。途端、ドーリスが力なく床に崩れ落ちた。
「ドーリス、大丈夫ですか?」
「ひ、ひどい……。アロイス様は、ひどい」
 屈みこんだアロイスが声をかけると、ドーリスは涙に濡れた瞳で彼を詰った。
「ええ、ひどい男で申し訳ありません」
「エデルも、ひどい。どうして、黙っていたの。貴方も私のこと、ばかにして」
「それは違いますよ。エデルは何も知らなかったのです」
 アロイスがそっとドーリスの髪をかきわけた時、彼女の額に埋め込まれた水晶に気づく。
 ――それは、紛れもなく彼女がアメルンの一員である証だった。
「し、知らなかったとしても、ずるい。一族の者じゃないのに、お祖父様に必要とされ、て……っ、私、用済み、に……」
「ああ、泣かないで。用済みなんて悲しいことは言わないでください」
 アロイスは彼女を抱きしめ、軽く背中を叩きながらあやす。そうして、苦笑した彼はエデルに目配せをした。今のうちに行け、という意図を察して、一人、二階の東側にある本棚に向かう。
 歩きながら、エデルはメルヒオール・アメルンの姿を思い浮かべる。あれがディートリヒの祖父であり、彼を王に祭り上げようと躍起になっている人物なのだ。老いを忘れた美しい容姿を持った魔術師は、まるで物を見るかのようにエデルを品定めした。そうして、ディートリヒが駄目なら王になるのは彼の子どもでも良い、となりふり構わない様子を見せた。
「……わたしには、関係のない話、だよね」
 ディートリヒが誰と結ばれ、誰と子を成そうが、エデルには関係のないことだ。フェルディナントの治世が狂わないのであれば、――確かな未来がイェルクに続くのであれば、この時代の誰が何をしようが気にする必要はない。
 そうであるはずなのに、心中が晴れることはなかった。
 二階の東側に辿りついたエデルは問題の本棚を見上げる。アロイスの言っていた通り、巨大な本棚は随分と痛んでいた。補強はしてあるが、本棚に使われている木の一部が変色して腐りかけている。
 早速、近くに置いてあった台を使い、次々と本棚から本を下ろして床に積んでいく。
「何してるの?」
 後ろから声をかけられた直後、取ろうとしていた本が別の誰かの手に奪われる。本を奪った者は、ついでとばかりにエデルの身体を片手で抱きあげ、台から下ろしてしまった。
「ディーこそ、こんなところで何してるんですか?」
 床に足をついたエデルは、良く知った銀髪の男を見る。
「この奥、僕の秘密の場所」
 ディートリヒは本棚のずっと奥を指差して、秘密を自慢する子どものように笑う。エデルの唇から、自然と笑みが零れ落ちた。
「小さな貴方が、いつも隠れていた場所?」
「そう、どうしようもない不真面目な王子が、母親や教師から隠れるために逃げ込んだ場所。それより、一人でどうしたの? アロイスは?」
 彼の質問に、エデルは一瞬考える。先ほどの出来事を、ありのまま伝えて良いものなのか判断しかねた。
「ああ、ごめん、いいや、何となく分かった。ドーリスでも来たんだろう?」
 顔の前でひらひらと小さく手を振って、彼は深々と溜息をついた。
「あの子も良くやるね。メルヒオールみたいなのに縋って、ばかな子」
 冷たく言い放ったディートリヒに、エデルは眉をひそめた。
「……そんな、言い方はないでしょう」
 泣きじゃくるドーリスに同情したわけではないが、自分の役目を果たせないことで追い詰められている彼女のことを思うと、平然としていることはできなかった。
「彼女のことを可哀そうだと思うけれど、そうやって生きることを選んだのは彼女自身だよ。――いつだって、逃げられるのにね」
 その言葉が意味する青年を思って、エデルは唇を引き結んだ。
 アロイスは、ドーリスが手を伸ばしてくれたら喜んでその手をとるに違いない。互いに想い合っていることは明らかで、アメルンのことさえなければごく普通の恋人同士だ。
「あんな一族棄てて、逃げれば良いのに……」
 眉をひそめた彼が、続けようとした瞬間だった――。
 エデルの目に飛び込んできたのは、ディートリヒの背後から崩れ落ちる本棚だった。
「……っ、ディートリヒ!」
 ――気付けば、エデルは身体を動かしていた。
 男性にしては華奢なディートリヒの身体を引きよせ、驚いて姿勢を崩した彼の頭を抱き締める。そのまま、彼の上半身に全身で覆い被さり、自らが上になるように床に身を倒した。
 誰かの叫びが聞こえた気がしたが、次の瞬間、断続的に背中に走った激痛ですべての音が奪わる。うまく呼吸することができず、ほんのわずかな空気が唇から零れ落ちた。
 身体の下で、ディートリヒが暴れている。助けを求めて声を張りあげているのか、青紫色の唇が必死に何かを叫んでいるようにも見えた。だが、額から零れ落ちた血のせいで目が霞んでしまい、詳しくは分からない。
 大丈夫だと伝えたくて、彼の頭を最後の力を振り絞るように抱きしめる。
 エデルの意識は、そのまま闇に沈んでいった。