花と髑髏

第三幕 四百の夜を超えて 17

 凍える冬は終わりを迎えたが、未だに朝方は酷く冷え込む。薄らと地面に降り積もった霜を踏みならしながら、エデルは隣を歩くディートリヒに視線を遣った。
 柔らかな朝日に照らされた美貌は、相変わらず作り物めいていて、首筋に刻まれた傷痕がなければ精巧な人形と変わらない。肌は恐ろしいほど生白く、繋いだ手は死人のように冷たい。
 儚い男だ。エデルが思っているよりも、ずっと危うい人である。
 ディートリヒは自分の命を誰よりも軽いものと考え、彼を想う周囲の気持ちを容赦なく踏み躙る。
 エデルは小さく身を震わした。おそらく、彼は自分がしていることの惨さを、本当の意味では理解していない。
「寒い?」
 エデルの震えを寒さのせいだと思ったのか、ディートリヒは心配そうに眉をひそめた。
「……大丈夫。ディーこそ、寒くない?」
 エデルは、自分が上手に笑うことができているか分からなかった。
「平気。君が隣にいるからかな、何だか凄く温かいんだ」
 微笑んだディートリヒは、繋いだ手を軽く握り直す。優しい微笑みと仕草に、エデルの心は鉛のように重たくなった。
 ――あの口づけから、彼の態度は明らかに甘くなった。
 エデルに何一つ悲しい想いをさせないように手を伸ばし、時には抱きしめてくれた。出会った頃と違い、彼が一人で先を行くこともない。怪我が治ったばかりのエデルを気遣うように、ゆっくりと歩いてくれた。
 しかし、こんなにも大切にしてくれる彼に対して、エデルは答えを返せずにいる。曖昧な態度のまま、拒み切ることも受け入れることもせずに今日まで過ごしていた。
 中途半端に甘えてはいけないのに、彼の想いに付け込んで逃げているだけなのだ。
 小高い丘に出ると、変わり果てた光景が広がっていた。冬を越えた薬草園は、命の息吹が感じられない荒野と化している。
「この花まで、消えてしまうとは思わなかった」
 エデルから手を離してかがみこんだ彼は、朝焼け色の花を咲かす草に触れる。春を前にして萌えるはずの草は枯れて、見るも無残な姿を晒していた。
 彼の表情に滲んだ深い悲しみから、エデルは目を逸らした。
 エデルは未来を知っている。花は再び丘一面に咲き誇り、英雄に因んだ花として国中で見られるまでに繁殖するのだ。だが、それを教えたところで慰めにはならないだろう。
 ――彼は、たった今枯れていく花を憂いているのだから。
「戻ろうか。この様子じゃ、雑草を抜く必要もないみたいだし」
 ディートリヒは立ち上がり、荒れ果てた薬草園に背を向けた。
「……そんなに、酷い状況なんですか?」
 国を襲う不作について詳しくは知らないが、自室に籠ることが多くなったディートリヒの様子から、事態が悪化しているのは察することができる。
「そうだね。今までの貯えや被害の少ない地域のおかげで何とかなっているけれど、このまま続くなら国中が大きな打撃を受ける。――だけど、原因が分からない」
 ディートリヒ・アメルンは必ず国を不作から救う。史実に記されているのだから、覆りようのないことなのだと信じていた。
 だが、本当にこのままで大丈夫なのだろうか。
 まともに睡眠もとらず原因究明にあたり、日に日に窶れていくディートリヒを見ていると、胸の奥から罪悪感が込み上げた。真剣に悩んでいる彼の隣で、エデルは第三者気取りで楽観的に状況を見ているだけだ。
『遠い過去も、遠い未来も、本来なら決して手の届くことのない異なる世界だ。そんな場所を、どうして僕が憂うの?』
 かつて、ディートリヒが口にした言葉が胸を穿つ。
 あの時、エデルは彼のことを酷く冷めた人間だと感じた。だが、エデルとて同じなのではないか。自分が生きる時代ではないから、国は必ず救われるから、と現状を憂うことすらしていない。
「ディー、元気を出してください。今日は夜にフェル様がいらっしゃるんでしょう? そんな顔でお出迎えしたらだめですよ」
 結局、ろくな慰めの言葉も浮かばず、気休めを与えることしかできなかった。

  ◆◇◆◇

 フェルディナントが花冠の塔を訪れたのは、夜も更けてからのことだった。
 長い金髪を無造作に背に流した彼は、テーブルの端から端まで用意された料理や酒の数々を見て目を丸くする。
「これは?」
「ささやかながら、料理の方はわたしが用意しました。お酒はディーのとっておきです」
 数日前から、次に兄が来る時はいつもより豪華な食事を用意してほしい、とディートリヒから頼まれていたのだ。
「どうぞ、席に着いてください。お注ぎします」
 エデルは酒瓶を手に取って、フェルディナントのグラスに真紅の液体を注いでいく。
「エデル、僕にも」
「もう、近くにあるんだから、自分で注いだらどうです?」
 グラスをこちらに向けて笑うディートリヒに、わざとらしく溜息をつきながら近寄って酒を注いだ。
「ありがとう。それじゃあ、エデル。君も席について」
 退室しようとするエデルを、ディートリヒが引き止める。意味が分からず首を傾げていると、彼は空席を指差した。
「一緒に食べよう」
「でも、せっかく……」
 兄弟で過ごすことのできる時間は、彼らにとって貴重なもののはずだ。間に入って邪魔をしたくはなかった。
「私もディーに賛成だ。席についてくれ、エデル」
 微笑んだフェルディナントにも着席を促され、エデルは視線を彷徨わせながら恐る恐る席についた。
「それじゃあ、乾杯」
 ディートリヒは至極嬉しそうに、グラスを掲げた。
 始まった食事は、明るい会話と共に進んでいく。徐々に頬を赤らめていくディートリヒは、飲酒しているせいか、いつも以上に饒舌だった。フェルディナントはそれに相槌を打ちながら、柔らかな眼差しを弟に向けている。
 仲の良い二人を見ていると、かつて争わなければならなかった過去に遣る瀬無さを感じる。どちらも望んで対立していたわけではないことが、部外者であるエデルにも良く分かるのだ。
「それでね、エデル? 聞いてる?」
「聞いてますよ。ディー、そろそろ部屋に戻りますか?」
 呂律の回らない状態で船を漕ぐディートリヒに声をかけるが、既に聞こえていないのか、返事はない。そのまま机に突っ伏した彼は、ついに寝息まで立て始めてしまう。
「……お酒、弱かったんですね」
 時折酒を嗜んでいたのは知っていたが、その場に居合わせたことは今日が初めてである。てっきり酒に強い性質だと思っていたため意外だった。
「私も詳しくは知らないのだが、水晶の影響で酔いがまわりやすいらしい。だから、今日のように大量に飲むことは滅多にないのだが……、特別だったのだろうな」
「特別、ですか?」
「今日は私が王城に迎え入れられた日なんだ。もう、十余年も昔の話だが」
「それなら、ディーにとっては特別な日ですね」
 ディートリヒにとって家族ができた日だ。彼は今日という素晴らしき日を、大好きな兄と過ごしたくて堪らなかったのだろう。
「あの時、王家から遣いが来てどれだけ驚いたことか。自分が王子だなんて、城下町で暮らしていた頃は思いもしなかった。――だから、時折、思うんだ。俺が王家に迎えられず、商家の跡取りのままだったら、と」
 フェルディナントは長い睫毛に縁取られた目を伏せる。酔っているのか、彼の口調は常よりも随分と砕けたものになっていた。もしかしたら、こちらの方が本来の彼の喋り方なのかもしれない。
「そうしたら、ディーはもっと幸せだった。俺が迎えられるまでの数年、世継ぎはこの子だったのだから」
 フェルディナント・バルシュミーデ・グレーティアは、八つまで市井で育った。つまり、彼が王家の一員となるまでは、ディートリヒこそが世継ぎだったのだ。
「何も知らなかった愚かな俺は、独りだったこの子の手を引いて、いろんな場所に連れ出した。この子が折檻されるのも、母親から刺されたのも、すべて俺が世継ぎとなったからだったのに。……惨いことをしたと、今でも思う」
 だが、無知故のフェルディナントの行動が、ディートリヒを救ったに違いない。愛を知らぬ子どもは、外から舞い降りた異母兄に愛されることによって世界を知った。その出逢いはディートリヒに多くの傷を負わせることにもなったが、彼は幸せだと胸を張るはずだ。
「エデル。お前は、この子の傷の理由を知っているか?」
 穏やかな寝息を立てる弟の喉を指差して、フェルディナントは力なく笑った。
「自分で、喉を突いたそうですね」
 それでも、死ぬことはできなかった、と嘆いたディートリヒを憶えている。
「ああ、そうだ。自分の力で王位争いを止められないと悟ったこの子は……、床に伏した父王の前で・・・・・喉を突いたんだ」
 エデルは思わず息を呑み、フェルディナントの顔を見つめた。
「先代の、陛下の前で、ですか?」
「そこまでしなければ、王位継承権の破棄を認められなかったんだ。俺がそのことを知ったのは、即位したあとだ。争いは終わったのだから、再び家族として過ごせると思って、何も知らなかった俺は喜んだ」
 大きな傷を負った弟を前にして、フェルディナントはどれほどの衝撃を受けただろうか。エデルは唇を引き結んで、眉をひそめた。
「花冠の塔を訪れた俺を迎えたのは、以前と変わらぬ笑顔だった。――だけど、その首に刻まれた傷痕を俺は忘れない。この子の傷は、俺の罪だ」
「でも、……ディーは、きっとそんな風に思ってないですよ」
 自らが死ぬことよりも、兄の邪魔になることを恐れているような人だ。自分が受け入れた痛みの罪を、兄に求めたりはしない。
「だから、辛いんだ。俺は、この子に愛される価値なんてないから」
 そう零したフェルディナントは、酷く悲しそうだった。