花と髑髏

第三幕 四百の夜を超えて 18

 小鳥の囀りが幽かに聞こえた。柔らかな朝日に照らされるソファの上で身を起こしたエデルは、焦点の定まらない目を擦る。
 テーブルに視線を遣ると、昨夜と変わらずディートリヒが突っ伏していた。いくつかの酒瓶が転がった部屋を見渡しても、フェルディナントの姿は既にない。エデルたちが眠りに落ちている間に、王城へと戻ったのだろう。
 見送りもできず、無礼な真似をしてしまった。フェルディナントならば、笑って気にするな、と赦しそうだが、そういう問題ではなかった。
 寝起き特有の気だるさに眉をひそめたエデルは、立ちあがって目を見張った。
 ――ソファの上に、わずかに赤い血が染みを作っていた。
 自分の身体を見下ろすが、特に怪我を負った様子はない。ただ、腹のあたりがいつもより重く軽い吐き気があった。
 その血の理由に思い至った瞬間、エデルは悲鳴をあげた。
「……エデ、ル? どうしたの?」
 先ほどの悲鳴で起きたのか、ディートリヒが眠たげに聞いてくる。エデルは顔をあげることもできず、目を落としたまま身を震わせた。ここから早く去った方が良いと分かっているのに、足が一歩も動かない。
 近寄って来たディートリヒは、赤く染まったソファを見た。
「血? 何処か、怪我したの?」
 怪我だったら、どれだけ良かっただろうか。痛む下腹部に指を這わせて、エデルは首を横に振った。動揺と羞恥心のあまり頬を熱い滴が伝って止まらなかった。
「違う、こんなの……、こんなの、来る、はず、なくて」
 ぼろぼろと涙を零すエデルに、ディートリヒが困惑した表情を浮かべた。
「だって、薬、飲んで、た……」
「薬?」
「子どもの、ままでいるための、薬」
 数年前から飲み続けた、女にならないための薬。とある植物・・・・・から作られるその薬は、長く飲み続けると身体の機能を損なうため、この時代に来る直前にコルネリアが処方を止めたものでもある。
 そこで、エデルは顔を青ざめさせた。
 もしかしたら、コルネリアは最後だと言いながらも、既に薬を処方していなかったのではないか。薬だと信じて飲み続けていたものが、ただの粉末だったとしたら、身体に変化が起きても可笑しくない。
 エデルが気づかなかっただけで、着実に、この身体は子どもを抜け出していたのだ。
「ああ。……そう、だったんだ」
 ディートリヒは白銀の髪をかきあげて、盛大に顔を歪めた。
「不思議に思っていたんだ。君の身体は、十五歳にしては不自然なくらい子どもだったから。無理やりそうしていたなら当然だ」
 ディートリヒの骨ばった指がエデルの頬に触れ、流れる涙を払った。あまりにも優しい指先に、かえって胸が締め付けられた。
「こんなことをしてまで、君はイェルクの傍にいたかったんだね。どうして、君を幸せにできない男をそこまで想うの? 決して実を結ぶことはないのに、恋情なんて抱くの?」
 エデルは小さく首を横に振る。イェルクのことを今でも大切に想っている。だが、胸の内に在るのは、あの頃に抱いていた恋慕ではなく確かな家族愛だと断言できる。
 今なら、きっと、あの人の前に立っても胸は痛まない。
「どうせ、別れるから……、僕のことなんて、君はどうでも良かったんだろう」
 それでも、ディートリヒの言葉を否定することができなかった。
 自分は帰る人間で、卑怯に甘えていて、――ディートリヒの心の虚に偶然居合わせただけだった。
「……っ、ディー」
 いつの間にか燻っていた想いに、たった今、気付いてしまった。だが、ディートリヒと共に生きることのできないエデルには、その想いを口にする資格などない。
「ドーリスを呼んであげるよ。おめでとう、エデル」
 当てつけのように零された祝福に、誰よりも彼自身が傷ついているようだった。引き止めたかったのに引き止める術を持たなくて、エデルが伸ばした手は空を切った。
 扉の外へと消えて行った背中に、堪らずエデルは唇を噛んだ。
 ――どうして、生まれを変えることはできない。
 心から望んだ人には、誰一人手なんて届かないではないか。栓のないことだと知りながら、心の奥底から嘆きが溢れ出して止まらない。
 初恋の人は生まれ持った血によって諦めなければならず、同じ孤独を抱いた二度目の恋を捧ぐ人はエデルと同じ時を生きてはくれない。
 どうでも良かったならば、こんな風に胸が痛んだりしなかった。エデルの核となる部分に根付いた初恋を昇華させ、新しい世界を見せてくれたディートリヒの存在が、こんなにも大きくなっていたことを思い知る。
 備え付けられた浴室に湯を運んで、エデルはひたすらに涙を零した。
 あまりにも自分が愚かで吐き気がした。知識を蓄えて大人ぶったところで、結局、駄々を捏ねる子どもと何一つ変わらない。
 傷ついたのは、ディートリヒだった。エデルが彼を傷つけたのだ。何故、さも自分が傷つけられたかのように嘆いているのだろう。
「エデル」
 身を清めて部屋に戻ると、ドーリスが心配そうに駆け寄ってきた。事情を知っているらしく、彼女はエデルをソファに座らせる。
「大丈夫?」
 心配そうに顔を覗き込んでくるドーリスに、エデルは力なく頷いた。
 具合が悪いのもあるが、先ほどのディートリヒの表情が何よりも気分を落ち込ませた。
 ――顔を歪めた彼は、今にも泣き出しそうな子どもに見えた。
 だからこそ、彼の好意に甘えていた自分に吐き気がする。愛して、と言った彼に、エデルは向き合うことすらしていなかった。必ず訪れる別れを理由に逃げて、手酷く彼を傷つけてしまった。
「ディートリヒ様と、何かあった?」
「……わたしが、全部悪いの。本当に彼を想うなら拒むべきだったのに、甘えて縋りついて、傷つけた」
 震えるエデルを抱きしめてくれた、冷たい身体に安堵を覚えた。温かくて切なくて、泣きたくなるほど幸せだった。そうして、卑怯なエデルは彼を中途半端に受け入れたのだ。
「好きになったら、……愛してしまったら、辛くなると分かっていた。だから、わたしは逃げたの」
 今さら気付いたところで、すべては手遅れだ。彼の好意だけでなく、自分の心にさえも向き合わなかったエデルには、この想いを告げることなどできない。
「後悔、しているの?」
 ドーリスの小さな呟きに、エデルは顔をあげる。彼女の黒い瞳が、縮こまるエデルを映し出していた。
「逃げたこと、悔いているなら、……大丈夫。ちゃんと向き合うことができる。欲しいなら、手を伸ばして。我慢しなくて良いの。貴方には、それが赦されている」
 塞ぎこむエデルを気遣うように、ドーリスがそっと肩を抱いてくる。癖一つない彼女の髪が頬を撫ぜ、柔らかな香りが心に沁み渡る。
「ディートリヒ様に、会いに行きましょう?」
 囁いて、彼女はエデルの手を引いた。
「……また、あの人を傷つけるかもしれない」
「それでも、このまま会わずにいるより、ずっと良い」
 眉を曇らせるエデルに、ドーリスは微笑んだ。彼女は躊躇うエデルの背中を優しく押すように、立ち上がらせてくれた。
「あり、がとう」
 ――ディートリヒに、会いに行こう。
 自分の想いを上手く伝えることができず、また傷つけてしまうかもしれない。それでも、仲違いしたまま別れてしまう前に、もう一度、彼と向き合わなければならない。
 ドーリスに連れられて花冠の塔の一階に降りると、突然、彼女が足を止める。
「ドーリス?」
 驚いたエデルが立ち止まると、彼女はおもむろに壁に指先を走らせた。
「……やっぱり、ディートリヒ様なら、こうすると思ったの。あの人みたいに優秀な魔術師なら、わざわざ毎日結界を張り直す必要、ないもの」
 ドーリスの指先に向かって目を凝らして、エデルは小さく息を呑んだ。彼女がなぞっていたのは壁ではなく、壁に刻まれていた魔女文字だった。
「塔自体に魔女文字を刻んで、結界を張っていたのね」
 おもむろに懐剣を取り出して抜刀した彼女は、壁に刻まれた魔女文字を乱暴に傷つけた。
 茫然とするエデルに、彼女は泣きそうな顔で微笑んだ。
 憂いを帯びた悲しげな微笑は、エデルを通り越し、その後ろへと向けられていた――。
「良くやった、ドーリス」
 恐る恐る振り返ったエデルの視界に、一度だけ図書館で会った男がいた。艶やかな黒髪をした美しい男は、身も心も蕩けるような甘い笑みをドーリスに向ける。
「お祖父様。これで、……全部、赦して、くれますか?」
「ああ。お前の胎にいるアロイスの子の命・・・・・・・・は保証してやろう」
 自らの下腹部を守るように手をあてたドーリスに、エデルはすべてを理解する。
「ドーリ、ス」
 最早、その顔は伏し目がちの内気な少女のものではなく、一人の母の顔をしていた。
「ごめんね、……ごめんね、エデル」
 そうまでして子どもを守ろうとした彼女を、母に愛されなかったエデルは責めることができなかった。