ドーリスに連絡をして、花冠の塔を出たディートリヒは、王城の図書館に足を運んでいた。きつく拳を握り締めて、馴染み深い二階の東にある本棚のもとに向かう。
あの日倒壊した本棚は、新たなものに取り換えられていた。エデルの命を脅かした凄惨な事故の名残はない。
「エデ、ル」
小刻みに震える少女の姿が、何度も脳裏に描き出される。こちらを見上げてくるエデルは、子どもではなく女だった。少女は瞬く間に花を咲かせ、艶やかな色を纏った。
「ディー。どうしたんですか」
黙って二階に隠れたディートリヒを気遣ってか、アロイスが声をかけてくる。心配そうに眉間に皺を寄せる彼を前にして、ディートリヒは血が滲むほど強く唇を噛んだ。
「エデルと喧嘩しましたか? フェルディナント様と喧嘩した時と同じ顔をしてますよ」
アロイスの声は穏やかで、まるで聞き分けのない子どもに接するかのようだった。
「喧嘩なら、どれだけ良かっただろうね」
喧嘩とは、互いが対等である場合に成り立つものだ。ディートリヒとエデルのように、元々同じ舞台に立っていない者たちの間では喧嘩すらできない。
「結局、僕のことなんて……、あの子は見ていなかったんだ。あの子の中には、いつだって大切な男がいた」
イェルク・ガイセ・グレーティア。
二百年も先を生きる、フェルディナントの子孫にして彼女の異父兄に当たる少年。決して手の届かぬ未来で、彼女が何よりも愛した男だ。
「どんなにエデルを好きになっても、愛しても、……彼女は僕を見てくれない」
「……本気で、言っているのですか? 私が知るエデルは、貴方をとても大切に想っていましたよ」
ディートリヒは力なく首を横に振った。
「下手な慰めは要らないよ」
「慰めだと思うなら、貴方は何も見えていない大莫迦者です。エデルの中には、貴方の言う男がいるのかもしれない。だけど、その想いは、彼女が貴方を見ない理由にはならない」
「だから、慰めなんて要らないって言ってるだろ! もう、もう、良いんだ。どうせ、あの子は、僕のいない場所に帰るんだから……! ずっと一緒になんていてくれない!」
激高して叫んだ次の瞬間、アロイスの手がしなり頬に痛みが走る。頬を打たれたのだと気付いて目を丸くすると、彼はこちらを睨みつけてきた。
「貴方を見ない人が! どうして、……命を懸けて、貴方を庇ったりするんですか。あんな小さな身体で、下手をしたら死ぬと分かっていたでしょう!」
温厚な彼の見たこともない表情に言葉を失う。この年上の友人の怒りを、ディートリヒは初めて目にした。
「まして、彼女は貴方が滅多なことで死なないと知っていたのでは、ないのですか。それでも手を伸ばしたのは、貴方に、これ以上の痛みを与えたくなかったからだ。傷ついてほしくなかったからだ」
「……アロイ、ス」
「私には貴方たちの事情が分かりません。エデルが帰らなければならない場所だって知らない。だけど、別れは誰にだって等しく訪れるものです。ずっとなんて、永遠なんて、何処にもない。……だけど、本当に欲しいなら手を伸ばさなくてはいけません」
兄以外に愛した、初めての人だ。死にたがりの男のために泣いて、刻まれた傷痕に寄り添ってくれた少女だった。
永遠を望んだ。ずっと傍にいて欲しいと願った。
「貴方は、このままで良いのですか。全部、諦めてしまうのですか」
だが、それならば、限りある時間には何の価値もないのだろうか。彼女が流してくれた涙は、無意味なのものだろうか。
――違う。
彼女に救われたこの心には、かけがえのない価値と意味があった。
子どもの頃から何一つ変わらない、嘆いて諦めるばかりの臆病者のために、彼女は綺麗な涙を流してくれた。彼女に大切にしてもらえた自分の命は、無価値でも無意味でもない。
「まだ、……間に合う、かな」
限られた時間であろうとも、ディートリヒがエデルと過ごした日々は消えない。こんな自分のために手を伸ばしてくれた少女は、なかったことにはならない。
あの温もりを覚えている限り、たとえ離れてしまっても、彼女はディートリヒを照らす光となる。
「貴方が諦めないならば、まだ間に合います」
力強く頷いたアロイスに、感謝を口にしようとした時だった。
不意に、ディートリヒの身体中を違和感が駆け抜ける。それは、何度も味わったことのある感覚だった。
「ディー?」
――行使していたはずの魔術が破綻したときに感じるものだ。
「結界が、切れた。花冠の塔に張っているはずの結界が、消えて……」
ディートリヒは、侵入者対策として花冠の塔から薬草園の丘に至るまでを巨大な結界で覆っている。結界は己が招いた者しか入ることのできない特別なものだ。
何故、気付かなかったのだろう。一体、いつ、破れたのだ。
あの場所にいるエデルを思い出して身を震わせると、ディートリヒの視界に一人の少女が入りこむ。結えた黒髪を乱した彼女は、速足で階段をのぼりこちらに向かってくる。
「ドーリス?」
彼女はディートリヒたちを前にした途端、瞳に涙を湛えて膝から崩れ落ちた。毛足の短い絨毯へと、零れ落ちた涙が次々と吸い込まれていく。
突然崩れ落ちて泣き出した彼女に、アロイスが慌てて駆け寄る。
「こんなに泣いて、いったい、何が……」
「ディー、トリヒ、様、ごめんなさい、ごめんなさい」
「どうして、僕に謝るの……?」
理由の分からぬ謝罪に、ディートリヒは怪訝な顔をする。
「エデルを、お祖父様に引き合わせました」
頭の中が真白に染まり、ディートリヒは彼女が何を言っているのか理解できなかった。
「ごめんな、さい。ごめんなさい、赦して、赦して……」
ドーリスは錯乱したように謝罪を繰り返す。ディートリヒは、気付けば彼女の胸倉を無理やり掴んでいた。
「ディー、乱暴は止めてください!」
「アロイスは黙っていて!」
アロイスの制止を振り払い、怯える彼女を睨みつける。御しがたい怒りに目の前が真っ赤に染まっていた。
「エデルを、売ったんだね。彼女を渡せば、アロイスとの仲を認めてやろう、とでもメルヒオールに言われた?」
「だって、だって! ……そうしないと、お祖父様に、赤子を殺されてしまうもの!」
ディートリヒは彼女の胸元から手を離してしまう。乱暴に床に投げ捨てられた彼女は、自らの腹を守るように腕をまわす。
「ディートリヒ様は、エデルが良いのでしょう? あの子が欲しいなら、何の、問題もない。なのに、我慢して、……ばか、みたい。欲しいなら手を伸ばせば良い。私と違って、貴方はそれを望まれているのに」
アロイスとドーリスの仲は、アメルンの一族にとって望ましいものではない。
だからこそ、彼女はメルヒオールに逆らわなかったのだ。授かった赤子を取り上げられないために、堕胎させないために従う道を選んだ。
「エデルを抱いて、貴方は王になれば良いわ。ね、皆、幸せ」
「……っ、幸せなわけ、あるものか! 僕はあの子が欲しかった。だけど、こんな形で望んでいたわけじゃない! あの子の生きる場所は、僕の隣では、ないのだから」
心惹かれたのは、未来でイェルクを愛した、愛情深くて不器用な少女だ。ディートリヒの隣に並んではくれない、違う時を生きる少女だ。
「エデルは、何処にいる」
たとえ、彼女が自分を愛してくれなくても――、ディートリヒは彼女のことを愛していたいのだ。
「花冠の、塔に」
その言葉に、ディートリヒは走り出した。
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