緩やかな風が、室の中に入り込む。
青嵐に仕え初めてから半年の月日が経った。
訪問者など来るはずもない寂れた宮の中で、真朱はゆっくりと瞬きをした。
この宮の主――青嵐は、捨ておかれた末の皇子。翔国の皇位から一番遠く、皇子たちの中で唯一、天上に住まう月の民の血を継いでいる。
憎むべき月の民の血を継ぐ青嵐を、翔の民は快くは思っていない。そのことを幼い頃から自覚していた青嵐は、他人と深く関わりを持とうとしない。
――視線の先で絵に向かう青嵐は、自らを守るために、孤独を選んだ人だった。
何者に対しても一貫して冷淡な態度をとり、決して親しい者を作ろうとしない姿勢は、彼自身が己の危うい立場を良く理解しているからなのだろう。
「青嵐様」
そのように生きる彼を、とても寂しい人だと思う。
真剣な眼差しで筆をとる彼の瞳は、時折、酷く飢えているように見えた。それは、様々なものを諦めているつもりで、諦め切れていない心があるからだと真朱は知っていた。
青嵐は、真朱と良く似ている。共に、たった一人の庇護者であった母を亡くし、独りで生きるしかなかった。
「綺麗な絵ですね、お上手です」
一息ついて筆を置いた青嵐に、真朱は声をかける。
淡い色調で描かれているのは、蒼穹を舞う比翼の鳥だった。大きく翼を広げて飛ぶ姿は自由そのもので、真朱は自然と憧憬の念を覚える。
「……、上手かは知らぬが、あの女は、月では絵師をしていたからな。それなりに才はあるのかもしれぬ」
「母君が?」
「ああ。地上に堕ちた夜も、夜空を見るために翼を広げていたらしい。突風で翼を狂わせて、地に堕ちてしまった莫迦な女だ」
彼の母親であった妾妃は、白銀の両翼で空を翔ける月の民だ。彼らは地上に住まう翔の民と違い、天つ空に浮かぶ月に暮らしている。
「……、いっその事、その時に殺されていれば良かったのだ。まさか、自分たちが地上に置いていった民の子を生むなど、思いもしなかったであろう」
再び筆をとりながら、青嵐は呟いた。徐々に青嵐の手で色づいていく鳥は、本物さながらのようであった。
だが、彼は翼の部分に筆を載せた瞬間、動きを止めた。
「青嵐様?」
「……、翼が美しくないな。貴様、口を開けろ」
青嵐の命令に首を傾げながらも、真朱は素直に口を開いた。すると、青嵐の指が突然、真朱の舌を引っ張りだした。あまりの衝撃に目を見開くと、青嵐は興味深そうに真朱の舌を見つめていた。
「これが、比翼の刻印か? 鳥の翼を想像していたのだが、期待はずれだな」
納得したように頷いて、漸く、青嵐は真朱の舌を解放した。
「……っ、青嵐、様! 比翼の刻印が見たいのならば、言ってくだされば、喜んでお見せします!」
「うるさい、耳元で叫ぶな。――、比翼の刻印とは名ばかりで、随分と抽象的な印だな。……、その刻印さえあれば、誰であろうとも比翼術が使えるのか?」
真朱は首を振った。
「いいえ。刻印を持っていようとも、
基本的に冠家の人間にしか比翼術は使えません」
「片翼の私にも、使えぬと?」
「……、あたしの舌を抜いて、刻印を取るのは止めてくださいね」
真朱が溜息をつくと、青嵐は意地の悪い笑みを浮かべた。
「なんだ、愚鈍なお前にしては珍しく、私の考えを見抜いていたのか」
「……、愚鈍なことは否定しませんが、半年もお傍にいれば、青嵐様の考えそうなことくらいは察しがつきます」
影として、この半年の間、ほとんど彼から離れることなく過ごしたのだ。愚鈍な真朱でも、それなりに青嵐のことを理解できる。
「……、そうか、半年か。時が流れるのは早いものだな。まさか、貴様が半年も持つとは思わなかった」
「傍に置いてくださると言ったのは、青嵐様ですよ」
尤も、この言葉とは裏腹に、常に青嵐の傍にいたいという気持ちを保っていられたわけではない。
「貴様の誓など口だけで、すぐに逃げ出すと思っていた。優しく接したつもりはない……これからも、そのように扱うことはない」
「……、そうでしょうね」
青嵐が真朱を優しく扱うことなど、ないだろう。そのような未来、想像することもできない。
漸く普通に会話できるようになったが、初めの頃、青嵐は真朱など存在していないかのように振る舞っていた。話しかけたところで八割方は無視を決め込んでいた上に、辛うじて会話が成立しても直ぐに彼は喋るのを止める。
それは、何よりも孤独を恐れる真朱にとって、一番の苦痛だった。
意地になって彼に話しかけ傍に居続けたのは、彼以外に、真朱が縋る者がなかったからだろう。
「どうして逃げない? もし、同情で私の傍に留まっているのならば、そのような煩わしいものは不要だ」
そして、何よりも、――彼の傍に仕えたいと思う一番の理由は、時折、彼が瞳に見せる翳りだった。その瞳を見る度に、真朱は胸の奥が切なくなる。彼の傍にいなくければならない、と、身勝手な使命感に駆られた。
真朱には、自ら孤独を選んだ彼が、寂しげに見えて仕方がなかったのだ。
青嵐の眉間には、深い皺が寄せられている。
「影など要らぬ。この世で信じられるのは、目に見えるものだけだ」
彼の視線が真朱を射抜いた瞬間、真朱は確信する。
――この人は、やはり、真朱と同じなのだ。
唯一の庇護者であった母親を喪い、真朱と同じように愛情に飢えている。 温かな何かに包まれたいと願いながら、届かないことを知って、手を伸ばすことさえ止めてしまった。何もかも諦め切れていないのに、彼は孤独でいることを選んだ。否、選ばざるを得なかった。
「帰る場所があるならば、帰ると良い。その方が、私も都合が良い」
突き放すような言葉が、何故だか、とても優しく響いた。彼が真朱を案じることなどありえないと分かっているのに、心の水面が揺れる。
「……、帰る場所なんてありません。あたしは半端者で、妓楼育ちの身ですから」
「冠家の術師が、妓楼育ちか。面白いことを言う」
冠家は、代々皇族に仕えてきた術師の家だ。
両親から片翼ずつ比翼の刻印を受け継ぎ、幼い頃から比翼術と呼ばれる異能を叩きこまれる。一人前と認められてからは、その術を用いて皇族の影として仕えるのだ。
真朱のように妓楼で育つことなど、普通ならば考えられないことだった。
「母が妓女でした。自分が冠家の血を引くことも、父の存在も、母からは聞かされませんでした。知ったのは、一年ほど前の話です」
何度尋ねても、生前の母は父について語らなかった。寂しげな笑みを浮かべて真朱の頭を撫でる母に、いつの日か、真朱は父親のことを口にすることができなくなった。
今ならば、母の笑みの意味が分かる。真朱が望まれて生まれた子ではなかったからこそ、母は何も語らなかったのだ。
「はっ、……貴様も戯れで生まれたのか。それで、私に同情したのか?」
翔青嵐。
月の民を母に持ち、白銀の片翼と共に生まれた翔国の末の皇子。
翔国の先祖を月へ連れて行かず、穢れた大地に置き去りにした者たちの血を継ぐ女に、皇帝は戯れに触れたのだ。
そうして生まれた青嵐は、金の髪に蒼穹の瞳という、月の民の特徴を顕著に受け継いでいた。
「貴様と私が、同じだとでも思ったのか?」
冷ややかな声に、真朱は肩を震わす。
「虫唾が走る。――翼を持たぬ貴様らと一緒にするな」
翼を持たぬ民。かつて、穢れた大地の代わりに月が創造された時、月神から翼を授かることができなかった者たち。翼を授からなかった故に大地を穢した罪人だと罵られ、翼を授かった者たちに置き去りにされてしまったのが、真朱たち翔の民の祖先だ。
白銀の翼こそが月に住まうことを赦された証だと、翼を授かった月の民は言う。
翼を授かることのできなかった罪人は、月に焦がれることしか赦されはしない。いつか月に翔ることを願い名付けた
翔という国名は、未だに叶わない。
翔の民は、ずっと、月に焦がれているのだ。
「……、月を、夢見ていらっしゃるのですか」
だが、それは片翼の青嵐も同じだろう。片翼では、翔の民と同様に、空を翔ることができない。月を見上げることは赦されても、その場所を歩き、月のすべてを見ることは叶わない。
「……、さあな。片翼が歓迎されるとは思えぬが、行けるものならば、いつか行ってみたいのかもしれぬ」
「青嵐様なら、きっと、行けますよ」
不意に真朱の唇から零れた言葉に、青嵐は顔をしかめた。
「片翼の身では、空を翔ることはできぬというのに?」
「――、それが青嵐様の夢ならば、あたしが叶えてさしあげます」
叶える手立てなど浮かんですらいないというのに、真朱は気づけば口にしていた。
「……、戯言を」
見上げた青嵐の表情が、心なしか常より柔らかに見えたのは、真朱の気のせいなのだろうか。
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