術師の証である漆黒の衣を纏って、真朱は離宮に設けられた庭園に立っていた。
青嵐が、持病を悪化させ臥している皇帝陛下を見舞いに行ったのは、昼下がりのことだった。真朱も途中までは付き添っていたのだが、皇族でもない自分は、流石に皇帝陛下の室までは入れない。
そのため、青嵐が皇帝を見舞う間、真朱は一人だった。
「……、青嵐様、まだ、なのかな」
時間がかかるのは分かるが、いくらなんでも、長時間放置され過ぎている。 動かずに待っていろと言われたが、いい加減、ずっと同じ場所にいることも辛いので、真朱は庭園を歩くことにした。幸い、庭を歩きまわったところで、青嵐に動くなと言われた場所は確認できる。
人の手が加えられ美しく彩られた庭園を、真朱はゆっくりと歩く。
やがて、庭園の中央に位置する池に辿りつくと、真朱は屈みこんだ。
透明な水面に、くすんだ亜麻色の髪をした子どもの姿が映し出される。ゆっくりと舌を出すと、小さな舌に白銀の翼を模した刻印が刻まれていた。
比翼の刻印――月の民が持つ翼への憧憬と嫉妬から、その刻印はそう呼ばれる。
だが、真朱のそれは、完全な刻印と違って片翼しかない。
本来、刻印は親から片翼ずつ受け継ぐのだが、真朱の母親は冠家の血縁ではない。父の翼しか受け継ぐことができなかった故に、真朱の刻印は不完全なのだ。
比翼術を満足に使うこともできない。それどころか、使う度に黒い紋様となった代償が身体を這い、真朱の命さえ侵していく。先日、爪先に浮かんでいた紋様を思い出して、真朱は目を伏せた。
――、元々、比翼術を用いて悪さをしていた身だ。身体中に徐々に浮かび上がる紋様の意味も、自らが冠家の血縁であると知る前に、本能的に理解していた。
これは、命を蝕む紋様だ。
それでも、すべてを知ってなお、比翼術を用いずにはいられなかった。
あの日誓ったように、真朱は青嵐のためだけに存在している。この血の一滴さえも、青嵐の願いを叶えるために在ると信じて止まない。
そのためには、比翼術が必要だった。
「そなた、ここで何をしておる」
背後から声をかけられて、真朱は慌てて振り返った。
そこには、艶やかな黒髪をした少女が佇んでいた。歳は、おそらく青嵐よりも上だろう。愛らしい桃色の衣を何枚も重ねて纏い、結われた髪には一目で高値と分かる梅花の簪が差されていた。
花の
顔は、何処となく青嵐に似ていた。
「……、その衣、影、なのか?」
真朱が身に纏う黒衣を見て、彼女は呟いた。
「はい。冠真朱と申します」
「私は
蘭香だ。そなた、このような場所で何をしておるのだ? 仕えている主の名は?」
蘭香。青嵐より年上の第一皇女の名だ。
真朱は、深々と
拱手して、相手に対して敬意を示した。真朱の無礼が、青嵐の妨げになってはいけない。
「青嵐様です」
青嵐の名前を出した途端に、蘭香の顔が曇った。
「……、月の子に、影など要るのか?」
眉をひそめた蘭香の反応は、尤もだったかもしれない。
真朱たち冠家の名が示すのは、皇帝の証とされる
冠のことである。翔国が今の形となる前、当代一優れた術師を持つものが国を治めると言われていたのだ。そのため、術師は皇帝の証である冠に準えて呼ばれるようになった。
それ故に、
冠家である。
蘭香は、月の民の血を継ぐ青嵐が皇帝になる可能性は皆無だと言いたいのだ。
「そなたも、まだ幼いというのに……、気の毒に」
蘭香の言い様に、真朱は首を横に振った。
「……、気の毒なんてこと、ありません」
辛いと思ったことがないとは言わない。だが、青嵐に仕えることを、真朱はこの上ない幸福だと思っている。
死に絶えるだけの命だった自分が、孤独に苛まれることなく、誰かのためにこの生を捧ぐことができる。それを気の毒と呼ばれるのは、違う気がした。
「あたしは、あの方にお仕えできて……、とても、幸せです」
唇から零れ落ちる言葉は、紛れもない真朱の本心だった。
――何より、真朱は自分が孤独から逃れるために青嵐を利用しているのだ。憐れまれるよりも、蔑まれる方が似合いだろう。
「月の子の影は、相当な酔狂者だな。あのような皇子に仕えたところで、未来はないだろうに」
真朱を気にかけるように、蘭香は眉を下げた。
未だ幼さの残る真朱が影として生きることに、彼女は同情しているのかもしれない。白魚のような手をした皇女は、初めて見た真朱のような子どもを憐れに思ったのだろう。
「未来がなかったとしても……、傍に置いてくださるなら、それだけで良いんです」
真朱は、青嵐のために生きて死ぬ。身勝手にも、それを己の幸せと決めたのだ。
微笑んで顔をあげた真朱に、蘭香は苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「……、もし、耐えられなくなったら、私のところに来ると良い。月の子よりは、大事にしてやる」
それだけ言い捨てて、蘭香は真朱に背を向けた。それに連れ添うように現れた黒い衣の男。従者を一人もつけていないことを疑問に思っていたのだが、直ぐ傍に、冠家の術師が控えていたらしい。
その光景を見て、真朱は目を伏せた。出来そこないの自分とは違う、正統な冠家の術師が、蘭香にはついているのだ。
黒衣の下、黒い紋様に蝕まれる自分の身体が脳裏を過った。もし、蘭香の影のように完全な比翼の刻印を持っていたならば、今のように比翼術の代償に苛まれることはなかったのだろう。
青嵐の役にも、今よりも立てたはずだ。
「貴様、勝手に動き回るなと言っただろう」
聞き慣れた声にゆっくりと顔をあげると、眉をひそめた青嵐の姿があった。
「すみません、少し庭を見てみたくて」
「……、誰かと、話していたのか? 少し声が聞こえた」
「はい。蘭香様と、お会いしました」
隠し立てすることでもなかったので、真朱は正直に答える。蘭香の名を聞いた途端に、青嵐はあからさまに不機嫌な顔をした。
「蘭香姉上に会ったのか。余計なことを吹きこまれていないだろうな」
「……、特には」
耐えられなくなったら自分の元へ来いと蘭香は言ったが、そのことを青嵐に伝える必要はないだろう。真朱が青嵐の影を止めて蘭香に仕えることはあり得ない。
「それならば良いが、……姉上は私を憎んでおられるからな。貴様に何を言うのか分からぬ」
「……、憎んで?」
「姉上の母親は、私の母に皇帝の寵愛を奪われた妃だ。――、何より、姉上は女で私は男だからな。さぞかし、憎らしいのだろうよ」
翔国の皇位継承権は、男児にしか与えられない。それ故に、いくら願っても蘭香は皇帝にはなれない。月の民の血を継ぐ青嵐ですら継承権を持っていると言うのに、蘭香にはそれが与えられないのだ。
「蘭香様は、皇帝になりたいのですか?」
「そうなのかもしれぬ。無能な兄上たちと違って、姉上は国を憂いている節があるからな」
肩を竦めた青嵐に、真朱は思う。
母親同士の因縁も理由なのだろうが、蘭香の憎しみの原因は、自分が皇帝になれないというのに、青嵐に皇位継承権が与えられていることなのかもしれない。
「つまらぬ話をしたな。戻るぞ」
歩き出した青嵐に、真朱は慌てて続いた。
「あの、皇帝陛下の病状は?」
「前々から、持病に苦しんでおられたからな。今回も、少し悪化しただけだ。……、数年後にどうなるかは知らぬが、今のところは、大丈夫だろう」
青嵐の瞳には、皇帝を心配する色は見えない。
彼が恐れているのは、皇帝の死ではなく、皇帝が死ぬことで自分に後ろ盾がなくなることだ。足繁く皇帝の見舞いに行くのも、自分の後見の機嫌をとるために過ぎない。
血が繋がっているとはいえ、青嵐は皇帝を愛してはいない。むしろ、憎しみに似た感情を抱いているようだった。
その点もまた、真朱が己と青嵐を似ていると思う理由だった。
真朱も、冠家の当主である父を愛してはいない。言葉を交わしたこともわずかで、父親だと知ったのも一年前のことだった。慕うにしては付き合いが短い上に、相手は母と自分を放っていた男だ。
「それに、皇帝陛下には貴様の父親がついている」
「……、そうですね」
冠家で最も優れた術師が、皇帝の影なのだ。病状が悪化しない限り、皇帝が死ぬ心配は、ほとんどなかった。
不本意だが、そのことに関しては、真朱は父に感謝している。
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