月虹彼方

第二幕 朱の少女 08

 父を殺してから数日後の朝、真朱が青嵐を訪ねると彼は嘲りを浮かべながら唇を開いた。
「貴様の父が、死んだ」
「…………、そう、ですか」
 真朱は、わずかに驚いたようなふりをする。父を殺したのは真朱であるために驚きはなかったが、父を殺したことを青嵐には知られたくなかった。
 嘲笑を浮かべて皮肉を口にしようとも、彼は甘さを捨てきれない。自らの手で人を殺すことは、きっと、できないだろう。
 だからこそ、真朱が実父までも手にかけたことは、知られたくなかった。
「冠家は、随分と荒れるでしょうね」
 実際、父が死したことで、冠家は荒れ始めているようだ。あの様子では、皇位争いに参加している場合ではなくなる。
 当代の冠家の術師たちに、皇族に忠誠を誓って仕えている者など皆無だ。最早形骸化した仕来たりに従っているだけであって、無能な皇族と彼らに仕える影の間に、信頼関係などあるはずもない。
 冠家の術師は、仕えるべき皇族よりも、冠家の当主争いに加わる。
 思わず微笑んだ真朱に、青嵐が訝しげに目を細めた。
「実父が死んだと言うのに、貴様は嬉しそうだな」
「だって、これで邪魔が入らないでしょう?」
 青嵐が皇位を勝ち取るために、冠家の術師は最大の不安要素だった。片翼の刻印しか持たない半端者の術師である真朱では、冠家の術師から青嵐を守り切ることは難しい。
 それ故に、皇位争いに冠家の邪魔が入らない状況を作る必要があった。
「貴様も、私に似て性質たちが悪くなったな」
「それは、光栄です」
 小さく息をついてから、青嵐は目を伏せた。
「……、私は、皇位を継ぐ」
「はい。翔国の皇位は青嵐様に」
 この国を統べる皇帝になることでしか、青嵐には命を守る術がない。
 病によって皇帝が逝去した今、青嵐には何一つ後ろ盾がないのだ。このまま、青嵐以外の皇族が皇位につけば、月の民の血を継ぐ青嵐は殺されるだろう。
「死にたくない。たとえ、貴様の占いの通り、私がこの国を滅ぼすとしても、……必ず皇帝になって、生き延びてみせる」
 真朱も、彼を死なせたくなかった。
「そのために、兄上たちには継承権を放棄してもらう。貴様は私の影だ、ついて来い」
「……、はい。何処までも、ついていきます」
 真朱の答えに満足したのか、青嵐は小さく頷いた。
「死ぬまで使い切ってやるから、私のためだけに生きろ」
 それは、黙って彼の駒になれという、理不尽な命令でもあった。だが、真朱の心は傷つくどころか高揚していく。
 どのような形であれ、傍において必要としてくれるならば、それで良いのだ。この想いが自己満足だと嗤われようとも、それだけで幸せだった。
「青嵐、様?」
 不意に、彼の手が真朱の頭に載せられた。
「褒美だ」
 彼の骨ばった指が、真朱の髪に何かを飾る。そのまま、柔らかに頬を撫でられて、真朱はわずかに肩を揺らした。
「両方欲しいなら、……私が、与えてやる。だから、貴様だけは傍にいろ」
 そして、彼は赤い結い紐を真朱の手に握らせた。
「決行は今日の夕刻だ。それまで、休め」
 去っていく青嵐の姿を見つめた後、真朱は鏡台の前に座った。くすんだ亜麻色の髪に、眩し過ぎるほど白い花が咲いている。それは、青嵐と城下を歩いた時に見た髪飾りだった。
 手に握らされた赤い結い紐も、見覚えがある。
 かつて手に入らなかった髪飾りに似たそれらに、真朱が心惹かれていたことに、彼は気付いていたのだろうか。
「……、青嵐、様」
 日々募る想いに、胸が苦しくなる。どうしたって結ばれることない。傍に仕えて、この先を生きることさえできないというのに、――こんなにも、彼を慕ってしまう。
 この想いを伝えてしまえば、すべてが壊れてしまう。真朱は、青嵐の影で、それ以外には成り得ない。それ以外に成ってしまえば、青嵐に捨てられてしまう。
 この恋情を彼に知られてしまえば、彼は真朱を軽蔑するだろう。最期の時まで傍に置いてもらうことも、叶わなくなってしまう。
 真朱は、衣の下にある己の腕に指を這わした。
 肌を這う黒い紋様は、片翼の身で比翼術を使い続けた真朱の罪だ。紋様から発せられる刺すような痛みに耐えながら、真朱は目を伏せた。資格を持たぬ者が月神の力に縋ることを、美しい女神は赦さない。漆黒の紋様は、徐々に真朱の命を蝕んでいく。
 終わりの時は遠くないのだと、何よりも、真朱自身が分かっていた。それでも、比翼術を使わずにはいられなかった。
 ――彼のために生きて、彼のために死ぬ。
 その覚悟を決めた日から、死を選ぶことは怖くはなかった。使い捨ての駒であろうとも、彼のために死ねるならば構いはしない。
 優しい言葉をかけてくれたわけでも、包み込むように愛しんでくれたわけでもない。
 それでも、ただ、傍にいてくれたことが――真朱にとっては、何よりもの救いだったのだ。
「……、どうか、幸せに」
 青嵐は、望んで孤独になったわけではない。望んでも手に入りはしないと、すべてを諦めてしまっただけだ。
 あの寂しい人が、幸せになれる未来が訪れることを願う。彼の幸福だけが、真朱にとっては気がかりだった。


☆★☆★


 やがて、日が沈み、夕闇が訪れる。
 身体中を這う黒い紋様を隠すように、真朱は影の証である黒衣を纏う。全身に武器を仕込み、仕上げとばかりに父を殺した小刀を黒衣に忍ばせて、一度だけ深呼吸をする。
「行くぞ」
 室の入口に佇む青嵐の姿を見て、真朱は微笑む。
「はい。青嵐様」
 青嵐に続くように大広間への道のりを歩き、真朱は重厚な扉を開けた。
 広間には、皇位継承権を持つ皇子たちが集まっていた。
 隅に控えていた李永樹が、青嵐の姿を見てわずかに肩を揺らす。この場所に皇子たちを集めてくれたのは、永樹だった。
「お久しぶりです、兄上方」
 広間の扉に施錠をしてから、真朱も彼らを見据えた。
「……青嵐。まさか、お前も話し合いに参加するつもりか?」
 第一皇子が、青嵐の姿を見て眉をひそめる。
「いけませんか?」
「面白いことを言う! 月の皇子を、誰が皇帝にするというのだ!」
 彼が莫迦にしたように嗤うと、他の皇子たちも嘲りを浮かべる。
「皇帝に相応しいのは、やはり、長兄である私だろう?」
「ですが、兄上は妾腹ですので、……ここは、正妃の息子である私が」
 続き様に自らが皇位を継ぐべきだと主張する皇子たちに、青嵐は声をあげて嗤った。
「……、何がおかしい、青嵐」
 青嵐が一瞬目配せしたのを見て、真朱は力強く床を蹴った。黒衣を翻して小刀を抜き、真朱は第一皇子の下に駆けた。突然の行動に唖然とする周囲を後目に、真朱は第一皇子の間近に迫る。
「動かないでください」
 真朱が第一皇子の首に小刀を宛がうと、青嵐が唇を開いた。
「私は、話し合いをしに来たわけではありません。選んでください、兄上方」
 冷ややかな青嵐の声が、室内に重く響いた。
「皇位継承権を放棄してくださるなら、御命は保証致しましょう。今までほどの贅沢は赦しませんが、兄上方と御家族の面倒は見てさしあげます」
「……っ、何のつもりだ、青嵐!」
「皇位を私に譲っていただきたいのです」
「月の皇子に、何故、皇位など……!」
「兄上。その娘は、私が命じれば、貴方の命を一瞬で奪うでしょう。――術師としては出来そこないですが、駒としては優秀な娘ですよ」
 真朱の比翼の刻印は不完全だ。それ故に、比翼術において、どうしても冠家の術師に劣ってしまう。だが、術を抜かした戦闘でならば、負けない自信はあった。
 二年間路地裏を鼠のように生きていた真朱が、温室育ちの冠家の術師や皇族に負ける道理はない。
「……っ、影は、影はどこだ!」
「さあ? 今ごろ、次の冠家の当主になろうと、殺し合いでも繰り広げているのではないでしょうか」
 影とは名ばかりで、仕えるべき皇族の下を離れて、彼らは冠家を選んだ。冠家の理念など、とうの昔に滅んでいるのだ。月に焦がれるあまりに廃れていった国と同じで、冠家の在り方も頽廃した。
「李永樹!」
「申し訳ありません。貴方様の命が脅かされている中、動くことはできません」
 笑顔のままに言い切った永樹に、第一皇子は唇を戦慄かせた。
「もう一度言います。選んでください――、ここで死ぬか、継承権を放棄するか」
 皇子たちの顔が悔しげに歪まれるのを見て、青嵐が口角を釣り上げた。
「答えなど、既に出ていらしたようですね」
 ぞっとするような笑みを浮かべた青嵐に、真朱もつられるように笑った。