真夜中、室に近づいてくる足音に、青嵐は読んでいた書物を閉じた。
「……、いらっしゃい、蘭香姉上」
淡い
燭の光に照らされて、薄闇に黒髪の美しい女の姿が浮かび上がる。
突然訪ねてきた蘭香を、青嵐は拒むことなく室に迎え入れた。真朱が下がった深夜に、わざわざ、彼女が一人で訪ねてきた理由は分かっているつもりだった。
「そのようなもの、貴方には似合いませんよ」
彼女の手に握られた懐剣が、鋭い輝きを放つ。彼女は震える手で、その切先を青嵐に向けていた。
「お前が……すべて、仕組んだのか?」
「さて、何のことでしょうか」
「とぼけるな! 兄上たちが、一斉に、皇位継承権を放棄した! ……、李家を始めとする貴族たちは、議会は、お前の皇位継承を認めた!」
李家を始めとした貴族たちが、青嵐の皇位継承を認めるのは当然だった。
四年前から、貴族たちには根回しをしてきたのだ。青嵐が皇位に就くことを反対する者もいるだろうが、賛成する者は蘭香が想像していたより多かっただろう。
何せ、他の皇子たちが、どれほど愚かであるかは、貴族たちにとって周知の事実だったのだ。国を憂いている者たちは、青嵐が根気強く接触を図れば、青嵐に味方し始めた。政治の中枢に身を置いて国を支えてきた李家など、その最たる者だ。李永樹を始めとした李家は、あれでいて愛国心は強い。
「……っ、お前が、次の皇帝だ!」
他の皇子たちが継承権を放棄したため、皇位を継げるのは青嵐しかいない。必然的に、翔国の皇位は青嵐に継承されることになる。
「青嵐! 自分が、どのような運命を持つのか、分かっているのか!」
震える手で青嵐に懐剣を突き付けて、蘭香が叫んだ。
――青嵐は、理解する。
「……、姉上。貴方は、私の未来を知っていたのですね?」
比翼術とは、月の理を用いて、月神の力を借りる術だ。冠家の術師が言う占いとは、月神の下に集められた運命を覗き見ること。
定められた道筋の一端を覗くことなのだ。
冠家の術師であれば、誰であろうと、青嵐の未来を垣間見ることができる。
「お前は国を滅ぼす! だから、……早く、殺さなければ、ならなかったのに!」
皇子と皇女の中で、唯一、青嵐を憎んでいたのが蘭香だ。他の者たちが青嵐の存在を無視する中、敵意を向けて来たのは彼女だけだった。
青嵐を疎ましく思うが故に、蘭香は青嵐の未来を気にしていたのだろう。そして、青嵐の運命の一端を知ってからは、月の民の血を継ぐ皇子が皇位を継承しないために、様々な努力をしてきたに違いない。
「これ以上、翔国を駄目にするわけにはいかない! 月の民の血を継ぐ皇帝などっ……、国を滅ぼす皇帝など、翔の民には必要ない!」
蘭香の叫びは、良く分かる。
月への理想で荒んだこの国は、滅びに向かっているのだ。民たちは、穢れた大地に嘆くあまり、月への憧憬ばかりを強めていく。
そして、今を生きることを疎かにしていく。
「ええ。――私は、この国を滅ぼします」
そっと手を伸ばして懐剣を掴むと、蘭香は小さな悲鳴と共に懐剣を落とした。温室育ちの彼女には、凶器を握るだけで精一杯だったのだろう。青嵐の掌から滴る血液に、彼女は顔を青ざめさせていた。
血に濡れた手で蘭香の腕を掴んで、青嵐は怯える彼女の瞳を覗き込んだ。
「私はこの国が嫌いです」
ただ、月の民の血を継いで生まれただけで、蔑まれ憎まれる。自分の存在を否定され続けてきた青嵐にとって、翔国を愛する心は持てない。
「ですが、……生かしてやりたい者がいます」
青嵐の脳裏に過るのは、朱色の瞳を細めて笑う少女。彼女の歩んできた道は、決して、安寧なものではなかっただろう。それでも、彼女の微笑みは、青嵐を癒すように穏やかだった。
小さな花々が綻ぶかのように、ただ、青嵐の心に沁み入る。
自分のためだけに生きてくれる存在は、――確かに、青嵐の心を救いあげてくれた。
「最期の時まで、連れていくと約束しました。私は、あれを幸せにはできませんが、……せめて、笑顔でいさせてやりたいと、思います」
己の傍で、幸せにはしてやれないと分かっている。死ぬまで使い切るような最低な主人の下で、彼女が幸せを手にすることなどできるはずがない。
だが、手放すことはできないのだ。
月の民の血を継ぐ自分に、寄り添って生きてくれる存在などいないと思っていた。真朱が現れるまでは、孤独で生きることが当然で、それに寂しさを覚えることさえも止めていた。
「約束します。姉上の愛するこの地を、繁栄に導くことを。あれが笑顔を失われずにいられるような、……富める国へと変えてみせます」
震える蘭香に、青嵐はできる限り優しく微笑んだ。
蘭香は、力なく床に崩れ落ちる。顔を両手で覆って、彼女は子どものように泣き叫んだ。
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