全身を、刺すような痛みが襲っていた。
頭が重く、満足に指を動かすこともできない。
滲む汗を拭って、真朱は緩慢な動作で黒衣を脱いだ。鏡に映る痩せた身体の至る所に、黒い紋様が這っていた。
震える指で新たな黒衣に着替えて、真朱は息をついた。
――、遠くから、美しい楽の音が聞こえてくる。宴は、まだ続いているらしい。
不意に、聞き慣れた足音が、楽に紛れて近づいてきていることに真朱は気づいた。
「具合は、良いのか?」
大好きな声に、真朱はゆっくりと振り返る。
「……、青嵐様」
愛しい主人が扉の傍に立っている。彼の頭に載せられた冠を見て、真朱は口元を綻ばせた。
「今夜の主役が、宴を抜け出してよろしいのですか?」
「いつまで続くか分からぬ騒ぎに、付き合ってられぬ」
青嵐は苦笑したが、その表情は何処か満ち足りたものに感じられた。
「貴様が出席していたならば、――もう少し、居ても良かったのだが」
「申し訳ありません、青嵐様」
朝から身体が重くて仕方がなかった真朱は、今日、青嵐の傍には控えていなかった。必然的に、青嵐の皇位継承を祝う宴にも参加していなかったため、本日顔を合わせたのも初めてだ。
「皇位継承、おめでとうございます」
唇から零れ落ちたのは、何よりも望んだことのはずだった。それなのに、皇帝となった彼を前にすると、胸の奥が堪らなく切なかった。
青嵐と出会ってからの日々が、脳裏を駆け巡る。手を汚し、心を殺し、実父にまで手をかけ、――ただ、彼を想い続けた日々。穢くて醜くて、それでも、何よりも幸せだと感じた真朱の道だった。
「……、少し、外に出ないか」
青嵐の言葉に頷いて、真朱は重たい身体を引き摺って歩き出した。
彼の後に続いて庭園に出ると、青白い月光が降り注いだ。
「あの日も、このような月夜だったな」
目を瞑れば、鮮やかにあの日のことが思い出された。少年だった青嵐は、幼かった真朱と共に夜空を見上げた。
「……、占いの内容を、憶えているか?」
そうして、愚かな真朱は、恐ろしい未来を占ってしまったのだ。
「忘れたことなど、ありません。貴方様は、この国を滅ぼします」
青嵐の明るい未来を望んで占った結果は、あまりにも残酷だった。
「ああ、私は、この国を滅ぼす。――滅ぼして、新しい国を作る」
真朱は言葉を失くして、立ち尽くした。
「この四年間、貴様の占いの意味をずっと考えていた。いつか訪れる未来に、答えは出るのだろう。だが、待つのは性に合わないからな。……、自分で動くことにした」
唇を釣り上げて鮮麗な笑みを浮かべた青嵐に、真朱は目を丸くした。
だが、次の瞬間には、ただ、笑いだけが唇から零れ落ちた。心を震わしたのは、あの日の絶望ではなく、湧き上がるような歓喜の念だ。
――もう、大丈夫だ。何も心配することなどないのだ。
未来は絶望に塗り潰されていたわけではなく、確かに光へと繋がっていたのだ。
「青嵐様なら、……きっと、できます」
翔国を滅ぼして、幸せで豊かな新しい国を作ってくれるだろう。今は夢みたいな話に思えるが、彼ならば必ずや現実にする。月への理想で荒んだこの国を、あるべき姿に変えてくれる。
「青嵐様。翼を授かれなかった我ら翔の民に、何が残る、と貴方は問いましたね」
かつての彼の問いに、今ならば、真朱は答えられる。
「翼などなくとも、――翔の民には、青嵐様が残りました」
翼を持たずとも、かけがえのない人が大地に残った。国を導いてくれる皇子を、月神は堕としてくれたのだ。
「我、天翔る翼に願う」
占うことは、もう、怖くなかった。
翼が導く運命は、幸福に満ち溢れているのだと確信が持てる。
「罪は地に祓い、愛は天に捧ぐ」
青嵐に向けて手を伸ばし、真朱は心からの笑みを浮かべる。脳裏に次々と映し出された光景は、優しく笑い合う人々と、栄えていく国の姿だった。
これが、あの日の占いの先にあった運命なのだ。
この未来のために過去の占いがあったというのならば、真朱が進んできた道は無駄ではなかった。
「貴方様の治める国は、史上最も栄え、……皆が幸せになるでしょう」
翼が導いた運命は嘘をつかない。彼が治める新しい国は、史上で最も栄え、皆が幸せに暮らす。
「それでも、……まだ、月を望みますか……?」
真朱の言葉に、青嵐は目を伏せた。
「……、ここは鳥籠だ。
片翼の私は籠から出られぬ。だからこそ、月に焦がれた。見たことも行ったこともない場所ならば、失望を抱くことなく桃源郷として想像できたからな」
「青嵐、様」
「すべて終わらせた暁には、……わずらわしい地位など捨てて、貴様と二人で月へ行くのも悪くないな」
真朱は涙を堪えた。
彼にとっての月とは、何も、月の民が暮らす場所のことではなかったのだ。それは、彼にとっての桃源郷。孤独な皇子であった青嵐が、幸せに暮らすことを夢見た場所。
いつか、その場所に共に行こうと、彼は真朱を誘ってくれている。
「……、行き、たい、です」
できることならば、すべてが終わった暁に、青嵐と手を取り合って暮らしたい。それはきっと、毎日が幸福に満ちた愛しい日々になる。
二人で共に生きる場所が、真朱たちにとっての
桃源郷になる。
「青嵐様と、いつか……月に、行きたかったです」
堪えていた涙が、次々と流れ落ちた。国を栄えさせて、すべてを終わらせて、いつか共に月へと飛び立つ日を夢見たかった。
全身が、酷く痛む。足元に力が入らなくなり、真朱はその場に崩れ落ちた。
「……っ、どうした!」
青嵐が、崩れ落ちた真朱の腕を掴む。黒衣の隙間から見えた黒い紋様に、彼は目を見開いた。
青嵐は、真朱の衣の袖を捲り上げ、激しい怒りを滲ませる。
「……、これは、なんだ」
「比翼術の、代償です。あたしの刻印は、……、青嵐様と同じ片翼ですから」
比翼術は、片翼の刻印しか持たぬ真朱が扱うには過ぎた力だ。父に拾われた時に、片翼で術を使う代償は教えられていた。
比翼術を使えば、真朱の命は削り取られる。
母が死してから比翼術で悪さを働いていた真朱は、自分の命を削っていたことを、その時強く自覚したのだ。
それでも、青嵐の傍に在るために、真朱は比翼術を使う道を選んだ。この身体が滅びることになろうとも、彼の傍にいたかった。
彼こそが――、真朱が
死ぬための理由だったから。
「私に黙って、死ぬつもりだったのか」
「あたしは、影です。月へ飛び立つためには、不要だと、……ずっと」
白銀の翼を広げて、青嵐は月へと飛び立つ。月虹の彼方へと、真朱の翼を手にして翔けていくはずだった。
彼の望む場所に共に連れて行ってもらえるなど、考えもしなかった。擦り切れるまで使われて、捨てられるだけの存在だと思っていた。
「……っ、連れていく。貴様が嫌がっても、私が貴様を、連れて……!」
「……、ごめん、なさい」
共に桃源郷へ行くことはできない。
それならば、せめて、この身が少しでも彼の手助けとなるように。
彼の頬に両手を伸ばして、真朱は額を重ねる。それから、彼の薄い唇に自らのそれを重ね合わせた。
青嵐の蒼い瞳は、悲しみに濡れていた。
唇から舌を差し込むと、刻まれた翼の刻印が、熱を伴い剥がれ落ちる。比翼の刻印は、正統な翼を持つ月の民の元へと還るのだ。身も心も、冠真朱の存在価値である刻印さえも捧げよう。
片翼の彼に、もう一つの翼を。冠家の祖先が、月の民を喰らって手に入れた片翼を彼に授けよう。
――、両翼が揃えば、空を翔けて月へ行ける。青嵐は彼だけの桃源郷を見つけて、いつか幸せになれる。
冷えた指先が、真朱の頬に触れた。蒼穹の瞳は、既に悲しみの色を宿してはいなかった。代わりに浮かべられたのは、泣きたくなるほど切ない愛しみの色だった。
「真朱」
青嵐は一筋の涙を流して、――それは美しい微笑を浮かべた。
初めて、彼が微笑み名を呼んでくれた。
「……、さようなら、青嵐様」
愛の言葉は遺さない。いつか飛び立つ彼に、そのような枷は不要だ。
この胸を焦がす想いすら伝えることはできなかった。それでも、その微笑み一つで報われたと思うのは、愚かだろうか。
身体の自由が利かなくなる中、真朱は震える手を空に伸ばした。
あの日のように、夜空には白い虹がかかっていた。
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