煉獄の花

epilogue

 清々しい朝の風に包まれて、アラムは神殿の前に佇んでいた。
 振り返れば、数年前の砂漠が嘘のように、視界一面に瑞々しい緑が広がっていた。
 かつて、砂漠の楽園と呼ばれたこの神殿は、今では青々とした森に囲まれる場所となっていた。数年前、再生の日を迎えた世界は、瞬く間に元の姿を取り戻しつつあるのだ。
 神殿の入り口に、旅装のアラムを迎え入れるように佇む女の姿がある。彼女に向けて、アラムは小さく手を振った。
「おかえりなさいませ、アラム様」
「ただいま、ジリヤ」
 少女の面影は消え、一人の女性となったジリヤは、笑顔でアラムを迎え入れた。
「今回は、どちらまで?」
「西の方を見てきた。数年前は砂漠化が進んでいて気付かなかったが、あそこには美しい湖が広がっていたのだな」
「湖ですか? それは、美しいのでしょうね」
 神殿から一歩も外に出たことのないジリヤの呟きに、アラムは目を伏せた。キーラの死後、世界を旅するアラムと違って、彼女がこの地から外に出ることは今後もないだろう。
「――、役目を押し付けて、神殿を出て、すまなかった」
「……、謝る必要などありません、私が望んだことですから。私も色濃く神子の血を継いでいる一人です。神子の血を繋ぐだけならば、アラム様でなくとも構いませんわ」
 再生の日の後、ジリヤはアラムに残された役目を代わりに担うと宣言した。五百年後に再び世界が毒を切り落とす時まで、神子の血を繋ぐ役目を担うと言ったのだ。
 子を宿し、神子の血を次代に繋ぐことを、彼女はアラムに約束してくれた。それが、彼女にとって、どれほど残酷な覚悟かアラムにも分かっていた。分かっていながら、アラムは神殿を後にした。
「私、近いうちに結婚するそうです。相手が誰なのかは分かりませんけど、きっと幸せになります」
「……、そうか。おめでとう」
「ありがとうございます。……、ねえ、アラム様。私、ずっと貴方が好きでした。婚約者と決めたのはお父様でしたが、貴方と家族になれたらと、夢見ていたことは本当なんですよ」
 何処か吹っ切れたような笑顔を浮かべたジリヤに、アラムは苦笑した。
「……、知っていた。ずっと」
 ジリヤの気持ちに応えてしまえば、楽になれると思ったことがある。彼女がアラムを想ってくれていることは、アラム自身も分かっていた。
 だが、アラムはジリヤの手をとることができなかった。傍らにいた少女を思い浮かべる度に、その道を選ぶことはできなかった。
「酷い人」
 微笑んで、ジリヤはアラムに背を向けて歩き始めた。
 凛とした彼女の背を見送ってから、アラムも神殿の奥へと向かう。見覚えのある廊下を歩いていると、懐かしい思い出が蘇る。少女と共に、何度、この廊下を通っただろうか。
 共に在った記憶も、想いも、灼熱の花と共に今でもアラムの胸を焦がす。
「……ああ。今年も、美しく咲いたのだな」
 視線の先には、朝露を受けて煌めく何百もの赤薔薇が広がっている。この薔薇が花開く時期、少女と寄り添った花園に、アラムは帰りたくなるのだ。どれほど遠い地を旅していても、それは変わらなかった。
 一面を赤く染め上げる薔薇の色は、かつて、アラムの傍にいた少女の瞳に似ている。彼女の瞳は、いつだって燃えるような赤い色をしていた。
 アラムは屈み込み、咲き誇る薔薇を一輪手に取った。花を摘んだ手には、あの日、煉獄の焔によって負った火傷がある。その傷痕が、彼女が確かに生きていたことをアラムに教えてくれた。
 指を傷つける棘のように、――未だに喪失の痛みは胸を刺すが、少しずつ、アラムの心は世界を受け入れ始めている。
「君がくれた世界は、……今日も、美しいよ」
 砂漠に一輪の花が咲くように、命が芽吹き世界が再生していく様をキーラは望んだ。生まれ変わった世界を、アラムが生きることを願ってくれた。
 世界にとっての毒。再生の足掛となるために生を受けた彼女は、仕方なく犠牲になる道を選んだのではなく、自らの意志で煉獄へと落ちていった。
「キーラ」
 彼女を想っていたアラムにとっては、その選択を喜ぶことはできない。
 たとえ世界を敵に回しても、守りたかったのは、たった一人の少女だった。叶わぬと知りながらも、この命尽きる日まで共に在りたいと願った、アラムの唯一。
 隣に笑いかけてくれる少女の姿はない。だが、彼女のいない世界の中で、自ら死を選ぼうとは思わなかった。彼女が生きてほしいと願ってくれたならば、それに応えたい。
 色褪せていく記憶の中で、変わることなく咲き続ける花。その花が生きた証がこの世界ならば、アラムは笑顔で生きる。
 この世界を、愛してみせよう。
「好きだ。……、君が、誰よりも」
 煉獄に落ちた花が遺した世界は、今日も幸せに廻る。
 赤い薔薇に口づけて、アラムは微笑した。



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