夕闇が辺りを包みこみ、夜が赤い月を誘い始める。
背筋を伸ばして、キーラは世界を再生するための儀式が行われる広間に足を踏み入れた。
部屋の中央には正装に身を包んだアラムの姿があり、左右には大神官を始めとする神官たちが佇んでいた。
隣に控えていたジリヤが、一人、大神官たちの元へ行く。
残されたキーラは、ゆっくりとした足取りで、アラムの前まで歩いて行った。
薄紫のベール越しに彼を見つめて、キーラは小さく息を吸う。
「ああ、我らが世界、我らが神よ。今日という日を、どれほど待ち望んだことか」
大神官の声が、儀式の間に木霊した。毒を孕み続けた世界は、確かに今日と言う日を待ち望んでいたのだろう。
「神子よ。どうか、世界を救ってくだされ」
キーラの顔にかかる薄紫のベールを、アラムの左手が取り払う。彼の表情は苦痛に歪み、剣を握る右手は震えていた。
「……、キーラ」
優しい声が、耳朶を打つ。突然、涙が零れ落ちそうになって、キーラは唇を引き結んだ。
アラムが剣を鞘から引き抜いた途端、淡い光が放たれる。それは、キーラを煉獄へ落とすための力が彼に宿った証だった。
五百年前の赤い月の夜、神子は世界の毒を背負った女を煉獄に落とした。それと同じ決断を、アラムは迫られている。
逸る心臓を抑え込むように、キーラは胸元を握りしめた。
最期は笑顔で迎えたかった。幼い日に、笑って、と言ってくれた彼には笑顔を見せたかった。
だが、精一杯に浮かべたはずの笑みは崩れて、どうしてか上手く笑うことができない。
キーラの瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。駆けあがるような恐怖が、全身を侵す。身体が死を拒むように震え出して、流れ始めた涙が止まらなかった。
――これから続く未来、彼には笑っていてほしいと思っていたことは真実だった。忘れないでほしいと浅ましくも願っていたが、彼の幸せを願う想いに偽りはなかったはずだった。
だが、キーラは気付いてしまった。彼の未来を守るために死のうと思ったことは嘘ではない。それなのに、愚かなキーラは彼と一緒に未来で笑うことを今も強く望んでいたのだ。
叶うはずのない願いを胸に抱いて、何もかも諦めたつもりになっていた。何一つ、諦め切れてなどいなかったというのに。
「……っ、アラ、ム様」
彼の名が唇から零れ落ちた瞬間、アラムが強くキーラの身体を抱きしめた。
「君を、殺せない」
囁いた直後、アラムはキーラの身体を抱きあげる。
「アラム様!」
ジリヤの甲高い叫び声が広間に木霊する。それに構うことなく、アラムは駆け出した。
ジリヤが、信じられないものを見るように口元を手で覆っていた。神官たちがアラムを非難するように声をあげたが、彼は手に持っていた剣を投げ捨て、聞く耳すら持たずに儀式の間を飛び出した。
そうして、彼はキーラを抱えたままに神殿を走り抜ける。
彼の身体に縋るようにしがみついて、キーラは目を伏せた。彼が何処へ向かおうとしているのか、自然と察しがついた。
やがて見えて来た鮮やかな赤に、キーラは目を細める。
キーラとアラムの始まりは、この薔薇園だった。それならば、終わりを迎えるのも、この薔薇園が相応しいのだろう。
彼は、咲き誇る薔薇の中にキーラを下ろした。
「……、お別れには、相応しいかもね」
キーラの呟きに、アラムが眉をひそめる。
「違う。君は、俺と一緒に逃げるんだ。一緒に神殿を出て……」
ひどく優しい声音だったが、口にした言葉を本当に実行できるとは、彼自身も思っていないのだろう。神殿から逃げ出すことも、役目を放り出すことも、叶うはずがない。叶ってはいけない願いだ。
何より、――優しい彼は、すべてを見捨てる道を選べない。キーラを連れて逃げるつもりならば、薔薇園になど来ない。
「我儘を言っちゃ駄目だよ。アラム様は、これから幸せになれるんだから、……こんなことで、未来を潰すのは……」
「幸せ……? ……、君が、俺に、それを言うのか」
アラムの両手が、骨が軋むほど強くキーラの肩を掴んだ。
「アラ、ム様……?」
「幸せになど、生きられるはずがないだろう! 君がいない世界で……っ、どうして、幸せになれるんだ!」
彼の言葉に再び涙が滲み出し、熱い滴がキーラの頬を伝っていく。
「……っ、そん、なの! 私、だって、生きたい。生きていたい! 世界じゃなくて、私を選んでほしい。だけどっ……!」
叫び声と共に、嗚咽が零れ落ちた。
「そんなこと、できるわけ、ない」
本当は、自分を選んでほしい。何よりも大切な彼と共に在れるならば、それだけで良かった。叶わぬ望みだと知りながらも、一緒にいられる未来を求めずにはいられなかった。
都合の良い奇跡が起きて、幸せな結末で終わる物語のように、誰かがキーラを助けてくれると信じたかった。
――だが、それを信じられるほど、キーラは子どもではいられなかった。
「大丈夫、だから。……、月が果てる前に、私を殺して」
五百年に一度の赤い月の夜、煉獄の門は開かれる。その瞬間を逃せば、毒を煉獄へ落とすことはできない。
再生を迎えられなかった世界は、滅びるしかないのだ。
「大丈夫ならば、何故、君は泣く! ……っ、死にたくないと泣いているのに、どうして……、君を殺せる」
未だに流れ落ちる涙を乱暴に拭って、キーラは首を振った。
「……、予言には、逆らえないよ」
かつて、この世界から毒を切り離した神子が遺した予言。それは、砂漠に覆われ朽ちていく世界にとって、唯一の希望だった。
頬に刻印を持つ女を、赤い月の昇る夜に煉獄へ落とすことで、この世界は再生を始める。毒を孕み滅びに向かっていた世界が、再び芽吹きに向かって歩み始めるのだ。
「……、予言なんかに振り回されて、どうして、君が死ななくてはならない? 五百年も昔の予言など、嘘に、決まっている」
「予言は真実だよ。……アラム様は、それを一番良く分かっているはず。神子の血を継いでいるんだもの」
アラムは、かつての神子の血を今代で最も色濃く継いでいる。彼に、この世界の理が理解できないはずがない。神子の力が真実であったことを、彼は誰よりも知っている。
その手に、その身体に宿った力に、彼は気付いている。
「私を煉獄に落とすのは、貴方の役目」
五百年前、神子は世界の毒を煉獄へと落とした。世界を滅ぼす毒を煉獄に捨てることで、世界を再生させようとしたのだ。
神子が後世に予言を遺した理由は、ただ一つ。当時と同じことを、未来で子孫が行うためである。
頬に広がる刻印を指差して、キーラは苦笑した。
「この刻印は毒の証。そこに在るだけで、瑞々しい世界を乾いた砂で覆い、滅ぼしていく毒。……それが、私」
「……っ、それでも、いい!」
アラムの叫びに、キーラは身を竦めた。
「世界が滅びたところで、構うものか! ……っ、君を殺さなくてはならない世界ならば、……そんなもの、いらない」
それは愛の言葉にも似た呪いだった。世界を守るべき神子が口にするにしては、あまりにも惨い。
「……、君を、殺したくない」
「アラム、様」
「生きてくれ、笑ってくれ。君が死んだら、……俺は、どうすれば良い」
キーラが煉獄へ落ちなければ、世界はやがて滅びる。生きて笑えと言われても、このままではキーラもアラムも世界と心中するだけだ。
――、それでも、キーラを守りたいと彼は思ってくれたのだ。
世界を守るべき神子としではなく、アラムと言う一人の人間として、彼はキーラと共にいたいと願ってくれた。
「ねえ、アラム様。そう思っているのは、貴方だけじゃないんだよ」
キーラはアラムの腰に差された短剣を取って、鞘から抜いた。アラムの手に短剣を握らせると、淡い光が放たれる。
「怖くないよ。世界が滅びて、貴方が死んじゃうことに比べたら、……怖いものなんて、何にもないの」
声は恐れと不安で震えていた。彼にはキーラの恐怖など、すべて分かっていただろう。それでも、言わずにはいられなかった。
「私に生きる世界をくれたのは、……貴方だから」
死ぬために生まれたキーラは、何も知る必要などなかった。無知で無垢で、愚かであることを求められ、己の役目に何一つ疑問を抱かないように育てられてきた。何も知らずに、女神になれると信じていた方が、幸せであると周囲は思っていたのだろう。その方が周りの人々にも都合が良かった。
その中に、舞い込んできたのは一筋の光。
赤い花と共に、温かな世界を与えてくれた人。
彼が手を差し伸べてくれなければ、キーラは笑顔の一つさえも浮かべることなく、煉獄に落ちていただろう。それは裏を返せば、死を恐れる心も知らなかったということだが、彼に出逢って後悔はない。
キーラが生きることが、アラムの道を奪うと言うのならば――。
「命なんて、いらない」
この身を煉獄へ落とそう。
「アラム様が生きる世界が、私の一番欲しいものだから」
アラムの頬を、一筋の涙が伝った。その涙を見て揺れる心を、キーラは必死で諫めた。本当は、とても怖い。このまま彼に会えなくなることが辛くて、縋ってしまいそうだった。
だが、彼のことを大切に想うならば、キーラが選ぶ道は一つだ。
彼を守らなければならない。彼が、この世界を滅ぼしてもキーラを生かしたいと言ってくれたように、キーラはアラムに生きてほしい。
顔をあげて、キーラはアラムの琥珀の瞳を見つめる。背伸びをして、彼の頬に最期の口づけを贈った。
共に生きることは叶わなくとも、この先続く彼の未来に祝福を授けることはできると信じている。
「……、笑って。貴方は、こんなにも素敵な世界を生きるの」
――笑って。そうしたら、きっと、素敵な世界が見れるよ。
あの日、彼が世界を与えてくれたように。今度は、キーラが彼に新しい世界を与えよう。
「大好き、アラム様」
キーラは、力の限り強くアラムの手首を握りしめる。
――、彼は強く唇を噛んで、キーラの腹部に短剣を沈めた。
痛みと共にキーラの身体は煉獄の焔に包まれていく。見上げた夜空には、赤い月が満ちていた。
「……っ、キーラ!」
手が焼け爛れていくのにも構わず、彼は焔に包まれたキーラに手を伸ばす。必死な彼を見つめながら、キーラは笑みを浮かべた。
この想いは、報われていた。キーラに手を伸ばすアラムの姿が、何よりもの証だった。
――幸せは、何処にでもあるのだ。
彼の傍にいられて、キーラは幸せだった。それだけは、誰にも否定させない、キーラにとっての真実だ。
身を焦がす焔に沈みながら、キーラはそっと目を閉じた。
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