煉獄の花

05

 キーラは寝台に腰掛けて、ぼんやりと宙を見上げていた。
 突如、何かが窓にぶつかる音がした。不思議に思って窓を開けると、冷たい夜の風が吹きこむ。
 視線の先で、大好きな人の姿が月光に照らされていた。
「アラム、様?」
「こんばんは。キーラ。――、少し、散歩をしないか?」
「……、うん」
 なかなか眠りに就くことができなかったキーラは、アラムの言葉に頷いた。
 窓の外に引っ張りだされ、壊れ物を扱うようにそっと抱えられる。彼はキーラを抱いたまま、静かに神殿を歩き始めた。
 向かう先は、初めて出逢った薔薇園だろう。キーラとアラムが、誰にも咎められずに共にいられる場所は、あの花園しか在り得なかった。
 薔薇園に着くと、アラムがキーラの手を握りしめた。キーラは強くその手を握り返した。
 二人で地面に座ると、夜風が頬を優しく撫でる。砂色の髪を風に靡かせて、キーラはアラムに頭を預けながら空を仰いだ。
 夜空には、煌めく星が広がっていた。視線を落とせば、淡い光に照らされて薔薇が艶やかに色づいている。
 息がつまるほど、美しい光景だった。
「綺麗だね、アラム様」
「……、そうだな」
 頬を優しく撫ぜる風、夜空に瞬く星、砂漠に色付く赤い花。
 ――隣に佇む、美しい人。
 幼い頃のキーラが知ろうともしなかった世界には、こんなにも、美しく綺麗なものが広がっていたのだ。初めて出逢った日、笑って、と彼が言ってくれた時から、キーラはこんなにも素敵な世界を彼から教えてもらった。
「世界は……、とても綺麗」
 そして、キーラは悟る。どれほど願っても、この先の未来、この美しい世界を生きることはできない。
 頬に走る刻印は、世界に嫌われた毒である証だ。本当は、アラムに触れることすら赦されない。五百年前に世界を救った神子の血を継ぎ、新たな神子となるべくして生まれたアラム。神である世界に愛された彼に触れることが、どれほど罪深いことか。
 共になど、生きられない。分かっていたはずだったが、心のどこかで淡い期待を捨てきれなかったのかもしれない。
 何度も夢見ては絶望し、それでも捨てきれず、棘のように胸を刺す願いがあったのだ。
「私……、女神になんて、なれなくても良いの」
 煉獄へ落ちたキーラは女神になるのだと、周囲はキーラに教え続けた。幼い頃は信じられたその言葉も、今では嘘だと分かっている。
「……、だから、傍にいて。今だけで良いから」
 キーラは女神にはなれない。毒として世界から切り離されていくだけの、不要な存在だ。
 数多の世界や神を創造し、世界の狭間である煉獄に住まう火の神。その火の神が、どうして己の眷属である煉獄の女神の一員として、たった一つの世界の毒でしかないキーラを受け入れてくれるというのだ。
 煉獄に落ちたキーラを待つのは、きっと、すべてを溶かすような灼熱の業火。その焔に焼かれることで、――毒は消えていくのだ。
「お願い、……アラム様」
 彼が手を繋いでくれるならば、キーラは一人の少女としての自分を想える。
 女神になどなれなくとも、この手の温もりがあれば、安らぎを得ることができる。
 そう言い聞かせていたのに、いつだって卑怯な願いを抱いていた。
 ――このまま何処か遠くへ連れ去ってほしい。世界さえも敵に回して、自分だけを必要として愛してほしい、と。
 叶いもしない望みを抱いて、気付けば、時間は過ぎ去った。寄り添える時間は終わりを迎えて、明日になれば煉獄の門は開く。
 アラムの手がキーラの頬に触れた。その手に自らの手を重ねて、キーラは幽かに潤んだ琥珀の瞳を見つめた。
 近づいてきた彼の顔に、キーラは自然と目を閉じた。
 唇に触れた柔らかな感触に、キーラは一筋の涙を流す。離れては何度も繋がれる吐息は、ひどく甘く感じられた。
 啄ばむような口づけは、幾度も続けられた。この時間が、永遠であれば良いと願う。
「……、ありがと、アラム様」
 涙を堪えて笑ったキーラを、アラムが強く抱きしめる。彼の肩口に顔を埋めて、キーラは拳を握りしめた。
 先ほどの口づけが、同情でも構わなかった。心を砕いて、キーラに接してくれた彼のことが、何よりも愛しかった。
 誰よりも、――世界よりも、彼を生かしたかった。
 愛しい彼のために、世界を救おうと思った。


 ◆◇◆◇


 温かな日差しが降り注ぐ。
 キーラが寝台から身を起こすと、長く伸ばした髪から薔薇の香りがした。昨夜、彼と二人で薔薇園にいたことが夢ではないと知る。
 そっと目を瞑れば、甘い芳香と共に、穏やかな想いが心を満たした。
 ――、大丈夫。笑って別れを告げることができる。
 キーラは机に置いてあった水差しから、グラスに水を注ぎ込む。一息に飲み干せば、喉を通る水の冷たさが心地良かった。
 砂漠の楽園と呼ばれ、大きなオアシスを囲むように建てられた神殿は、王族並みに水を使うことができる。一滴の水が手に入らずに死ぬ民がいる中、神殿では、飲み水や湯浴みの水に困ることはない。
 それを思えば、キーラは幸せに暮らしていたのだろう。幸福の中に埋もれて過ごすことを赦されていた。すべては役目のためにであったが、それでも、恵まれていたことに変わりはない。
 扉の開く音に振り向くと、目を赤くしたジリヤが入って来る。
「おはよう、ジリヤ」
「……、身支度をお手伝いします」
「……、うん」
 衣を脱がされ、今日の儀式に相応しい装いに着替えさせられる。肌に触れる絹の衣は、王族や貴族たちが纏うような代物に違いない。
 キーラを鏡台の前に座らせて、ジリヤの長い指がキーラの髪に触れた。
「髪飾りは、アラム様がくれた薔薇のやつがいいな」
 鏡の中のジリヤは無言で頷いて、キーラの希望通り、アラムが贈ってくれた髪飾りをつけてくれた。髪に触れる彼女の指は、心なしか、いつもより優しげに思えた。
「今まで、ありがとう。ジリヤ」
 こうして、彼女がキーラの世話をしてくれるのも最後になる。キーラが首だけで振り向くと、ジリヤは視線を落とした。
「……、何故、礼など言うのですか」
 喉の奥から絞り出すような声だった。幼い頃にキーラを苛めていた、気の強い彼女からは想像もできないほどか細いものだ。
「ジリヤ?」
「憎くはないのですか。貴方の未来を奪う、私たちが……、恨めしくはないの?」
 半ば癇癪を起したように問い詰めて来るジリヤに、キーラは眉をひそめた。なんて、残酷な問いなのだろうか。
「……、憎いよ、怖いに決まっている。でも、逃げたら全部が駄目になるって、分かっているから」
 微笑んでくれたアラムの命さえも、世界の滅びと共に喪われてしまう。そのようなこと、キーラには耐えられない。
「世界のためになんて死ねないよ。……、だけど、アラム様の未来のためになら、死んだっていい」
 愛しい人が死ぬくらいならば、自分が死んだ方が良い。
「ずっと、生きる意味が分からなかった。毒として生まれてきて、……ただ、役目のために生かされているだけだと思っていたの」
 キーラの存在価値は、世界の毒としてしかない。そのために生かされているに過ぎない――ずっと、そう考えていた。
「でも、違った。私は、きっと、アラム様を守るために生まれてきた。あの人を生かすために、生きてきたの。そうやって、死ぬことは、……素晴らしいことだと、誇ることにしたの」
 言い聞かせるように呟いてから、キーラはジリヤの手から薄紫のベールを受け取った。
「……、アラム様が好き。だから、あの人が生きる世界を守りたい」
 たとえ、その世界に己が存在しなくとも――。
 大好きな人が笑って生きてくれるならば、この生に意味はあるはずだ。



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