既に夜半を迎えた時刻、アラムはジリヤの父である大神官と向かい合っていた。
「王都は、いかがでしたか?」
ゆっくりと口を開いた大神官に、アラムは眉間に皺を寄せる。このような夜更けにアラムを部屋に呼びつけたのは、昼間、公では話しにくいことがあるからだろう。
王都の話をしたいわけではあるまい。
「……、別に、変わらない。わざわざ俺が出向く必要があったのか疑問だ」
「王は憂いていらっしゃるのですよ。砂漠化が日々進む中、再生の日が本当に訪れるか不安で仕方がないのです」
「王を案じているなら、お前が出向けば良かっただろう」
「王の憂いは、神子である貴方様にしか晴らせないでしょう」
淡々と口にする大神官を、アラムは睨みつけた。
この時期に王都に向かうように言われたのは、何も、王の憂いを晴らすためではないだろう。アラムが過ちを起こさないように、できる限りキーラから遠ざけたかったに違いない。
「お前は――、俺を疑っているのか」
大神官は、アラムがキーラを連れて神殿を出ることを疑っていたのだ。あるいは、煉獄の門が開く前に、アラムがキーラを殺めることを恐れていたのかもしれない。
「……、私とて、疑いたくなどないのです。貴方様の伯父としても、義理の親になる身としても。ですが、貴方様のキーラに対する態度は目に余ります」
大神官が皺の寄った顔を険しくして、アラムに問う。
「役目を、全うするおつもりはありますか」
アラムは、一瞬、動きを止めた。
神子であるアラムに課せられた役目は、一つしかない。五百年前に世界を救った神子の血筋は、その役目のためだけに神殿に囲われ続けているのだ。
何世代にも渡って近親婚を繰り返し、神子の血は濃く受け継がれてきた。大神官も、神子の血を色濃く継いだ一人だ。
「私には、貴方様が躊躇っているように見えます。困るのですよ、キーラを煉獄に落とすのは貴方様の役目」
「……、分かっている」
五百年前の神子が、毒を煉獄に落としたように、同じことがアラムにも求められている。それが、最も神子の血を色濃く継いだアラムの存在理由だった。
「あの娘を、憐れだとお思いですか」
彼の言う通り、アラムはキーラに憐憫を抱いている。なすすべもなく、ただ、世界の毒として生まれてきたばかりに殺される少女に同情していないと言えば嘘になる。
「キーラを憐れにしたのは、貴方様なのに?」
顔をあげたアラムに、大神官は続ける。
「あの子にとって、無知であることこそが救いだと、どうして気付かなかったのですか。――、私たちは、生き残るためにあの娘を犠牲にします」
アラムたちの生きる世界は、永い年月の中で、滅びの種である毒を孕むようになった。瑞々しい世界を、乾いた砂漠で覆い尽くしていく毒だ。
やがて、その毒に耐えきれなくなった世界は、定期的に毒を切り落とす道を選んだ。一つの存在として吐き出した毒を、自らが造り出した神子の手で、数多犇めく世界の狭間――煉獄へ落とすのだ。
「無知であってほしかったのです。痛みなど何一つ感じることなく、限られた時間を幸せに過ごすべきだと思いました。残酷な運命など、知らなくて良かった……、何一つ疑うことなく、女神になれるのだと信じていれば、あの娘は幸せだったはずです」
目を伏せた大神官に、アラムは唇を噛んだ。
「何故、キーラに近づいたのですか。貴方様が止めを刺す娘だと、知っていたでしょう? どうして、情をかけるような残酷な真似をなさるのですか」
大神官の言葉は真実だ。アラムは、初めて会った時から、彼女がどのような存在であるか気付いていた。己に流れる神子の血と、キーラのの頬に走る刻印が、彼女が世界にとっての毒であることを教えてくれた。
「……、残酷、か」
少年であった頃のアラムは、世界の毒である娘を、自分と同じように生きる人間とは認めていなかった。キーラが煉獄に堕ちるためだけに生まれてきたと信じて疑わず、彼女を犠牲にして生きることを当然のように思っていた。
――だが、アラムは、キーラの涙を知ってしまった。
己より幼い子どもが、温かな手を求めて泣いていた。誰かに傍にいてほしいと震える姿を見た時から、きっと、アラムはキーラに情を抱いてしまったのだろう。
何も知らなければ、躊躇うことなどなく彼女の命を奪えただろう。知ってしまったから、アラムの心は、どうしようもなく切なくなった。
「キーラは、頭の良い娘ですよ。愚かな振りをしているだけで、本当は賢い子です。だからこそ、……貴方様と触れ合う度に、傷ついたのでしょう」
いつか、微笑む彼女を手にかける日が訪れるのだ。大切な少女を殺して、アラムが独り残される未来が待っている。
その日を恐れているうちに、時は無情にも流れた。
「己は女神などになれない。ただ、世界のために捨てられる存在だと知ったキーラは、……貴方様の温もりを求めながらも、それが決して叶わぬ望みだと気付いてしまった」
キーラは女神にはなれない。世界の毒として捨てられるだけの、犠牲でしかない。
「どうせ手が届かないというのに、欲しくて堪らないキーラの想いを、……貴方様は知っていますか」
「……、そのような、こと、……俺とて、同じだ」
手を伸ばしたって、手に入れることなどできない。この手が、彼女を煉獄に落とすと分かっていたはずだった。それなのに、キーラが笑いかけてくれる度に心が揺れて泣きたくなった。愛しい子を手にかけなければならない運命を呪った。
「出逢わなければ良かったと、思ったこともある。だが、キーラに出逢わなければ、……俺は不幸だった」
神殿という檻の中で、死んでいった母や、死んでいくであろう己を恨んだであろう。キーラがいなければ、胸に宿る温かな想いすらも、抱くことができなかった。
「正しいのは、お前たちだ。世界を救うために……、キーラは、煉獄へ落ちなければならない」
誰よりも、何よりも生きてほしい。だが、彼女の生を願うものなど、この世界の何処にいると言うのだ。アラムとて、彼女を犠牲にして生きることを、当然だと思っていたのだ。他の人間も、憐れみと蔑みを与えながら、キーラの命を踏みつけて生きることを当然だと感じているはずだ。
生きるためには、世界を守るためには、犠牲が必要なのだ。その犠牲が、アラムが大切に思う子であった。それだけのことだ。
「三日後。俺は、あの子を煉獄へ落とす。どうせ共に在れぬと言うならば、……せめて、俺の手で」
共に生きられぬならば、せめて、この手で彼女を終わらせたい。その泣き顔を脳裏に焼き付けて、彼女のすべてをこの身体に刻みつけたかった。
「……、話は終わりか? それならば、俺は失礼する」
何も言わない大神官を残し、アラムは部屋を後にした。
小さく息をついた顔をあげると、柱の陰に隠れた少女の姿が視界に入る。良く知る従兄妹の姿に、アラムは苦笑した。
「ジリヤ。――盗み聞きは、あまり褒められたことではないな」
「ごめんなさい。アラム様」
己と同じ黒髪の少女が、顔を俯かせてアラムの傍に寄って来る。
彼女と自分は、神子の血が特別濃い人間だ。その証拠に、神子と同じ漆黒の髪に琥珀の瞳を持つ。
神子の血を残すために、生まれた時からアラムはジリヤとの婚姻を定められていた。ジリヤも彼女の父である大神官も、それを望んでいる。
「お父様と、何のお話をしていたのですか?」
「……、大したことではない」
「嘘。……、あの子の、ことなのでしょう」
アラムより淡い蜜色をした、ジリヤの瞳が翳った。黙したままのアラムにジリヤは続ける。
「アラム様がそんな顔をするのは、……あの子のことだけですもの。どうして、あの子に構うのですか?」
「……、ジリヤ」
「アラム様は、神子です。あの子といても辛いだけなのに!」
縋りつくようにアラムの衣を掴んだジリヤに、アラムは目を伏せた。
「辛くても構わない。キーラの傍なら、俺は幸せだと思える。だから、俺の世界で一番大切な宝物はキーラだ」
たとえ、自分が殺す少女だとしても、アラムにとってキーラは何よりも大切な宝物だった。
――、役目のために生かされ、神殿に囲われてきた。求められているのは
神子であって、アラムという個ではない。贅沢だと詰られようとも、アラムは神子と言う付加価値のない自分を誰かに見てほしかった。
「……、私では、駄目なのですか? 私では、アラム様は幸せだと思えないのですか?」
アラムの胸元を掴み、ジリヤは頬に涙を滴らせる。何も応えないアラムに、ジリヤは叫んだ。
「……っ、酷い、アラム様は酷いわ。私の気持ちを知っているのに、いつもあの子を選ぶ!」
「……、すまない」
「謝らないで、惨めになるわ! ……っ、私たちには同じ血が流れているのに。世界を守る神子の血が流れているのに! なんで、あの子を憎んでくれないの……?」
「……、憎めるはず、ないだろう。キーラは当たり前の幸せを手にできるはずだった。それなのに、世界の勝手な都合で死を宣告されている」
キーラのどこが世界の毒なのだろうか。神殿で笑いながら暮らす者たちと、キーラに何の違いがあるというのだ。
理不尽な運命に巻き込まれさえしなければ、――彼女は、きっと、当たり前のように人生を謳歌できた。
「俺たちの犠牲になるんだ。――どうして、あの子を憎める?」
「……っ、憐れみですか? あの子が可哀そうだから、私を選んでくれないのですか!」
アラムは、そっとジリヤの身体を突き放した。
――迷うことなくジリヤを選べたならば、きっと楽になれただろう。
「憐れみだけならば、……どれほど、良かっただろうな」
だが、それを選ぶには、キーラの存在は大きすぎた。
泣き崩れて膝をついたジリヤに背を向けて、アラムは静かに歩き出した。
キーラに会いたい、と思った。
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