部屋の扉が数度叩かて、キーラが返事をする前に扉が開かれた。
「アラム様?」
王都に旅立っていた彼の姿を目にして、キーラは首を傾げる。
「ただいま、キーラ」
アラムの傍に駆け寄ると、闇色の髪に所々砂が散っていることに気づく。その上、彼はいつも神殿にいる時の服装ではなく、旅装に身を包んだままだった。
「いつ帰って来たの?」
「つい、先ほどだ。早く君の顔が見たくて、そのまま来てしまった」
「でも……、ジリヤ、いないよ?」
大神官や一部の者たちを除いた神殿の人間は、アラムがキーラの部屋を訪ねる理由が婚約者であるジリヤに会うためだと思っている。そのため、ジリヤが不在の時にアラムがキーラの部屋を訪れるのは不自然だった。
「……、彼女のことは良いだろう。この五日間くらい、君の傍で過ごしたい」
「大神官様に怒られるよ」
「構わない。そんなことより、薔薇が見たいと言っていただろう? 待たせてしまったから、今から行こう」
差し出された彼の手を、キーラは恐る恐る掴んだ。そのまま、窓の外に引っ張りだされ、抱き抱えられる。
「少し、痩せたか?」
「……、最近暑いから、食欲がなくて」
嘘をついたキーラに、アラムは何も言わなかった。食欲がないのは、暑さのせいではなかった。五日後に訪れる役目を考えて、どうしても食欲が出なかったのだ。
「あまり、心配させないでくれ」
「ごめんなさい」
廊下に下ろされたキーラは、アラムの少し後ろを歩き始める。
キーラの容姿を知っている者は、神殿に住まう人間たちの中でもわずかだ。薄紫のベールを被り、頬の刻印を誤魔化せば、遠目からでは誰もキーラの正体を分かりはしない。
外に出て、薔薇園の入り口に差し掛かった時、キーラは遠くで談笑をしている者たちに気づく。
妙齢の女性が、赤子を抱いて微笑んでいた。その周りを囲むように、数人の侍女たちが談笑をしている。
神殿は、神子と彼に纏わる血を引く者たちを中心とした限られた人間が暮らす場所だ。大きなオアシスを囲み、砂漠の楽園と呼ばれるこの場所は、一種の街であり共同体なのである。
神子の血をより多く残すためにも、家族を成すことは奨励されている。神殿を統べる大神官も妻を持ち、ジリヤと言う一人娘を設けているのだ。
「ああ。そう言えば、侍女に子どもが生まれたと誰かが言っていたな」
「……、そっか。赤ちゃん、可愛いね」
遠目から見ても、小さな命は愛らしく見えた。
一度で良いから抱いてみたいと思ったが、毒であるキーラが赤子に触れることを母親が赦すはずがない。
赤子を抱く母親を見ながら、キーラは目を伏せた。
「幸せそうだね」
他人の子どもでさえ抱けず、まして、未来のないキーラには自分の子どもを抱くことも叶わない。
だが、時折、想像せずにはいられない。あり得ない未来だと分かっているが、大好きなアラムと家族になり子を宿して死ねたなら、どれほど幸せだろう、と。
「……、アラム様は、幸せは、何処にでもあると思う?」
キーラは、ただ、幸せになりたい。このような身でも、幸せになれるのだと信じなければ、満足に立つことさえできなかった。
「突然、どうした?」
「私は、ううん、私たちは……、世界のために生かされているだけだから。当たり前の幸せなんて、絶対に手に入らない」
世界の毒として生まれたキーラも、その毒を煉獄に落とす神子であるアラムも、世界のために生かされている命だ。神殿に囲われ、役目を全うするために存在している。
「幸せは、何処にでもあるの? ――私たちの幸せも、何処かにある?」
このようなことを言えば彼を困らすと知りながらも、キーラは言った。
彼は困ったように苦笑してから、唇を開く。
「……、何処にでもある、というより、何処にでも見つけられる、と言った方が正しいかもしれないな」
「何処にでも見つけられる?」
「俺は神殿のことを好いていない。神子の血筋は、神殿に囲われている。母上はその生活の中で身体を壊し、心を壊して死んだ。だから、……神殿は好きになれない」
大神官の妹であったアラムの母には、恋い慕う人がいたらしい。だが、彼女は神子の血が濃かったために、好きでもない男と結婚することになった。
――、毒を煉獄へ落とす時まで、神子の血を絶やすわけにはいかなかった。砂漠に覆い尽くされていく世界を再生するためには、世界を救うべく生み出された神子の血が必要だったのだ。
だが、そのような理由は、アラムの母や彼自身にとって受け入れ難いものだったのだろう。
「……、アラム様」
彼らにとって、神殿と言う楽園は、己を閉じ込める牢獄に過ぎなかった。
「それでも、限られた世界でしか生きられない俺だって、幸せを見つけた。……君の傍にいると、俺は幸せなんだ」
優しい笑みに、キーラは言葉を失くした。
「君が笑うと、俺は優しくなれる。この世界も悪くないと思える」
それはとても柔らかな告白であったが、キーラの心に影を落とすものでもあった。
アラムは、キーラの役目を知っている。それなのに、どうして突き放さないのだろう。彼の傍にいたいと思う反面、いっそう、キーラのことなど見捨ててほしいと思う心がある。
頬に広がる刻印に無意識に触れて、キーラは涙を堪えた。
「私も、貴方が笑うと、……世界が、好きになれるの。――それが、幸せ、なのかな」
そして、キーラは笑いながら嘘をついた。そうすれば、彼が微笑んでくれると知っていた。
「一緒だな」
予想通り微笑んだアラムを、直視することができなかった。
どうして、世界は優しいものだけでできていないのだろう。温かな言葉と、優しい触れ合いだけで世界ができていたならば、このように胸が締め付けられることはなかった。
キーラが毒でなければ、何も憂うことなく、彼の隣で笑えていたのだろうか。
赤い薔薇に触れて、キーラは唇を震わす。薔薇を見て触れる度に、いつだって思い出すのは始まりの日だ。
「ねえ、憶えている? ……、初めて会った日も、赤い薔薇が咲いていたね」
あの日、この場所で泣いていたキーラに、アラムは薔薇をくれたのだ。真紅の花を手にして笑う少年は、この世のものとは思えぬほど美しかったことを憶えている。
どれほど綺麗な装飾品も、あの薔薇には勝らない。記憶の中で鮮やかに咲き誇る薔薇と共に、キーラはアラムとの出逢いを忘れはしない。
「懐かしいな。……、泣きながら笑った君を、今でも鮮明に思い出せる」
「嬉しかったの。私に微笑みかけてくれたのは、アラム様だけだったから」
あの日、キーラはアラムから生きる世界を貰ったのだ。それが限られた時間しか生きられない世界だとしても、尊いものに思えた。
それはきっと、アラムの言う幸せと同じ感情だったのだろう。
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