徒花と眠り姫

鈴蘭の眠り姫 03

 寝台の上で本を読んでいると、軽い足音が聞こえてくる。
 盆を片手に扉を開ける彼女に、俺は読んでいた本を閉じて顔を上げた。
 彼女の持つ盆の上にあるのは、小さな水瓶と、薬包紙に包まれた白い粉だった。寝台の横の机にそれらを置いて、細い手が盃に注がれた水と薬を差し出してくる。
「それ、要らない」
 苦い顔をして拒否する俺を宥めるように、彼女の唇から滔々とうとうと言葉が溢れ出す。
「お飲みくださいませ。貴方様を思って、当主自らが調合なさったものです」
「……忙しい御父上は、死にかけの息子なんて気にしてない」
「そのようなことは、ございません」
「俺を思ってくれてるなら、どうして会いに来ない? 俺は、一度も父親に会ったことがない。――俺が、要らない子だからだ。御父上の代償を払わせるためだけに生まれた、ただの道具だからだ」
「ご主人様は、人でございます」
「違うさ、お前と同じ。欠陥品だ」
「ご主人様は、私と同じではありません。ご主人様は人でございます、私のたった一人の主です」
 そうして、再び水と薬を差しだしてくる彼女に、俺は強く首を振る。
「要らないって言ってるだろ」
「どうか、お飲みくださいませ。心配なのです」
「……、心配?」
「貴方様を愛しておりますから、心配なのです」
 応じない俺に痺れを切らしたのか、彼女は薬を片手に俺の顎を掴んだ。
 抵抗するように睨みつけるが、彼女が怯えることはなかった。
「……、鬱陶しいんだよ、お前」
 酷い言葉を投げつける俺に、彼女は何も言わない。
「愛? 笑わせてくれる」
 漆黒の瞳は、闇をはらんでひたすらに俺を映していた。
「終わった存在のくせに、……生きてなんかないくせに、人間様の真似して満足か?」
 口づけを与え、目覚めさせるだけ目覚めさせて、名を与えることはなかった。そうすることで、俺は彼女を他の人形と違った存在にしようとした。不完全であれば、彼女は人間のように矛盾した振る舞いをするのではないかと、俺は考えてしまったのだ。
 彼女が、人間のようであればいいと思ったのは俺だ。
 人間の真似事をさせているのは、俺の方なのだ。

「そんなに、――俺は、惨めに見えたか?」

 黙り込んだ彼女の前で、用意された水と薬を床へと投げ捨てる。割れた杯から水が跳ね、白い粉末は溶けていく。この薬が、自分にとって良いものでないことなど、とっくの昔から知っている。
 誤魔化して、それで俺が楽になれるとでも思っているのだろうか。手早く殺してやろうという親心なのか知らないが、嘲笑混じりの同情で満たされるほど、俺の心は枯れていない。
「病気じゃないんだよ。こんなもの飲んでも、悪くなるだけだってことくらい分かる! 俺は、何も知らないわけじゃないっ……! 莫迦にするな!」
 机の上に載せられた水瓶を力任せに叩き落とし、辺りにあるすべてのものを衝動のままに手にかける。
 力任せに割った水瓶の破片が、手の甲に傷をつける。傷の痛みと、赤く滴る血が、俺が生きていることを教えてくれる。
 俺は、生きているのだ――なのに、どうして、こんなにも苦しいのだ。
「ご主人様、お止めください」
 暴れる俺を制止するために彼女が伸ばした手さえも、乱暴に振り払う。
「死ね、みんな死にやがれ! なんで、何で俺ばっかりこんな、っ……!」
 視界が歪み、堪らず、俺は床へと崩れ落ちた。
 息が荒くなり、上手く呼吸することができない。
「ご主人様」
 咳込んだ俺の視界には、彼女の細い足首が見えた。
 倒れ込んだ俺の顔を覗き込むように、彼女は力なくしゃがみ込む。止まない咳に口元を押さえる、情けない俺の姿が彼女の瞳に映し出されていた。
「ご主人様」
 彼女が、縋りつくように俺の頭に手を伸ばした。
 いつもと変わらない声音のはずなのに、その声が必死なように思える。
「申し訳、ございません。私、私は」
 謝罪を吐き出す唇の奥で、白い歯に刻まれた呪いの印が、紅く揺らめいている。
「申し訳ございません。申し訳、ございません」
 莫迦の一つ覚えのように、何度も謝罪を繰り返す彼女の手首を弱々しく掴む。
「……、謝る、なよ」
 もっと、惨めになってしまうだろう。
 自分が、醜くてどうしようもない存在だと思い知らされてしまう。自分に従うことしかできない彼女に、一方的に当たり散らした最低な人間だ。
 何故、今日に限って、こんなにも動揺してしまうのだろう。体調を崩すことなど、別に珍しいことではない。
 俺の身体は、生まれた時からこうなるようになっていた。
 病気などではない。
 俺は、父が重ね続ける罪の証。本来ならば父が払うべき代償を背負わされて生まれてきたのが、俺だからだ。
 何度も咳をする俺の背に、冷たい手が触れる。
「私は、どのようにすれば、ご主人様の痛みを分けていただけますか」
 表情も声音も、何一つ色を持ってはいない。
 それなのに、心配をしてくれるなどと思うなんて、どうかしている。
「……、痛みは、分けられるも、のじゃない」
 分けられるものならば、世界中の人間に押し付けてやる。
 自分が幸せであることなんて、愛されていることなんて知らずに、のうのうと生きている奴らを全員を苦しめてやるだろう。
 闇をはらんだ目が、俺の視線と交わる。
「では、私はどうすればよろしいですか。ご主人様のために、何をすれば良いのですか」
 何の起伏も感じられない声だというのに、俺には彼女が泣いているように感じられた。都合のよい想像ばかり脳裏を駆け巡ることが、胸を締め付ける。
「私には、貴方様しかおりません。貴方様しか愛せないのです」
 人形は、哀れだ。
 無理やりに口づけを与え、己を目覚めさせた主人。そんな最低な人間が、彼女たちにとっては唯一の絶対の存在となるのだ。
 どれほどの世界と触れ合おうとも、彼女を満たすのは主人に対する忠誠だけだ。
 空っぽの彼女に与えらる唯一は、俺みたいな人間への忠誠なのだ。
 震える手で彼女に手を伸ばす。あの日口づけた、柔らかな唇に触れる。

「……、手を、握ってろ」

 せめて、彼女が人間だったら――。
 涙の一つでも見せてくれたら、この歯がゆさも消えるのに。
「それだけで、いい」
 こんなの、ただの猿真似だ。
 見たこともない光景に憧れて、一人、人形遊びをしているだけだ。彼女を人間に見立てて、俺は俺を慰めている。
「貴方様が望むのであれば、いつまでも、握っております」
 何を言っても、彼女はきっと、最後の最後には受け入れるに違いない。結局のところ、空っぽの彼女には俺しかいないのだ。
 こんなにも惨めで、醜くて、最低な俺しかいないのだ。
 それは、何と嘆かわしく、痛ましいことなのだろう。
「大丈夫です、ご主人様」
 止まない咳に息を荒くして、俺は涙の滲む瞳で彼女を見た。
「大丈夫です」
 根拠のない言葉を繰り返す女の手は冷たい。
 この手から伝わる体温など何もないというのに、どうして、こんなにも安心してしまうのだろうか。