徒花と眠り姫

鈴蘭の眠り姫 04

 身に着けていた服を脱ぎながら、深い溜息をついた。
 数日前は、柄にもなく動揺してしまった。
 あれから、彼女の顔を見ることが少し辛くもあった。だが、俺の心など知らない彼女は、常と変わらないように俺の世話をする。
 早朝の決まった時間に俺を起こし、初めての時よりも格段に美味になった朝食を食べさせ、床に就くことが多い俺の面倒を看る。
 その顔には笑みの一つもないが、俺に触れる手は、ひどく優しいのだ。まるで母親が子を抱くように、柔らかく触れる手は、冷たいというのに妙に優しくて困った。
 肌着に手をかけた瞬間、突如、扉が開く。
「……、は?」
 給仕の服に身を包んだ彼女が、腕まくりをして立っていた。いつもは軽く結わえているはずの髪は、邪魔にならないように高い位置で括ってある。細い首筋が艶めかしいと、関係のないことが頭を過った。
「ご入浴の際には、お声をかけてくださいとお願いしたはずです」
 中途に服を着て口を開けたままの俺に構うことなく、彼女は常の無表情のまま言い放つ。
 確かに、随分と前、彼女が黒焦げの料理を作った際に、入浴を手伝う云々と言われた。
 だが、俺はそれを軽く流していた。
 明らかに矛盾し支離滅裂な彼女の言葉を、真面目に取る方がおかしいだろう。
 第一に、入浴の手伝いが必要ならば、他の人形に頼む。彼女にだけは、絶対に手伝ってもらいたくなかった。
「お召し物をお預かりします」
 そんな俺の内心に逆らうかのように、彼女は俺に近寄り、俺の服に手を伸ばしてきた。
 俺は、慌てて彼女の手を止める。
「……、ちょ、ちょっと待て!」
「どうして、待たなければならないのですか」
「お、男の着替えなんて手伝えないって言ってただろ?」
「お着替えとご入浴は別途と考えております。ご主人様が、お召し物を一人で脱げるとは思えません。まして、その身体でお独りでご入浴されるなど、却下させいただきます」
「俺をいくつだと思ってる! 構うな!」
「いけません、ご主人様。本日は体調も優れない様子、お独りでご入浴などされては、間違いなく倒れます」
「風呂に入ったくらいで、倒れるか!」
 顔を真っ赤にして怒鳴る俺に、彼女は首を振って、服を脱がそうとする手を止めない。
「そう仰って、先月倒れたのをお忘れですか。危うく溺死するところでございましたよ」
 手際の良い仕草に焦りながら、俺は何とか彼女を押し返した。目いっぱい押し返したため、彼女の身体が床へと倒れる。
 俺は息を荒くしながら、尻餅をついた彼女に宣言する。
「……っ、今日は、大丈夫なんだ。いいな、絶対について来るなよ!」
「ご主人様、お止めください」
 彼女の制止の声を振り切って、俺は浴室へと向かう。
 俺にだって羞恥心くらいはある。

 そうして、意地を張ったのが悪かったのかもしれない。


           ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆           


「私は、お止めになってくださいと申し上げました」
 彼女が、俺の身体に布団をかけながら呟く。
 俺は何も言えずに、黙って視線を逸らした。
 堪らなく恥ずかしかったことは、内緒にしておこう。人形相手にそのような感情を抱くことが不自然だ。
「ご主人様のお体は、私の大切なものでもあるのです」
「ああ、そうだろうな。お前には俺しかいないんだから」
 皮肉のつもりで投げかけた言葉は、何の意味もなさない。
「はい。私には貴方様しかおりません」
 皮肉さえも、彼女は肯定してしまうのだ。
 可哀そうな人形。
 俺みたいな者を慕ったところで、何一つ手にできるものはない。それでも、目覚めを与えた俺だけを、彼女は見つめ続けるのだろう。
 親が子を選べず、子も親を選べないように――、棺で眠る人形もまた、主人を選ぶことができない。
「ご自分を労わってくださいませ。私と違い、貴方様には死があるのですから」
「……、分かっている」
 死は、いつか訪れる。
 それもきっと、遠くない未来の話だろう。
「お目覚めになられたので、お伝えしなければならないことがあります。先ほど、お客様が参りました。面会をご希望されていたようですが、いかがなさいますか」
 時刻を見れば、既に深夜と呼んでも構わないような時分だった。このような時間に訪れる客人など、一人しかいない。
 そもそも、この人形屋敷を訪ねる客人は一人しかいないのだ。
「もしかして、姉さんか?」
「はい」
「なら、通していい」
「かしこまりました。私は、お食事をお持ちいたしますので、席を外させていただきます」
 一礼して部屋を出ていく彼女と入れ違うようにして、扉の前に女の影が現れる。
「煉、起きていたの」
「姉さん。こんな時間にどうしたんだ」
 艶やかな黒髪に、豊満な身体をした姉は、いつものように気だるげな顔で俺に近づいてくる。
 姉の訪問は別に珍しいことではないが、今は深夜を回る時間だ。
「旦那様が浮気しに行ったから、暇になったの。ここなら向こうみたいに煩わしい同情を浴びなくて済むし、皆が世話を焼いてくれるもの」
 冷めきった夫婦関係は相変わらずらしい。
 姉さんは姉さんで、あからさまな政略結婚に義兄を愛しているわけでもなく、義兄もまた楼家の家名が必要だっただけだ。姉さんそのものを愛しているわけではない。
 姉さんが深夜に差し掛かる時間に俺の元を訪れたのは、向こうで人間の使用人に世話を焼かれるのが嫌だからだろう。
 俺以外は人形しかいないこの屋敷ならば、煩わしい同情を浴びることもない。
「目覚めさせれば、何でも言うことを聞いてくれるんだもの。人間を相手するよりも、遥かに楽だわ」
「当たり前だろ、それが人形だ」
「感情のままに振る舞う人間より、人形の方がよっぽど高尚ね。人間も、心なんて面倒なもの捨てちゃえばいいのよ」
 真っ赤な紅の引かれた唇で、姉さんは魔女のように微笑む。
「そんなもの、あるだけで煩わしい」
 姉さんは鞄から煙草を取り出して、それを口に含み、火をつけようとした。

「煙草はお控えくださいませ。ご主人様のお体に障ります」

 その行動を遮るように、食事を乗せた盆を持った彼女が声を発していた。
 振り返った先にいた美しい人形を見た姉さんは、首をかしげて俺に問う。
「新入りさん? お父様の趣味が透けて見えるわね」
 顔も見たことない御父上は、老齢に似合わず若い外見をした人形を好むらしい。直接見たことはないが、彼の隣にはいつも若い女の人形が寄り添っていると聞いた。
 元々は数体しかいなかった楼家の人形を、ここまで数を増やしたのは御父上だった。
 それがどのような理由か知らないが、姉さんを含めた親族全体が、それを快く思っていないことは知っていた。
 今の楼家では、呪術の見返りよりも代償の方が大きい。
 割に合わない利益のために、多くの犠牲を払うことに誰が賛成すると言うのか。
 人形の数が増えたことで、俺のような存在を生む破目になったのだから。
「姉さん、それ、俺の人形だよ」
「……、あら。人形嫌いの貴方にしては珍しいわね」
「御父上が贈ってきたから、仕方なく受け取った」
「ご主人様、粥に致しましたが食欲はございますでしょうか?」
 俺たちの会話を遮るように問いかける彼女に、俺は黙ってうなずく。
 彼女は粥を蓮華で掬い、俺の口元に持ってきた。
「あーん、でございます。ご主人様、お熱いのでお気を付けください」
「……、……おい」
「ふーふー、を致しましょうか。風邪を引いた者には、そのようにするのでしょう。昨日読んだ本には、そう書いておりました」
「お前、また、何か読んだのか」
 予想する限りでは、いつかと同じような本だろう。
 姉さんが暇つぶしに買い込んで俺に押し付けた小説が、書庫に保管されている。それらを、彼女が重宝していることは、既に知っていた。
「ご主人様に食事を食べさせるの? おかしなお人形さん。煉、せっかくだから、食べさせてもらいなさいよ」
 からかうような姉さんの言葉に、俺は眉をひそめた。
 奇妙であることなど、分かっている。
 自主的に主人に物を食べさそうとする人形など、今まで見たこともない。使用人の人形たちは、俺が命令しない限りは出すぎた真似はしないのだ。
「粥くらい自分で食べれるから、置いてけ」
「昨日分析した本により、ご主人様は照れているのだと判断致します。よって、貴方様の真の命令は、食べさせてほしい、ですね」
 彼女は滅茶苦茶な言い分を述べて、無理やり蓮華を俺の口に放り込む。
「……熱っ……!」
「そのようなことはありえません。貴方様のために、ふーふー致しましたから」
「ありえてるんだよ、この、ボケ人形!」
「ボケとは、褒め言葉でございますか? 貴方様からの言葉ならば、私はどれも嬉しゅうございます」
 名を与えられていない未完成な人形でも、主人に対する忠誠は存在する。それは、人形にとって、唯一絶対と言っていいほどの真実であるのだ。
 彼女が、主人である俺を厭うことは、あり得ない。
 主人を嫌う人形など、失敗作以外の何ものでもない。どれほど俺が罵倒しようが、彼女は壊れたように嬉しいと繰り返すに違いない。
「お前を見ていると、いつも苛々する」
「嬉しゅうございます」
 そうして、彼女は何度でも同じ言葉を繰り返す。
 彼女が運ぶ食事を渋々と口にしながら、俺は姉さんを横目で見た。驚いたように目を見開き、姉さんは火を点けられなかった煙草を床に落とした。
「姉さん?」
「……なんだか、付き合いたての学生みたいね。変なの」
「らしくない冗談止めろよ、寒気がする」
「本気よ、本気。嫌ねえ、見せつけてくれちゃって」
「私とご主人様の愛は不変です」
「……お前はもう、黙ってくれ」
 姉さんは一頻り笑って、思い出したように口を開く。
「本当、おかしい。……ねえ、お人形さん。あたし、何も食べないで来たから、お腹がすいたわ。あたしにも何か作ってもらえないかしら?」
「――お時間がかかりますが、よろしいでしょうか」
 姉さんにではなく俺に向かって問いかける彼女に、俺は黙って指で命令した。それだけで理解したのか、彼女は厨房へと戻っていく。
 本を参考するようにしたおかげなのか、彼女が以前のような酷い料理を作ることはなくなっていた。さすがに、黒焦げの料理が出てくることはないだろう。
「珍しいことをするお人形さんだと思ったら、名前をつけなかったのね」
 姉さんの呟きに、俺は顔を上げる。
「……悪いか?」
「いいえ、誰よりも人間に憧れている、……貴方らしいわ」
 その言葉に、反論することはできなかった。
 人形に埋もれて暮らし、この命尽きるまで屋敷から出ることのない俺にとって人間は羨望の的だ。
 愛などくだらないと口にしながら、愛を囁き合う彼らに俺はずっと憧れているのだろう。
「姉さんは、……愛がどんなものだと、思う?」
 気紛れに問うてみれば、姉は微笑んだ。
「愛がなくても、生きていけるわね」
「……、そうだよな」
「あたしたちは、愛されなくても生きているじゃない」
 親の愛情を受けることなく育った俺たちならば、それはなおさらのことであった。
 腐るほどいる楼家の子どもの中で、俺や姉さんよりも優秀な者はたくさんいる。御父上にとって、俺も姉さんも、気にかける価値のない子どもなのだ。
 それに、この冷たい人形屋敷で育った俺が、人間の温かみなど知るはずもない。
「煉は、愛されない自分が不幸だと思う?」
 俺は、躊躇いがちに首を振った。
 自分が不幸な星の下に生まれた人間だとは思っているが、それは愛されなかったからではないのだ。そう、思っていたかった。
「あたし、とっても幸せよ。旦那様が浮気してても、誰にも愛されることがなくても、……幸せなのよ」
 愛されたいと願うことなど、ない。
 愛を感じたことのない俺は、それがどんなものかを知らない。
 知らないものを焦がれて求めることが、どれほど不毛であるか俺は知っている。
 だから、あの人形はお節介なのだ。
「変な子。今さら愛されたいなんて思ったの? 誰が、あたしたちみたいな人間を愛するというの」
 少しだけ寂しげな姉は、もしかしたら、愛を知っているのかもしれないと思った。
 俺と違って、姉さんは生身の人間の暮らす屋敷で育ったのだ。姉さんを育てのは、人形ではなく人間の女だったと聞いている。
 ああ、こんなこと、考えたところでどうしようもない。
 愛なんてものは、この屋敷で人形に埋もれる俺には、決して与えられないものなのだ。
 それは手を伸ばしても届くことのない、夢の中の優しいものだと、俺は知っている。
「ご主人様」
 だから、俺にだけ与えられる彼女の愛なんて、偽物なんだ。
 俺の手が届く愛なんて、あるはずがないのだから。