徒花と眠り姫
鈴蘭の眠り姫 05
白い花が、窓からの風に吹かれて揺れている。
今にも落ちそうな蕾を必死に繋いで、室内に囲われた儚い花は、精一杯の生を主張していた。
憎たらしいほどに、眩しい姿。
横になっている俺の額に、冷たい掌が触れる。それが誰のものであるかなど、分かり切っている。
「本日は、熱はないようですね」
あの吹雪の日に目覚めた時と寸分変わらぬ容姿で、彼女が呟いた。
「……、そんなに、柔じゃない」
早いもので、彼女が俺の元に来てから、既に数年の月日が流れている。
あの頃に比べて随分と伸びた俺の髪を、彼女の細い指が柔らかに梳いた。
「随分と、御髪が伸びましたね」
「鬱陶しいから、切ってくれ」
「お綺麗な髪ですのに、切られては勿体のうございます」
「こんな真っ白の髪が、綺麗なのか?」
「雪のようで、美しいのです。貴方様に目覚めさせていただいた、あの夜を思い出します。とても、好きです」
「……、そうか」
あの吹雪の夜から、既に数年。
伸びた髪に、時の経過を感じる。昔と変わらず、過ぎ去りゆく季節を見つめて、残された時間を計算しては恐ろしさに身を震わすことはある。
だが、彼女と過ごす日々の中で、恐怖を忘れられる時間があるのも事実だった。
「悪くは、ないのかもな」
このまま彼女と過ごしていれば、麻酔にかけられるように、ゆっくりと恐怖が和らいでいくのかもしれない。
それも、悪くないと思えるようになったのは、俺が変わったからだろうか。
「何が悪くないのですか、ご主人様」
「……、別に」
「ご主人様は相変わらずでございますね」
何一つ表情筋が動かない彼女の、ほんの少しの機微のようなものを、最近では感じ取れるようになっていた。それは俺の甘い幻想なのかもしれないが、単純に嬉しかった。
「本日はお加減も宜しいようで、何よりでございます」
「そんな、頻繁に倒れたりしない」
「それは、もう少し健康的になってから仰ってほしいものです」
「……、うっさい」
顔を逸らした俺に、彼女は窓の外へと視線を移した。
「本日は、庭園にでも出られますか。今朝方見に行ったところ、花が咲いておりました」
俺もつられるように視線を遣れば、色取り取りの花々が咲き誇っている。
春は、嫌いだ。
咲き誇る生命の息吹は、疎ましいほどに羨望を抱いてしまう。
「……お前も一緒なら、出る」
「もちろんでございます、ご主人様」
ただ、春の日差しを浴びた彼女は、きっと、とても美しいのだろうと思った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
穏やかな時間ばかりが、流れる。
彼女の存在によって、止められていた時間が動き出すように、ゆっくりと屋敷は彩られていった。
初めはその変化に戸惑いさえ覚えたが、今では、この環境に居心地の良さを感じている。
生気の欠片も感じられない彼女が施した、瑞々しい変化が心地よいのだ。
「……、花、か」
彼女が部屋に飾った花瓶に、わずかに口元をほころばせて、俺は目を伏せた。
庭に咲き誇る花々は、憎らしいほど綺麗だった。
そして、花を摘む彼女は、息を止めてしまうほどに美しかった。
表情は一切動くことはなかったが、彼女が花に惹かれているかのように、俺には思えた。心なしか彼女を取り巻く空気が楽しそうに見えたのだ。
もし、俺が花を贈ったとしたら、彼女はどんな反応をするのだろうか。
嬉しそうな言葉を並べるだろうか、それとも、何も言えずに言葉に詰まるだろうか。
彼女に似合うのは、毒々しいほどに麗しい鈴蘭の花だ。
彼女は、有毒な白い花。
凍りついていたはずの心の水面に、いつも波紋を広げる。彼女の存在は、時に苛立ちさえ覚えてしまうが、泣きたくなるほど切ない感情を何度も揺り起こさせる。
俺は生きているのだと、柔らかな痛みと共に、何度も何度も教えてくれる。冷たい身体で包みこんで、恐怖を受け入れるための手伝いをしてくれる。
彼女の存在が、どれほど俺の支えとなっているか、彼女は知っているだろうか。
今度、彼女の眠る棺を満たしていた花と同じ鈴蘭を贈ってみよう。
俺が彼女に貰ったものと同じものを、返すことはできない。
だが、俺が彼女のために何かをすることに、意味があるような気がするのだ。
「ご主人様、お客様です」
考えに耽っていた俺に、彼女の声がかかる。
俺は顔を上げて、扉の前に佇む彼女に視線を移した。
相変わらずの無表情に、長くしなやかな黒髪を軽く結わえ、妙に肉感的な唇が赤い。
見る者すべてが美しいと評するに相応しい姿、彼女が知り得ない昔には、さぞかし持て囃されたことだろう。
もはや見ることは叶わないが、彼女が微笑んでいた姿など、誰もが心を奪われたに決まっている。
もしかしたら、恋仲の男がいたのかもしれない。
「客?」
時計を見遣れば、既に時刻は深夜を回っていた。
このような時間に客が来ることなど滅多にない。
「はい。お加減がよろしくないのであれば、私から失礼のないようにお帰りになっていただきますが」
「……いや、会う。お前はいつも通りにしてろ」
「かしこまりました」
姉さん以外の人間など、一度も屋敷を訪れたことはない。今回も、どうせ姉さんの訪問だろう。わざわざ真夜中に来たということは、また義兄関係だろうか。
俺は早足で客間へと足を進めた。
「姉さん、こんな時間に何の……」
扉を開けた瞬間、目に映った人影に、俺はただ目を見開く。
写真で見た姿そのままの老人が、革のソファに不遜な態度で座っている。翁の隣に寄り添う若い女の人形が、ゆっくりと俺を見た。
「御、父上……?」
今の今まで一度も会ったことのない父親が、そこにはいた。
「ほう、まだ生きておったのか。たまには、あれの言葉も信用してみるものだな」
年老いた楼家の当主は、俺の姿を瞳に捕らえ、唇の端を皮肉げに釣り上げる。
「――尤も、随分と侵されているようだがな」
人形を見るような目で、父さんは俺を見た。
楼家の術師、その手で人形を作りだす老人にとって、人形と俺の差異などないのかもしれない。
「……っ、……」
人間として欠陥品なのは、人形も俺も同じ。
この白い髪が、楼家の人間として代償を抱える何よりもの証拠だった。忌々しい代償を背負った証だ。
この純白は、雪のように綺麗なものではなく、人の命を弄んだ穢れの証なのだ。
「せいぜい、生きるがいい」
父さんは俺の横を通り過ぎると同時に、一言呟いた。
俺の存在など、興味がないのだと言われた気がした。
振り返ることもできずに、ただ悔しさに拳を握りしめる。
こんな身体に生まれたのは、俺のせいではない。
罪ある家に生まれて、その罪を背負わされた俺は、被害者以外の何者でもないだろう。
生まれた瞬間から、俺に未来などなかった。
悔しくて堪らなくて、俺は衝動のままに客間の椅子を蹴飛ばした。
細い足では、ただ痛みを覚えるだけで、何一つ壊すことはできない。
俺は、こんなにも弱い。
「ご主人様、いかがなさいましたか」
音を聞きつけたのか、彼女が来賓室へと駆け込んでくる。その黒い瞳に俺の姿を捕らえるや否や、彼女は俺の傍へ走り寄ってきた。
「お止めくださいませ、足を痛めてしまいます」
赤くなった俺の足に手を当て、確かめるように彼女は触れてくる。
身体の奥から震えあがるような冷たさ、――その手に、体温はない。
目に映る彼女に、心はない。
どれほど美しくあろうとも、生きているかのように見えようとも、彼女は人間ではない。
初めから分かり切っていた事実だ。
この関係は、積み上げられてきた思い出は、ただの人形遊びでしかないことなど、分かっていただろう。
穏やかな日々も、泣きたくなるような言葉も、すべては俺が作り上げた幻想に過ぎないと、知っていたはずだ。
「俺は、……俺はっ……」
湧き上がる苛立ちと共に、衝動だけが心を乱す。
俺は無理やり彼女の手を引いて、固い床に押し倒した。細い身体は、俺の弱い力にさえも逆らえずに反転する。
「どうなさいましたか」
冷たく白い彼女の首筋に、俺は両手を伸ばした。
どうせ、何一つ手に入らないのならば、すべてこの手で終わらせてしまいたかった。
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