薄らと目をあけて、ライナスはまどろみから覚醒する。
前髪をかき揚げなら、ソファに寝転んでいた身体を起こした。窓の外を見ると、既に日が沈んでいる。仮眠のつもりだったが、随分と長く寝ていたようだ。
先ほどまで見ていた夢が原因で、気分はあまり優れなかった。
「もう夜になる。どれだけ、寝るつもりだったんだ?」
呆れたようなスタンの声に、ライナスはゆっくりと彼に視線を遣った。
「二年前のことを、……夢で見たよ」
ライナスの沈んだ声に、スタンは溜息をついた。
「……、王立学院を卒業した日のことか」
――イーディス・ティセ・ディオルは諦めろ。
二年前の女王の言葉が、ライナスの脳裏で何度も繰り返される。
母である女王から特別愛されていることを知っていた分、あの頃のライナスは望めば何でも手に入ると思っていた。
それ故に、女王の言葉が信じられなかった。
「母親としても、女王としても、……灰の民を、僕の傍に置くことは赦せなかったのだろうね」
灰の民は、国の庇護下に在る代わりに、未来を選ぶことができない。身の安全を保証してもらうため、彼らは国の道具となることを選んだのだ。
道具に恋する王子を、女王が赦せるはずがない。何処かの貴族の娘や異国の姫と結ばれた方が、国にとっても有益であり、親としても嬉しいのだろう。
「イーディスは、……僕を置いて、遠くない未来に死ぬ」
ライナスたちが当然のように想像している未来を、灰の民たちは手にすることができない。彼らに与えられた時間は、ライナスたちよりもずっと短い。
それを分かっていながら、ライナスはイーディスに手を伸ばした。長くは共に在れないと知りながらも、傍にいるのは彼女であってほしいと願った。
「諦めようと思ったこともある。僕が傍にいない方が、彼女は幸せになれるのではないかと、考えたこともあったよ」
だが、そう思う度に、灼熱のような赤が胸を焦がす。
「でも、諦めることなんて、できなかった。……、叶うなら、傍にいてほしいんだ」
「……、知っている。俺は、お前があいつのためにしてきた努力も、ずっと、見てきたんだ」
ライナスは、イーディスを蝕んでいく灰化を止めたかった。暇潰しのつもりで入った王立学院だったというのに、必死で学び、魔力の研究に力を注いだのは、彼女を助けたかったからだ。
「結局、……彼女を救う術は、見つけられなかったけどね」
だが、その研究が実を結ぶことはなかった。結果を求めれば求めるほど、絶望を突き付けられた。
彼女を救う術など、何処にもないと思い知らされた。
「それでも、お前の想いは無駄にならない。……無駄になど、させるものか」
眉間に皺を寄せたスタンに、ライナスは苦笑した。
◇◆◇◆◇
離宮に入り、慣れた様子でライナスの部屋へ向かうと、入口には青い顔をしたスタンの姿がある。
「ああ、……もう、四日経ったのか」
小さく欠伸をしながら、スタンはイーディスに向かって言った。彼が気を抜いたところなど滅多に見られないのだが、それほど疲れているのだろうか。
「なんだか、お疲れみたいね」
「ライナスが、自分の研究にかまけて仕事を溜めていたのが悪い。……おかげで、護衛の俺まで、この四日間は寝不足だ」
「……、ライナスの研究、上手く行ってないの?」
「……、上手く行ってないというより、元から上手く行くはずがなかった。ライナス自身も、結果に関しては覚悟していたようだが、……相当堪えたようだな」
「……そう。ライナスは、中で休んでいるのよね? 今日は帰った方が良い?」
「お前を勝手に帰らせると、あいつの機嫌が悪くなって面倒だ。せめて、顔だけでも出していけ。流石に、もう起きているだろう」
溜息混じりのスタンの言葉に頷いて、イーディスはゆっくりと扉を開けた。
「ライナス……?」
彼の名を呼んでみるが、返事はない。やがて、イーディスは、静寂が支配する室内に小さな寝息が響いていることに気付く。
「こんなところで、寝ていたの?」
四日ぶりに会った彼は、ソファで横になり寝息を立てていた。
立派な青年へと成長したライナスには、少年らしいあどけなさは残っていない。それでも、あの頃と変わらぬ寝顔に見えたのは、何故だろうか。
イーディスは、彼の柔らかな金髪に手を伸ばす。初めて会った時、この髪と瞳が、太陽のようだと思ったことを憶えている。
人々を照らし、恵みを与えてくれる、優しい陽光のように感じた。
彼の人柄は、そのような優しくて柔らかなものではなかったが、それでも、彼がイーディスに夢と希望を与えてくれたことに変わりはない。
――ライナスの傍にいればいるほど、何度も忘れようとして、それでも、忘れることのできなかった彼との思い出が心を乱す。
手を繋いで、大樹に身体を預けて眠ったこと。
スタンに見張られながら、図書館で二人して試験の勉強をしたこと。
十三歳になり、始まった灰化に泣き喚いたイーディスを、強く抱きしめてくれたこと。
赤い髪を、好きだと言ってくれたこと。
「……、イーディ、ス?」
ライナスが長い睫毛に縁取られた瞼をゆっくりと開いた。彼の髪に触れていた手を離して、イーディスは苦笑する。
「……、起きたのね。もう、昼になるわ」
軽く目を擦りながら、ライナスが溜息をついた。
「酷い顔色をしているわ。まだ、休んだ方が……」
「いや、大丈夫だよ。それに、顔色が悪いのは君の方だ。また、無理をしていたの?」
眉間に皺を寄せて、まるで心配するかのように彼の手がイーディスの額に伸ばされた。
その手を拒むことが、イーディスにはできなかった。
――嫌いに、なれない。
あんなにも幸せだった過去を、イーディスの心は憶えている。
優しく頭を撫でて、眩しいほどの温かさを与えてくれた。焦がれて止まなくて、ずっと、欲しかった人が目の前にいる。
手に入らないと知ったのに、この手を伸ばしたくなってしまう。
ライナスと視線を合わしていることが居た堪れなくなり、イーディスは彼から視線を逸らした。
すると、室内に飾られている花が視界に入る。
「まだ、飾っていたの……?」
その花は、四日前にイーディスが飾った花だった。鮮やかな赤を宿していた花は、今ではイーディスの髪や腕のように灰色に染まっている。
「せっかく、君が飾ってくれた花だからね」
イーディスは花瓶の元まで歩き、中から花を取り出して目の前に翳した。数日前までは誇らしげに咲いていた赤い花も、花弁や根の先端が灰色になり、今では惨めなものだ。
「灰化が進んでいる。すぐに朽ちるわ」
「……、それでも、綺麗な花だよ」
ライナスが何を思ってこの花を綺麗と賞したのか、イーディスには分からなかった。
「綺麗じゃないわ。とても醜いもの」
この花がすべての魔力を失って、朽ちる日は遠くない。
「私と、同じ」
灰色に染まりゆく自らの身体を思い出し、イーディスは自嘲した。生きながらに魔力を失う自分は、この花と同じように醜く朽ちる。
「……、イーディス」
咎めるように名を呼ばれて、イーディスは薄笑いを浮かべた。他に、どのような表情をすれば良いのか分からなかった。
「私が長く生きられないことを知っていたから、貴方は私との縁を切ったの?」
ライナスは、イーディスの質問には答えない。代わりに、質問を返して来た。
「君は、……卒業の日、僕を待っていてくれたの?」
「待っていたわ。でも、貴方は最初から来るつもりなんてなかったのね」
王立学院を卒業した日のことは、今でも鮮明に憶えている。彼と交わした約束を信じて待ち続けた時間が、傷となってイーディスの心に刻まれている。
「あんなに一緒にいたのに、……私は、貴方の嘘一つ見抜けなかったの」
学院にいた頃、イーディスはいつもライナスと共にいた。あの頃、あれほど近くに感じていた彼は、今では遠い場所にいる。身体は近くにあっても、心は遠く離れてしまった。
だが、そのことを受け入れなければならないのだ。
「……、約束を破られたことは、貴方に縁を切られたことは、辛かったわ。だけど、あれで良かったのかもしれないと……、今は思うの」
独り言のように、イーディスは呟いた。
イーディスとライナスの関係は、王立学院を卒業する日に終わるべきだった。それこそが、逆らうことのできない運命だったに違いない。
「貴方は、ずっとは私の傍にいてくれない。この国の王子なんだもの」
利用価値のある道具でしかない灰の民と、女王の寵《ちょう》を受ける第五王子。誰が見ても、釣り合う存在ではない。二人の間を隔てる壁が、幼かったイーディスには見えていなかった。ただ、それだけのことだったのだ。
「イーディス」
優しい声音に、一瞬、学院にいた頃のライナスの姿が脳裏に浮かぶ。
「もし、君が死ぬまで傍にいてあげると言ったら、……喜んでくれる?」
突然、背後から抱き竦められて、イーディスは手に持っていた花を落とした。頭の中が真っ白に染まる。
彼の言葉が嘘であることなど分かっている。
だが、そっと髪に口づけられて、心の水面に漣《さざなみ》が立った。
「……、放して」
温もりを拒絶するための声は、消えてしまいそうなほどに小さかった。これでは、イーディスが今の状況を受け入れているかのようだ。
イーディスは、浅く呼吸を繰り返して心を静めようとする。
「君がいてくれるなら、僕は、何も要らないんだ」
耳に届いたのは、嘘で塗り固められ、どこまでも勝手な響きを持っている言葉だ。それなのに、動揺してしまった自分が信じられなかった。
「……っ、嘘つ、き」
イーディスは手足を乱暴に動かし、彼の腕から逃れる。
不思議なほど凪いでいるライナスの瞳を見つめて、イーディスは叫んだ。
「嘘つき、嘘つき! 最初から、約束なんて守るつもりなかったくせにっ……!」
「……、違うと言っても、君は信じないだろうね」
「信じないわよ! だって、ずっと待っていたのに、貴方は来なかった!」
彼の言葉を疑うことを知らぬほど、イーディスは彼を慕っていた。彼がイーディスとの約束を破ることなど、考えもしなかった。
「期待させるような嘘をついて、……傷つけるだけなら、どうせ離れるなら! どうして、もっと早く見捨ててくれなかったの!」
イーディスは、泣きながら部屋を飛び出した。これ以上、ライナスの近くにいたくなかった。
離宮を出て、イーディスは胸元を抑え込む。
嘘だと分かっている言葉に、イーディスは喜びを感じてしまった。それは、ライナスへの好意を棄て切れていない証拠だ。
心の奥深くまで、彼の言葉は沁み込んでいく。いつだって、イーディスを惑わすのは彼なのだ。
視線の先には、魔力を失い灰色になった手がある。
魔力とは生命力の一種だ。それは、正常な状態に命を保つため、必要不可欠な力。
イーディスたち灰の民は、齢十三を過ぎると、身体の末端から徐々に魔力を失っていく。灰の民は、魔力の器である身体と魔力の相性が極端に悪い。それ故に、ある程度の時間が過ぎると器と魔力が反発を始め、生きながらに灰化が起こるのだ。
「……、もう、やだ」
徐々に灰色に変わりゆく手を見つめて、イーディスは声を押し殺した。
一度始まってしまった灰化は、決して止まることはない。遅かれ早かれ、イーディスは生きながらにして魔力のすべてを失うのだ。
灰の民の寿命は長くても三十年、たいていは二十数年だ。十六であるイーディスは、早ければ、あと数年で死んでいく。
抱き竦められた時に感じた温もりを思い出して、イーディスは身を震わせた。
傍にいてあげる、そのような言葉に胸が熱くなった自分は、なんと愚かなのだろう。
胸の奥に閉じ込めていた気持ちなど、思い出したくなかった。
イーディスたち灰の民に、明るい未来など存在しない。誰かを大切に想えたところで、遠くない未来に別れは訪れてしまう。その上、イーディスが大切に思う人には、手を伸ばしたところで届かない。
二年前、王立学院を卒業した時、ライナスが会いに来てくれなかったことは悲しく、イーディスの心に深く傷を残した。
だが、イーディスは、傷つくと同時にほんの少しだけ安堵していたのかもしれない。ライナスへの想いを捨てれば、イーディスは死ぬことに対する恐れを軽くすることができたのだから。
灰化で父母を失くし、孤独になったイーディスにとって、ライナスは心の拠り所だった。それさえ失えば、イーディスに残るものなど何もない。空っぽになってしまえば、死さえも受け入れられるはずだ。
「……、ライナス」
すべて、忘れてしまいたい。
そうすれば、訪れるであろう死に怯えることもない。
だが、この胸を熱くする想いを忘れてしまえば、自分が自分でいられなくなるような気もして、また一筋涙が流れた。
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