第五王子ライナスの成人を祝うために、宮廷は朝から賑わっていた。夕刻を過ぎた今も、女官たちが夜に行われる舞踏会の準備をしている。
皆が慌ただしく働く中、イーディスは震える足でライナスの離宮を歩いていた。
「……、ライナス」
ライナスと揉めた日から、イーディスは彼に会っていなかった。傍仕えとしても、宮中に仕える人間としても、仕事を放り出して最低なことをしている自覚はあった。
だが、ライナスはイーディスを責めなかった。それどころか、スタンを遣いに寄こして、傍仕えの仕事は好きなだけ休んで良いとまで言ったのだ。
そのことを言い訳にして部屋に籠って薬を作り続けた結果、傍仕えとしての役目を終える今日を迎えてしまった。
――せめて、成人を祝う言葉だけは伝えようと思い、イーディスが自室を出たのは夕刻になってからだ。
「入らないのか?」
ライナスの部屋の前で足を止めていたイーディスに、スタンが声をかける。
「祝いの言葉の一つでも言ってやれ。あいつも喜ぶ」
仏頂面をした彼に肩を叩かれても、イーディスは一歩が踏み出せなかった。
スタンは溜息をついて、扉を開くと同時にイーディスの背を無理やり押した。
「……っ、ちょっと!」
「主の成人を祝うこともできないくらい、お前は薄情ではないだろう」
言い捨てると同時、スタンが勢い良く扉を閉める。
「こんばんは、イーディス」
部屋の中央に、正装に身を包んだライナスの姿があった。凛と伸ばされた背筋、かすかに揺れる金色の髪がとても眩しかった。
彼と自分は違う存在なのだと、強く思い知らされる。
「……、おめで、とう」
遠くなった彼に、イーディスは消えそうな声で言った。
「ありがとう。……来てくれないかと思ったから、嬉しいよ。僕の誕生日、憶えてくれていたんだね」
忘れるはずがない。彼が生まれてきたことに感謝し、心から祝った大切な日だった。
互いに何を言えば良いのか分からず、暫しの沈黙が落ちる。
憂いを帯びたライナスの顔を見つめて、イーディスは躊躇いがちに口を開いた。
「……、短い間だったけど、一月《ひとつき》、ありがとう」
「こちらこそ。僕は、昔みたいに君が傍にいてくれて楽しかったよ。君にとっては、……大嫌いな僕の傍仕えは苦痛だったかもしれないけど」
イーディスはゆっくりと首を振った。
「私が貴方を嫌えないと、知っているでしょう?」
口では嫌いと言えようとも、心はそうはいかない。傷つけられたのにも関わらず、莫迦なイーディスは今でもライナスを慕っている。
幸せだった過去の日々が、ライナスへの想いをイーディスの心から捨てさせない。
「そうだね。お人好しな君は、一度好きになった人間を嫌いになれないと僕は知っていた。知っていたから、……君の優しさにつけこんだ」
「君の異動を命じたのは母上だけど、それを頼んだのは僕だよ」
「……、え?」
「可笑しいと思っただろう? 僕の傍仕えを希望する者は山ほどいるし、薬師である灰の民だって、数は少ないけど君の他にもいる」
彼の言うとおりだった。イーディスに八つ当たりをした同僚など、数は少ないものの灰の民は他にもいるのだ。傍仕えに灰の民を命じるにしても、イーディスである必要は何処にもない。
「僕は、君に会いたかった。真っ赤な髪を揺らして笑った君の……、あの笑顔を、もう一度だけでも見たかった」
ライナスは過去に思いを馳せるように呟いて、優しい笑みを浮かべた。
「君は僕の太陽だった。君の傍は心地よくて、僕はその場所が好きだった」
イーディスは、堪らず泣きたくなった。
そのようなことを言うならば、何故、卒業の日に約束を破ったのだ。イーディスはずっと待っていたと言うのに、彼が来ることはなかった。
――伝えたい言葉があるんだ。
あの日、彼はイーディスに期待を抱かせた。
「今の君は、昔と違う。何もかも諦めて、笑うことを止めて……、自分の殻に籠ってしまっている。それで……、君は幸せなの?」
何故、ライナスが責めるような目で見つめてくるのか、イーディスには理解できなかった。
「……、勝手なこと、言わないでよ」
昔のように笑えなくなった理由など、たった一つしかないことを彼は知っているはずだ。
父母を亡くしたイーディスにとって、心の支えはライナスただ一人だった。
子どもだったイーディスが、自分と同じように寂しさを携え、傍にいて対等に扱ってくれるライナスに惹かれないわけがない。意識的にも無意識的にも、当然のように彼を支えとする。そのことを、聡いライナスは知っていたはずだ。
それなのに、卒業の日、彼は約束を破った。それだけではなく、一方的にイーディスとの縁を切ったのだ。
「殻に籠ることは悪いことなの? 傷つきたくないから、逃げることの何処が悪いのよ。生きながらに魔力を失う恐怖なんて、貴方には分からないでしょうっ……!」
ライナスが好きだと言ってくれた赤い髪さえも、毛先から徐々に灰色に染まっていく。少しずつ、誇れていたはずのものが失われていく。
すべてを失くして、――最後には、朽ちていくのだ。
傍にいた人を置き去りにして、父母のように若いうちに死んでいってしまう。大切な人を置いていく痛みも、置いて行かれる寂しさも、イーディスは知っていた。
欲しいものなど、手に入ったところで意味はない。
そして、イーディスが本当に欲しかった人は、手に入るはずがなかった。
「どうせっ……! 手を伸ばしたって、欲しいものなんて手に入らない! それなら、何も思わずに生きていた方が良い。何にも望まないで、誰も想わないでいた方が、……死ぬことが怖くないもの!」
すべてを、諦めようと思った。何も望まずに、誰も想うことなく生きるのだ。そうすれば、死への怯えを少しでも軽くすることができる。生きることへの執着をなくせば、死を受け入れられると信じていた。
そうでもしなければ、己の運命を認めることなど、イーディスにはできなかった。
「……っ、嫌なのよ。何かを望むことも、手に入らない人を想うことも!」
望んだところで、想ったところで――たとえ、手に入ったところで、最後には何の意味もなくなってしまう。
ライナスは、冷めた目でイーディスを見た。
「遠くない未来に死ぬから、何も望まないの?」
その態度に、イーディスが一瞬怯んだことを彼は見逃さない。
「違うだろう。君が全部諦めようとしているのは、ただの怯えだ。君は望みが叶わずに絶望することも、想いに応えてもらえずに失望することも、味わいたくないだけだよ。だから、自分の寿命を言い訳にして生きている」
「……っ、違う」
必死の反論が何よりの肯定であることに、イーディスは気付いていた。だが、それを認めてしまえば、この二年間、自分は何をしていたのか分からなくなる。
「僕は君が心配なんだ。いつだって、君の存在が心に在る」
イーディスが両手で耳を塞ごうとすると、近寄ったライナスがその手を強く掴んだ。
「どうか、聞いて。ずっと、君だけが僕にとって大切な子だと、知ってほしい」
優しい響きを持った言葉に、イーディスは唇を噛みしめる。いっそう夢だと思いたかったが、強く握られた手に走る痛みが、これが現実であることを訴えてくる。
「……っ、それなら、……どうして、来てくれなかったの?」
唇から、言うつもりのなかった問いが零れ落ちてしまう。
卒業の日、イーディスは彼を信じて待ち続けていた。だが、彼が来ることはなかった。何か事情があったのかもしれないと思い、彼に会おうとしたが、そのすべては拒絶された。
一方的に切られた縁は、二年間戻ることはなかった。
心の支えを失ったイーディスは、与えられた宮廷薬師の身分を楯に部屋に籠り、逃げるように仕事に没頭した。それ以外に、どうすれば良いのか分からなかった。
「君に伝えたいことがあった。だから、……約束を破るつもりなんて、なかった」
伝えたいことがあるから、学院の庭で待っていてほしいと彼は言った。イーディスが笑顔で頷くと、必ず来るから、と彼は約束してくれた。
「だけど、あの頃の僕は子どもで、周囲や自分の立場を本当の意味で分かっていなかった。君を守る力を持っていなかったのに、僕は、この想いを君に伝えようとしてしまった」
イーディスが顔をあげると、金色の瞳が柔らかに細められた。
「好きだよ、イーディス」
イーディスの頬を、彼の両手が包む込む。
「君の時間が限られたものだとしても、僕は君に幸せであってほしい。全部諦めたりしないで、昔のように笑って生きてほしい」
そっと額を重ね合わせて、彼が微笑んだ。
「一緒にいよう。僕の傍で笑っていてほしい。……あの日、君に、伝えたかった言葉だ」
彼の唇が優しく額に触れて、イーディスの頬を冷たいものが伝った。
「さようなら。イーディス」
ゆっくりとした足取りで、彼が去っていく。その背中を見つめながら、イーディスは床に崩れ落ちた。
「……、ライナスは、行ったのか」
部屋に入って来たスタンの言葉に、イーディスは応えない。今までの出来事が信じられず、両手で顔を覆って頭を振る。
頬を、涙が濡らしていた。
「……っ、好き?」
優しい笑みと共に告げられた想いが、胸をかき乱していた。
「嘘、でしょう?」
二年前、彼はイーディスとの縁を切った。
それは、長い間、イーディスのことを疎ましく思っていたからなのだと、心の何処かで感じていた。三つも年下の小娘で、王子である彼には到底釣り合わない灰の民だ。口にしていなかっただけで、イーディスのことを厭っていたのではないかと思っていた。
「嘘ではない。……二年前、王立学院の卒業式の後、女王陛下がライナスに苦言をしたことを知っているか?」
そのようなこと、聞いたこともなかった。
「灰の民を、何時まで傍に置くつもりだ。守れる力も持たないというのに、その人生を背負うことなどできるのか、と」
いつも無愛想なスタンの声は、わずかに上擦っていた。
――、十四のイーディスは、何も考えていなかった。
王立学院を卒業してからも、自分とライナスの関係は何一つ変わらないと信じていた。目の前の現実にさえ気付かずに、二人を取り巻く環境が変わっても、彼との関係は続くものだと疑いもしなかったのだ。
それは、ライナスも同じであったのだろう。だが、彼は目の前に広がる現実を、卒業の日に女王の手で知った。
「学院を卒業したばかりのライナスは、第五王子という力以外、何も持っていなかった。その力も女王の前では意味などない。……お前と共にいたいと願っても、叶える力など何処にもなかった」
スタンは目を伏せた。
「ライナスは、女王と賭けをしている。あいつが必死で掴み取った最後の機会だ。……だから、あいつには、賭けに勝って望みを叶えてほしい」
座り込んでいたイーディスを立たせて、スタンは問う。
「イーディス・ティセ・ディオル。お前は、何故、ライナスの傍にいたかった?」
イーディスは、強く拳を握りしめて息をついた。
ライナスと初めて会った時、彼は仮面のような笑顔を張りつけていた。外面は立派な第五王子だったが、中身は捻くれた少年だった。世渡りが上手くて猫かぶりで、内心では自分も他人も含めた世界のすべてを見下しているような男の子だった。
最初は彼のことなど、好きではなかった。うすら寒い笑顔とともに口にされる皮肉や意地悪な態度に、苛立ちや怒りがなかったと言えば嘘になる。
だが、傍にいるうちに、彼は少しずつ自然な笑顔を見せてくれるようになった。その笑みを知るうちに、彼がとても寂しい人であることを分かってしまった。
「……、寂しかったの」
イーディスも、寂しかった。
灰化により父母を亡くし、身寄りのなくなったイーディスには、女王からの命令を断ることなどできなかった。命じられるままに入学した王立学院では、周りは自分よりも年上で、向けられる視線も決して優しくはなかった。
その中で、ライナスだけがイーディスを対等に扱ってくれた。彼自身が見下す世界の一部として、彼はイーディスを自分と対等な存在として見たのだ。決して、善意や優しさから対等に扱われたわけではなかったが、イーディスは嬉しかった。
それは、心にあった寂しさが消えていく切欠となった。
「一緒にいれば、……寂しくないと、思ったの」
彼と共にいるうちに、イーディスの寂しさは満たされた。二人で寄り添って手を繋いでいれば、あの頃のイーディスは、死への恐怖に打ち勝てた。
思い返せば、そこには優しい記憶が溢れている。彼と共に過ごした日々の中で傷ついたことも数多くあったが、イーディスは確かに幸せだったのだ。
「ずっと、隣にいたかった。ただ、それだけが、望みだった」
手を繋いでいられたら、それだけで良かった。隣に居られれば、他には何も望まなかった。
イーディスは、彼の傍で生きたかったのだ。
「……、その望みを、お前は諦められるのか?」
――すべて、諦めれば良いと思っていた。
そうすれば、遠くない未来に迎えるであろう死を受け入れられると信じていた。
暗くて何も見えなかったはずの未来。だが、それは本当に暗闇に閉ざされていたのだろうか。
違うはずだ。
太陽はずっとイーディスを照らしていた。頑なに目を瞑り、気付かないふりをしていただけなのだ。
イーディスは、零れ落ちた涙を拭って立ち上がった。
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