06 隣国の御姫様
海の近くの駅に着いたのは、夕暮れ時を迎えた頃だった。
日が沈む直前の太陽は、血のような赤色をしている。薄闇と赤の狭間で、紫色の雲が幽かにたなびく光景を見つめた。
夕暮れは、パパとママがいる家に帰らなければならない合図だから、昔から大嫌いだった。病院にいた頃も、日が沈むと彼が家に帰ってしまうから、好きになることはできなかった。
青年に抱きあげられて改札を通り抜けると、家路を急ぐ通行人たちが疎らに歩いていた。擦れ違う人々は、わたしたちを不思議そうに見ている。
「ごめんね。目立ってる」
好奇の視線に晒されて、気分が良い人はいないだろう。
「そんなこと気にしないで良いのに。俺が好きでこうしてるだけだから」
「でも、車椅子の方が楽だったでしょ?」
「車椅子は、あまり好きじゃないんだ。こっちの方が、安心する」
わたしを抱く腕の力を強めて、彼が呟く。
「鼓動の音が聞こえて、君が生きていることが良く分かるから」
「……、変なの」
「そうだね、俺は変なんだ」
奇異の目を向けてくる人々を余所に、わたしたちは駅の外を目指した。
だが、すれ違う人々の中で、スーツ姿の女性がわたしを見るなり足を止めた。綺麗に染めた焦げ茶色の髪を肩口で切り揃えた、青年と同じ年頃の女性だった。
女性の真っ赤なルージュの引かれた唇が、驚きのあまり震えていた。彼女の瞳が一心に見つめるのは、黒目がちな青年の姿だった。
そこで、彼女はわたしではなく、わたしを抱える彼を見て立ち止まったことに気づく。
女性と視線が交わっても、彼は何も言わなかった。わずかに動揺したらしく彼の身体が強張ったが、それも一瞬のことだ。
彼は黙って女性の横を通り過ぎようとした。
「……っ、待って!」
女性の細い指が、彼の肩を掴んだ。パステルピンクに染められた長い爪が、決して離すまいと彼の服に食い込んでいる。
「あたしのこと、憶えているでしょ?」
ゆっくりと振り返った彼は、苦虫を噛み潰したようだった。穏やかに微笑む顔ばかり見ていたので、初めてみるその表情が意外だった。
「知り合い?」
囁き声で問うと、彼は小さく頷いた。
わたしは彼の人間関係を何一つ知らないが、ここは外の世界だ。彼の知り合いに遭遇しても可笑しくはない。
わたしと違って、彼の生きていた世界は白い箱庭ではないのだ。
「ごめん。俺たち、これから行く所があるから」
縋るような目で彼を引きとめようとする女性に、彼は素っ気なく言い捨てて、そのまま歩き出そうとした。
だが、女性はそれを赦さなかった。
「ねえ、その子、……まさか、
あの時の?」
はっきりとアイラインの引かれた目が、釣り上がっていく。血走ったような眼で、女性はわたしたちを見ていた。
「そうだとしたら、何か問題があるのか」
いつもわたしに話しかける時より冷たい、まるで氷のような声だった。
「だって、どうして、その子と一緒にいるの?」
女性は、彼の答えに酷く狼狽していた。
あの時。
それが指し示す意味は理解していたが、わたしは敢えて口を閉ざしたままでいることにした。
「お前には関係ないだろ」
「関係ない? その子のせいで、あたしたちの未来は狂ったのに?」
「……っ、やめてくれ。そんな風に言うのは」
綺麗な女の人は、彼の腕に抱かれたわたしを睨みつける。その瞳に宿るのが、嫉妬だと気付くのは難しいことではなかった。
わたしは、黙って女の人を見つめ返した。
「何よっ……、その目。莫迦にしてるの?」
近寄ってきた彼女が手を振り上げたのは突然で、彼が反応できなかったのも無理はない。
彼の腕に抱かれたわたしは、女性の平手を避けることができなかった。避けるつもりもなかった。
綺麗に整えられた爪は長くしなやかで、叩かれた頬に鋭い痛みが走る。生温かな感触が唇の端に触れた時、皮膚が切れて血が出たことを自覚する。
わたしは、悲鳴の一つもあげることなく、女性から視線を逸らさない。
「何てことをするんだ!」
青年の叫びに、女性は涙ぐんで震えていた。わたしを叩いたことよりも、彼に怒鳴られたことの方が堪えているようだった。
「この子が悪いんでしょう! あたしたちの人生を滅茶苦茶にしておきながら、貴方に甘えて! どうしてよ、どうして、なのよっ……!」
綺麗に化粧の施された顔で、女の人が大粒の涙を流す。その様子に彼の身体が僅かに震えた。
縋るように、女の人が彼に手を伸ばした。
「ねえ、あたしは、今でも貴方のことっ……!」
だけど、彼は女性の手をとらなかった。
「もう、終わったことだ」
代わりに、彼女に背を向けて彼は再び歩き出した。閑散とした駅の中には、女の人の泣き声だけが響いていた。野次馬根性で様子をうかがっていた人々も、やがて、帰路に就く。
彼は、誰もいない待合室のベンチにわたしを腰かけさせて、労わるように血の流れる頬に触れてきた。
「痛かったよね、ごめん」
「ううん、痛くないよ。……、だって、知ってるでしょ?」
紺色のカーディガンの袖を捲ると、小さな火傷と蚯蚓が這ったような裂傷の痕が、いくつも残されている。日に焼けていない肌は血管が透けるほど白いが、御世辞にも綺麗とは言い難い腕だ。
足にも腹にも、同じような傷痕がいくつも残されている。薄くはなるものの、一生消えない傷痕だった。
今さら、か弱い女性の平手打ちを受けたくらいで、気になるような綺麗な身体ではない。目の前の彼も、そのことを知っているはずだ。
彼は、何も知らずに、この三年間病院に通ってくれたわけではない。そのことは、先ほどの女性の言葉で確認できた。
やはり、彼は――、
あの時の当事者の一人なのだ。
「さっきの女の人、知り合いなの?」
黙り込んだ彼に、わたしは無理して平気な顔を装う。
わたしの知らない彼を、あの女性は知っている。そう思った時、どうしようもない嫉妬の焔が胸の中で燃え上がったが、それを顔に出すことはできなかった。
「……、三年前まで付き合っていた彼女だよ」
彼の苦い表情から、何かを隠していることは明白だった。単に付き合っていただけの彼女ならば、彼はあそこまで動揺しなかったはずだ。
「結婚の約束でも、していた?」
わたしの言葉に、彼が目を見張る。
仇を見つめるような視線と平手打ちに、女性の言葉を繋ぎ合わせれば想像することは難しくない。彼女は、わたしのせいで、自分たちの未来が狂ったと言ったのだから。
「良いの? お姉さんの傍にいなくて。わたしのことなんて、置いて行って良いのに」
卑怯だと知りながら、わたしは如何にも健気な子どものように、彼を見上げる。
――優しい彼が、歩くことも儘ならないわたしを置いて行くことはないと、知っているからこその台詞だった。
「もう終わったことだから、良いんだ」
彼は困ったように笑って、わたしの身体を再び抱きあげた。
やはり、彼はわたしを見捨てることができない。記憶に残る凄惨な事故が、わたしを見捨てることを阻むのだ。
「良くないよ。――お姉さんにとっては、少なくとも終わってないから」
「……君が、気にすることじゃないよ」
わたしは首を横に振った。むしろ、わたしが気にしなくて誰が気にすると言うのだ。
「お姉さんはね、わたしと違って幸せになりたかったんだよ。貴方の隣で貴方と一緒に」
それこそ、人魚姫に出てきた隣国の御姫様のように、彼女は彼と将来を誓い合いたかったのだ。
あの時が訪れるまでは、彼女は彼との未来を夢見て、幸せの絶頂を味わっていたはずだ。その未来を壊してしまった原因の一端を、わたしが担っていることは間違いない。
「君は、幸せになりたくないの?」
わたしはゆっくりと瞬きをして、しばらく考えた。
「幸せって泡みたいなの。捉まえたと思ったら、すぐに消えちゃう」
いつか幸せになるのだと、あのお姉さんのように夢見たことはある。憧れて焦がれていたことは、否定できない。
幸せそうな子どもたちが、羨ましくなかったと言えば嘘になるのだ。
両親に愛されて、たくさんの素敵な物を与えられて、笑っている子たちが憎くなかったとは言わない。
わたしは、人並みに愛情に飢えた子どもだった。親から虐待を受けていたことを除けば、絵本と空想が好きなだけの普通の女の子だった。
だから、かつてのわたしは人並みの幸福を望んでいたのかもしれない。
幸福が、手にしても瞬く間に消えるものだと知らなかったから、渇望していたのだろう。
「すぐに消えるものなんて要らない。ずっと、……、ずっと、消えないものが欲しい」
あの日は、天にも昇るような気持ちだった。
パパとママが、いつもと違って優しくて、わたしを愛してくれたから。それが偽りのものだとも気付かずに、ただ、これ以上傷つかなくても良いのだと喜んだ。
これからは、三人で笑い合って暮らせるのだと信じた。
――、でも、幸せは海の泡となり、わたしは独りきりで目を覚ました。
わたしは、斜めがけのポシェットから一冊の絵本を取り出す。擦り切れるほど読んで、いつも手元に置いていた人魚姫の絵本。
「人魚姫の絵本が好きなのは、パパとママがくれたものだからなの。凄く嬉しくて、何百回も読んで、原典の小説にも手を出した。……他にもたくさんの本を読んだけど、人魚姫だけは特別だったの」
煩い娘を黙らせるために買い与えられたものだと知っていても、たった二人の肉親から与えられた絵本は、わたしの宝物だった。決して手放すことのできない、心の支えだった。
「でもね、いつの間にか苦しくなったの。人魚姫が、羨ましくなったの。……、わたしも、泡になりたい」
幸せな人たちは、人魚姫は不幸にも死んでいったと思うのかもしれない。
だが、この物語の中で、人魚姫ほど幸福な者はいないと思う。大切な人にすべてを捧げて、自分は満たされたままに死ぬことができた。
遺された者たちは死ぬまで後悔に苛まれるが、死んだ人魚姫はただ一つの愛に殉じて終わりを迎えられるのだ。
それを幸福と呼ばずに、なんと呼ぶのだろうか。
――ずっと消えないものなんて、手に入らない。
だから、このまま泡となって消えてしまいたい。