心中は泡沫の夜に

07 心中は泡沫の夜に

 海に辿りついた時には、既に世界は夜闇に包まれていた。
 夜の浜辺には人影一つ見当たらず、穏やかな波音だけが響き渡っている。
 青白い満月に照らされた浜辺の砂の白さは透けるようで、満天の星の光を浴びた海面は宝石のように煌めいていた。
「……、綺麗」
 わたしは、目の前に広がる光景に思わず息を呑んだ。
 絵本の中に夢見た真昼の海ではないが、夜の海は今まで見てきたどんな景色よりも美しかった。
「もっと、近寄りたい」
 青年は小さく頷いて、わたしを抱えたまま海の傍へと近寄った。そうして、彼は服が濡れるのも厭わないで、ゆっくりと浅瀬を歩き出す。
 夜の空気には、彼から香る甘い果実の匂いと共に潮の香りが溶け込んでいた。
「ねえ、王子様」
 ふざけたように彼を呼ぶと、彼は優しい面差しでわたしを見た。
「どうしたの、人魚姫」
 彼は小さく笑って、わたしの身体を抱き直す。
 互いの視線が交わり絡まった瞬間、わたしの迷いは消えていた。
「ずっと、聞きたかったことがあるの」
 今ならば、勇気を出して問いかけることができる。心穏やかに、向き合うことができると思った。
「どうして、優しくしてくれたの? ――わたしに対する罪悪感・・・なら、そんなの、感じなくて良かったのに」
 わたしの言葉に、彼は小さく目を見張った。
 茫然と立ち尽くしてしまった彼を余所に、浅瀬に返す波が彼の足もとを濡らしている。
あの時・・・、パパとママはね、初めから事故を起こすつもりだったんだよ」
 ゆっくりと走る対向車に向けて、パパがハンドルを切った瞬間を、今でも鮮明に思い出すことができる。
 ――パパもママも、とても幸せそうに笑っていた。
 自尊心が強くて、どんなに落ちぶれても自分たちを惨めだと思いたくなかった両親は、世間に心中と思われるよりも事故として扱われることを望んだ。傍迷惑な彼らは、自分たちの幸せだけを優先して、関係のない善良な青年を巻き込んだのだ。
 青年が海まで電車で向かうことを選んだのは、わたしの足が車の事故で動かなくなったことを知っていたからだ。
 そして、彼自身、車を運転することが恐ろしかったのだろう。二人もの人間が亡くなった事故に巻き込まれてしまった彼が、もう一度ハンドルを握る勇気が持てないのは当然だ。
 彼自身が、あの時《・・・》の当事者の一人ならば、彼の行動のすべてが頷ける。
「可哀そうな被害者は、わたしじゃなくて貴方だよ。貴方は、身勝手な家族の心中劇に巻き込まれただけの善良な青年」
 歌うように囁けば、明らかに動揺した彼の様子が手に取るように分かった。
「辛かったよね。自分の車と事故を起こしたことで二人も死んで、……遺された娘は重傷を負って満足に歩けなくなった。罪悪感で、いっぱいだったよね」
 青年の頬に手を伸ばすと、彼の大きな瞳から涙が零れ落ちた。その涙を指で掬って口元に運ぶと、塩辛くて何処か甘い味がした。
 静かに涙する彼を見て、わたしは微笑む。
「もう、自由になって良いの。貴方は、貴方の人生を生きて……、わたしは貴方のことを憎んだりしないから」
 憎むはずがなかった。むしろ、感謝しているのだ。
「ありがとう。わたしを助けてくれて」
 彼は、わたしの足を奪った代わりに、冷たく苦しい深海から、わたしを救いあげてくれた魔女。そして、わたしを精一杯慈しんでくれた王子様でもある。それが、罪悪感や同情に依るものだったとしても、わたしはとても嬉しかった。
 寂しくて飢えた子どもを抱きしめて、拙い愛情を注いでくれたのは彼だけだった。
「……っ、救えなかったん、だ。君の、両親を」
「……、うん」
「海に飛び込んで、凹んだ扉の隙間から君の小さな身体を引き上げた。足が変な方向に曲がっていて、……呼吸も浅くて、今にも死にそうだった」
 気絶していたわたしは、助け出してくれた青年の顔など、もちろん憶えていなかった。あの日の新聞記事を看護師さんから貰って、わたしたちの車と事故を起こした青年が、助け出してくれたことを知ったのだ。
 それが、毎週土曜日に見舞いに来てくれる青年だと気付くのに、時間はかからなかった。
「病院で、……君に身寄りがないことや、虐待を受けていたことを知って思ったんだ。俺が、どうにかしないとって」
 当時二十五歳だった青年は、可哀そうなわたしを守らなければならない義務感に駆られたのだろう。毎月支払われていた入院代の出所も、新生活を送るために根回ししてくれた人も、これで確信が持てた。
「そんなの、良かったのに。わたしは、貴方がいたから寂しくなかった。……、貴方に救われたのに」
 冷たい水の中から、痛みと苦しみしかない深海から、自分の命を賭してまでわたしを救い出してくれた。
 この世の醜さしか知らない少女に、太陽に照らされた温かな世界を見せてくれた。
 それだけで、もう十分だった。
「ねえ、泣かないで。わたしを海に沈めて、もう一度、貴方は自由になるの」
 だから、この手を離して、わたしを再び海に沈めてほしい。
 縛りつけてしまった三年間の月日の償いには足りないけれども、重い枷を失くして彼の自由を祈りたい。
 それだけが、何も持たないわたしにできる精一杯の恩返しだった。
「……、できない。君一人置いて、生きてなんていけない」
「わたしの願いは、泡になることだよ。叶えてくれないの?」
 彼の優しさにつけ込む卑怯な言い方と知りながら、わたしは口にする。
 だが、彼は頷いてくれなかった。
「最初は罪悪感と同情だった。……だけど、違うんだ。途中から、俺は君の笑顔が見たくて、君が大切で病院に通った」
 わたしの髪につけられた真珠の髪飾りに触れて、彼は震える唇を開く。
「君が泡になりたかったのは、俺を自由にしたかったから? 君も俺の幸せを祈ってくれたと、思ってもいい?」
 決して逃さぬようにまっすぐに、彼はわたしを見つめていた。その瞳には怯えた少女の姿が映っている。
 頭の中が真っ白に染まり、わたしは強く拳を握りしめた。
「……っ、そんなこと、どうだって、良いでしょ。わたしは、もう、死ぬの。ここで泡になるの」
 貴方の幸せなど願っていないと、口にできれば良かった。そうすれば、我儘で醜い子どもとして、彼はわたしを海に沈めてくれるだろう。
 それなのに、この想いを否定することが、どうしてもできなかった。
「君の未来が、幸せで在るように。――そう願っていたのは、俺だけではなかったんだね」
 確信を持って囁かれた瞬間、零れ落ちそうな涙を堪えて、わたしは精一杯首を横に振った。
「違う、違うのっ……!」
 否定すればするほど、すべて見透かされているようで怖かった。
 彼の胸を強く腕で押して、わたしは無理やり後ろへと体重をかける。傾く身体に彼が焦ったように目を見開いた瞬間、わたしの身体は背中から海へと落ちた。
 冷たい海面に叩きつけられて沈む最中、目に飛び込んできたのは果てのない暗闇だった。
 夜の海は、ほんの少しの光さえも届かない。
 一筋の希望すら夢のように遠くて、痛みと苦しみだけが君臨する、あの頃の現実と何一つ変わらなかった。
 息を止めて、わたしは相応しい場所へと還るのだ。

 だが、――沈むわたしの身体を力強い腕が抱きあげた。

 闇に包まれていた視界に、淡い光が飛び込んでくる。
 急に入り込んできた空気に咳き込むわたしを、彼は浅瀬に降ろした。
 ずぶ濡れになった金色の髪が額や頬に張り付いて、寄せては返す波が胸元で揺れていた。
 月明かりに照らされた彼の肌は青白く、珠のような水滴が鎖骨をなぞって落ちる。
 ――彼は、今にも泣きそうな顔で唇を噛みしめていた。
 浅瀬に座り込むわたしに覆いかぶさるように、彼がわたしを抱きしめる。背中にまわされた腕の力は縋りつくように必死で、伝わる温もりは海水に濡れてもなお、焼けるように熱かった。
「どう、して……?」
 穏やかな波音だけが響く中、身体の震えが止まらなかった。
「泡に、なるって、言ったのに」
 背に回された腕が緩んで、闇を孕んだ黒い目が責めるようにわたしを見つめていた。
 どうして、そんな目でわたしを見るの。
 見捨てられないのは、――わたしが、可哀そうだからでしょ?
「なんで死なせてくれないの。……っ、見て見ぬふりができないなら、一緒に死んでよ!」
 何処にも行けなくて、何も持たない子どもだったから、彼はわたしを愛しんでくれた。
 初めは、何の不満もなかった。何も知らなかったから、同情でも憐れみでも、愛してくれるならばそれで良かったのだ。
 それなのに、時が経つにつれて、わたしは我儘になってしまった。同情でも憐れみでもなく、たった一人のわたしとして愛して欲しいと願ってしまった。
「心中して。……できないのなら、ここで海に置き去りにして」
 虐待を受けていて無知だった女の子でも、事故で歩けなくなった可哀そうな女の子でもなく、――十六歳の、貴方に恋する一人の女の子として見てもらいたかった。
 何も持っていないのに、彼の特別な人になりたいと望んでしまった。
「できないんでしょ? なら、わたしの好きにさせてよっ……!」
 彼がわたしと一緒に死んでくれるはずがないからこその、言葉だった。金銭的にも、精神的にも肉体的にも、すべてにおいて彼の負担にしかならない小娘を彼が選んでくれる理由はない。
 わたしは、彼に何も与えられないのだ。
「死なせない。生きるんだ、死ぬなんて間違ってる」
 それは、吐き気がするほどの正論だった。
「もう、そんなこと言っても遅いの!」
 堪えていた涙が、堰を切ったように流れ出して止まらなかった。
 今さら、優しい言葉なんて与えられても、どうすれば良いのか分からない。
 ――、もっと早く、彼に出逢いたかった。
「ねえ……、こんな状態で、どうやって生きていくの? 何もかも足りない小娘が、どうやって生きていけば良いの?」
 動かなくなった足を抱えて、わたしは何処にも行けない。
 庇護してくれる人も、独りで生きていくだけの力も、わたしには最早残されていないのだ。
 甘えと謗《そし》られても良い。謗る人間は、周りに支えてくれる人々がいるからこそ、誰かを謗ることができるのだ。
「独りじゃ、もう、生きていけない」
 ――貴方がいない世界で、再び独りきりで生きていくことなんてできない。
 刻一刻と迫る退院の日が、恐ろしくて堪らなかった。病院の外で始まる生活の準備をする度に、身体の震えが止まらなかった。何もかも、受け入れることができなかった。
 独りでなんて、生きていけるはずがない。
 これから始まる苦悩を耐え抜いてまで、孤独のまま命を繋ぐ日々なんて要らなかった。何処にも行けないわたしに、幼い頃に望んだ幸せな未来なんて訪れるはずがない。
 一度手にした、彼が与えてくれた温かな世界を捨ててまで、もう一度独りで生きる勇気を持てない。
「泡になって、消えてしまいたい。大好きな貴方に看取られて、死にたかったっ……!」
 望んだのは、永遠に消えない絆。パパよりもママよりも、誰よりもわたしだけを愛して守ってくれる人。
 わたしのことだけを想い、わたしに幸せな魂を分けてくれる人だった。
「同情でも嬉しかった。いつだって、土曜日が楽しみで仕方なかったの。だけど、それも、もう終わりだから!」
 退院してしまったわたしは、彼に会えない。この三年間、病院に見舞いに来てくれたことだけでも、十分過ぎることだった。白い箱庭を出たわたしに会いに来る義理なんて、彼にはないのだ。
「同情だけだったら、どんなに良かったか」
 喉の奥から絞り出すように、彼は掠れた声で呟いた。
「俺は酷い男なんだよ? 同情だけで三年間も会い続けたりしない。直接会わなくたって、君を援助することはできるだろ」
 わたしの頬を、彼の右手が包み込む。
「ねえ、憶えているかな。あの事故から目覚めた時、君は俺に笑いかけたんだ。とても幸せそうに、……笑ったんだ」
 零れ落ちる涙を掬うように、彼はわたしの眦に口づける。薄い唇が眦に押し当てられて、彼の熱が肌に滲んだ。
「いくら過失がないと言われても、俺は君の両親の命を奪った。そのことが辛くて苦しくて、逃げ出したくて堪らなかった時……、君が、笑った」
 それは、彼と初めて会った日のことだろうか。
 パパと同じ男の人が、ベッドの横に座って、恐る恐るわたしに手を伸ばした。手術を終えたばかりで麻酔が効いていたため、意識ははっきりとしていなかったが、泣きそうな声で初めましてと言った彼を憶えている。
「この子だけは、幸せにしてあげたいと思った。会いに行く度に、嬉しそうな笑顔を見せてくれるようになって、愛おしかった」
 彼は黒めがちの大きな瞳を細める。わたしの大好きな、あの柔らかな笑顔だった。
「俺が傍にいるよ。独りになんてさせない。……っ、君に見せてあげたい世界が、君と見たい世界が、たくさんあるんだ」
 眦に触れていた唇が、瞼に、頬に、鼻の頭に触れる。
 そうして、最後に唇に落とされた口づけに、わたしは息を止めた。塩辛い海の味がする接吻に、わたしの視界は霞んでいく。
 甘い果実の香りが、何もかも包み込む。
「俺と一緒に、生きてくれませんか?」
 一瞬とも、永遠ともつかない口づけの後で、彼が震える唇で告げる。
 身体の奥底から湧き上がるような喜びを抱きしめて、わたしはゆっくりと瞬きをする。
 ――彼の囁きは、きっと、泡沫うたかたの夢を壊すもの。
 彼と共に生きることは、多くの苦悩を伴うだろう。白い箱庭の外の世界は、わたしに優しくできていない。
 美しいだけの世界は、広がっていない。
 それでも、わたしは願ってしまった。
「いつか……、泡になる日まで、ずっと一緒にいてくれる?」
 大きく頷いて、もう一度、彼が微笑んだ。
 ――泡沫の夢を見た夜の、心中は失敗。
 愛に殉じて死した人魚姫のように、わたしはなれない。
 青白い月が、夜闇に淡い光の道を作り出す。絡めた指先は、結婚するはずだった隣国の御姫様ではなく、何もかも足りないわたしを選んでくれた王子様に繋がっていた。

 彼の胸に頬を擦り寄せて、わたしは一粒の真珠のような涙を零した。