1.白い翼の天使
教室の窓から見える景色は、一面、白く染まっていた。
外では雪が降り続いており、この頃の気温は寒いというより痛い。古びた校舎は外気の影響を受けて、暖房をつけてもなお底冷えしていた。
「
陽菜。具合悪いの?」
席に座っている陽菜の肩を叩いたのは、友人である
真由子だった。
「ううん、寒いだけ」
「今日はあったかい方だと思うけど。陽菜、ちっちゃいんだから無理しないでね。この前だって一年生と間違えられていたし」
「寒がりと身長が低いのは関係ないもの。冬は苦手なのよ、怖いことを思い出すから」
「……そっか。寒いなら寮に戻る? あったかいお茶でも
淹れてもらおうよ。寮母さん、シスターから
美味しいお茶を
貰ったんだって」
真由子の視線は、黒いタイツに隠された陽菜の足に向けられていた。寒くなると古傷が痛む陽菜を、心配してくれているのだ。
「でも、今日はまだ教会に行っていないから……」
「陽菜先輩! いらっしゃいますか?」
陽菜と真由子しかいない教室に、元気な声が響いた。
「また合唱部の子たち? 呼んでいるけど、どうするの」
真由子が指差した先には、数人の少女たちがいる。まだ一年も着ていないセーラー服はくたびれておらず、スカートの
襞も綺麗なままだ。羽織っている白いカーディガンは、成長を期待してか、ずいぶん大きいサイズのようだった。
陽菜にもあのように
初々しい時代があったはずなのだが、高校生活も三年目になると、もう思い出すことも難しい。
「最近、ずっと来ているよね。やっぱり合唱部の勧誘?」
「真由子と同じで、わたしもあと三カ月もすれば卒業よ。いまさら部活になんて入ってどうするの。練習に出てほしい、ってお誘い」
話しているうちに、少女たちが教室に入ってくる。
「今日こそ練習に参加してください」
「誘ってくれるのは嬉しいけれど、部外者が参加するのはおかしいと思うの」
この高校に入学してから三年になるが、一度も部活動に参加したことはない。合唱部にいたっては音楽室の前を通るのも避けていた。
「でも、陽菜先輩は進学しないんでしょ? 入試がないなら、冬休みの練習くらい付き合ってくれてもいいじゃないですか。歌ってくれるだけでも勉強になりますから。先輩、大きいコンクールでも入賞していたんでしょ? うわさになっていましたよ」
「何年前のこと? もう歌うのは
止めたから」
陽菜は苦笑する。
無下にするのは可哀そうだが、彼女たちの要望に
応えることはできない。
「ええと、陽菜も断っているしさ。今日は戻りなって。遅くなると先輩たちに怒られるよ」
見かねた真由子が助け舟を出してくれた。合唱部の子たちは、腕時計を見て青ざめる。
「また明日も来ますから!」
慌ただしく去っていく少女たちに、陽菜は溜息をついた。
「こら、溜息つかないの。幸せが逃げちゃう」
「もう逃げているからいいの」
「陽菜。嫌なものは嫌って言いなよ? 優しいのはいいけれど、そんなんじゃ損する。……まあ、あの子たちの気持ちも分かるけどね。陽菜の歌、すっごく綺麗だったもん。聴いているとね、どんなに具合が悪くても元気になったの。魔法みたいだった」
「魔法って。おおげさね」
「おおげさじゃないよ! 本当だって!」
付き合っていられない、と陽菜は立ちあがって、スクールバッグに荷物を詰める。荷物と言っても、大学受験とは無縁の鞄はほとんど
空だった。椅子にかけていた白いダッフルコートを羽織ったとき、
突如、真由子が手を伸ばしてくる。
「待って、帰らないで!」
頭に何かを
載せられる。真由子は胸ポケットから手鏡を取り出して、陽菜に向けた。
肩口で切り
揃えた黒髪に、
椿の花のピンが
挿されている。赤く熟れた椿は、陽菜が最も好きな花だった。小学校からの付き合いである真由子は、その理由も知っている。
「誕生日おめでとう。みんなからプレゼント」
「そんなの、気を
遣わなくてよかったのに」
家業を手伝う予定の陽菜と違って、級友たちはそれぞれの進路のために忙しくしている。一足先に推薦で大学を決めた真由子とて、課題がたくさん出ていた。
「また可愛くないこと言って。めでたいことなんだから、素直に祝われておくの。やっぱり陽菜の瞳にぴったり。綺麗な金色だから赤が似合うよねって、みんなで話していたの」
真由子はじっと陽菜の瞳を
覗き込んでくる。
「こんな変な色なのに?」
陽菜の瞳は淡い金色をしており、他の子たちのような黒ではない。
「なんでそうやって悪く言うの? 綺麗だよ、すごく。陽菜って、やっぱり異人さんの血が流れているんじゃない?」
「
褒めてくれるのは嬉しいけれど、たぶん日本人」
少なくとも、数代
辿ったところで異国の血は確認できない。そもそも、金色の瞳をしているのは陽菜だけで、家族や親戚は黒い目をしている。
「プレゼント、ありがと。大事にするから」
「どういたしまして。ほら、教会に行くなら暖かくして。あそこ暖房もないんだから。シスターによろしく」
真由子は自分のマフラーを取り出して、陽菜の首に巻きつけた。赤いチェックのマフラーは、彼女のお気に入りだったはずだ。
「門限までに戻るから」
ひとり玄関に向かいながら、陽菜は頭に手を伸ばした。
全寮制である陽菜の高校は、外出に関しては厳しい制約がある。椿のピンひとつ買うためにも、いろいろと苦労したことは察せられた。
そんな苦労をしても、真由子たちは陽菜の誕生日を祝ってくれた。自分は友人にも周囲の人々にも恵まれた。穏やかに流れていく日常に、確かな幸福を感じている。
しかし、その幸せを
享受する資格が、陽菜にあるのだろうか。
「寒い」
下駄箱で黒いロングブーツに
履き替える。外に出れば、大粒の雪が降っており、校庭には一メートル近く積もっていた。
校舎の裏手にまわると、こぢんまりした木造の教会が見えてくる。
この教会は、高校の敷地内にありながらも、半ば独立した施設でもある。授業の一環として生徒たちが訪れるだけでなく、近くの病院から患者を受け入れることもあった。
「こんにちは、シスター。手伝いましょうか?」
教会の前で雪かきをしていたのは、姿勢のいい老婦人だ。何十年も前から教会を管理しているこの女性を、生徒たちはシスターと呼ぶ。
彼女一人が管理するこの場所を、教会と呼ぶべきか迷うときがある。昔はともかく、今となっては典礼が
執り行われることもないのだ。
だが、ここを祈りの場として求める人がいることは否定できず、皆が教会と呼び続けた。
「年寄りあつかいしないでくださいな、これくらい一人でやります。今日もお祈りかしら?」
「はい。なかに入っても?」
「構いませんよ。でも、長居は禁止ですからね。この寒いなか生徒を放っておいたなんて、先生たちにも親御さんにも顔向けできませんもの」
「気をつけます、シスターが怒られないように」
陽菜は笑って、教会の扉を開いた。
ステンドグラスが
嵌められた高窓から、柔らかな光が
零れている。光が降り注ぐのは、教会の奥にある半円状に張り出した部分だった。
飾られているのは、翼の生えた少女の像である。白い翼を左右に広げた彼女は、教会のいちばん奥から陽菜を見下ろしていた。
(天使様)
陽菜は目を閉じて、祈るように歌いはじめた。
合唱部の少女たちや真由子には、もう歌わないと話しているが、実際は違う。教会にある天使像の前で歌うことが、三年間変わらない陽菜の日課だった。
「綺麗な歌ですね、あいかわらず。亡くなったお兄様も喜んでいるでしょう」
雪かきを終えたシスターが、いつのまにか隣に立っていた。白髪を結わえた老婦人は、優しいしわの刻まれた頰を
緩める。
「どうでしょうね。兄のために歌っているわけではありませんから」
「では、誰のために?」
「……天使様のために。兄さんは天使様が大好きだったから」
もう誰のためにも歌うことはできない。まして、この歌のせいで死んでしまった兄のために歌うことなど、きっと
赦されはしない。
故に、陽菜は教会を訪れた。兄のために歌えないならば、せめて彼が信じた天使のために歌おうと決めた。そうすることで、天使が死んだ兄を幸せにしてくれることを祈った。
「あれは不幸な事故でした」
シスターのまなざしは陽菜の足に向けられていた。黒いタイツに
覆われた左足には、消えることのない
傷痕が刻まれている。
目を
瞑れば、よみがえる。あの日の光景が
瞼の裏に焼きついていた。
四年前、十二月にしては珍しく、記録的な大雪となった日のことだ。朝から路面は凍結し、
吹雪のせいで視界は最悪だった。
四つ年上の兄と並んで、陽菜は冬の歩道を歩いていた。
前触れもなく、
甲高いブレーキ音が鼓膜を揺らす。大きな鉄の
塊が眼前に迫ったとき、時間の流れがひどく遅くなったことを憶えている。
動けない陽菜を突き飛ばしたのは、困ったように笑う兄だった。
そうして、兄はスリップした乗用車に
撥ね飛ばされた。あとで知ったが、冬用のタイヤに交換するのを
怠り、滑りやすいノーマルタイヤのまま走っていたのだという。
車体を避けきれず、巻き込まれた左足が痛んだ。悲鳴すらあげることのできない激痛だった。それでも、陽菜は両手で
這いずるようにして、路上に倒れる兄のもとへ向かった。
『ひ、な』
兄は陽菜の名を呼びながら、手を伸ばしていた。
意識が
朦朧としているのだろう。もう、何も考えられないのかもしれない。だが、陽菜には兄が何を望んでいるのか分かってしまった。
歌ってほしい、と彼は笑っていた。死にゆく兄の身体にすがりついて、陽菜は震える声で歌い続けた。
兄が安らかに眠れるように、かつて彼が歌ってくれた子守唄を。
「陽菜さん!」
シスターに肩を揺さぶられて、陽菜は我に返った。
「あ、わたし……」
陽菜は唇を引き結ぶ。心臓が早鐘を打って、
額に汗が
滲んでいた。足の古傷が痛んでは、熱を持っているような錯覚がする。
「あなたのお兄様は、いつも可愛い妹のことを自慢していました。あなたが
哀しい顔をすることを望んでいたわけではありません。陽菜さんが生きてくれることを、あの子は願っていたのです」
シスターの言葉は正しい。だが、陽菜にはとても受け入れることができない。
「わたしのせいです。わたしが
我儘を言わなければ、きっと」
四年前のあの日、朝から冬道を歩いたのは、歌のコンクールに出場するためだった。
もう名前も思い出したくない大会だ。一人で会場に向かうことには慣れていたというのに、兄に着いてきてほしいとねだった。冬休みで寮から帰省していた彼は、歌を聴いてほしい、という妹の我儘に付き合ってくれただけだ。
あのとき一人で向かっていたならば、未来は変わっていた。
兄が死んでから、ずっと心に
虚が
空いている。
両親に無理を言って、引き留める姉たちを説得して、兄と同じ高校に進学した。優しい彼らは、最終的には陽菜の想いを
汲んでくれた。本来であれば無事に卒業していた兄のことが、頭を
過ぎったのかもしれない。
高校生活は充実していた。三年間、周囲にも恵まれた。
だが、それらはすべて兄が経験するはずの幸せだった。
「シスター、わたし卒業しちゃいます。兄さんは卒業できなかったのに。こんなに幸せなのは間違っている。赦されるわけない」
「誰か、あなたを責めましたか?」
「いいえ!」
誰一人として、兄の死を陽菜の責任とは言わなかった。
だが、陽菜は責めてほしかったのだ。誰かが責めてくれたならば、罪悪感が薄れて楽になれると思った。そんなずるい気持ちを持っている陽菜に、周囲はあまりにも優しすぎた。
「誰もあなたを責めないのに、あなたは自分を責めるのですね。……あのね、あなたの言う天使様の像、お兄様が教会に持ってきたものなんですよ。天使伝説は知っているでしょう? この地に伝わる」
シスターは翼の生えた少女像を指差した。
「白い翼をした、
鷹の? 雪を晴らして、
流行り
病を治したんですよね」
生前の兄から、耳に
胼胝ができるほど聞かされた物語だ。
険しい
山間にあるこの地域は、古くから雪害に悩まされてきた。
遠い昔の、とある冬のことだ。この地は降り止まない雪に襲われたことがある。晴れ間はなく、ひたすら雪が積もり、人々はたちまち孤立した。
雪に埋もれゆく土地では、逃げ場もないというのに、やがて病が流行りはじめる。次々と人々が死に絶えて、この地は滅びる寸前まで追い込まれた。
誰もが死を覚悟し、神に祈ったときのことだった。
白い翼をした鷹が、燃え盛る炎を
纏いながら舞い降りたのだという。
自らの炎をもって、鷹は降り止まない雪を溶かした。それだけではない。土地に
蔓延していた病毒までもが、雪が晴れると同時に消えていた。
雪解けを迎えた大地には新たな命が芽生え、病に
冒されていた人々は
治癒した。
「その鷹は天使様だったのです、きっと」
「でも、それって。ここに学校を作るために、天使ってことにしたんですよね。都合がよかったから」
身も
蓋もないことを言えば、シスターは苦笑した。
実際、白い鷹がいわゆる神の
御遣い、人々が信じる天使だったのかは
怪しい。この学校を建てる際に、伝説を利用しただけとも考えられる。
炎を纏う御遣いの話も、
癒しの力を持つ有翼の存在も、さして珍しいものではない。この土地に限らず、天使とはそういった逸話やイメージを持つ場合があった。多少の差異はあれど、同じような逸話や伝説によって信仰されている土地はある。
この地に雪害が多かったことも、病毒が蔓延したことも事実かもしれないが、それが天使によって解決したかなど定かではない。昔話は
御伽噺。後世に伝わっている物語に、どれだけの真実が含まれているのか、今となっては誰にも分からない。
「お兄様はそんな天使伝説が好きでしたよ。よく顔を出していましたから」
「知っています。入院しているときの兄さん、いつもその話だったから」
この教会は、近くの病院から患者を受け入れるときがある。幼い頃に大病を
患っていた兄は、その常連であり、シスターとは長い付き合いだった。
「それほど天使様が好きだったから、あの像を持ってきたのでしょうね」
「あんな像、
何処で買ってきたんでしょうか?」
「拾ったんですよ、教会の裏にある
涸れ井戸から。危ないから数年前に
塞いでしまったのだけど、そのときみんなで掃除をしたのです。井戸の底から出てきたのが、あの像でした」
「そもそも、本当に天使像なんですか」
陽菜も《天使様》と呼んでいるが、本当に天使の像だと思っているわけではない。
「さあ? あなたのお兄様は天使様と言ったけれど。でも、あの衣装を見ればねえ」
少女像に彫られた衣装は、首周りだけ露出した長袖ブラウスに、
太腿から
脹脛にかけて
膨らんだ下衣である。
「天使様っていうより、
千夜一夜物語みたい。普通、あんな目立つ場所に飾りますか? 天使様じゃないかもしれないのに」
明らかに異教の像ではなく、もっと他に飾るべきものがあるだろう。
「あなたのお兄様が言ったのよ。独りは
寂しいから、たくさんの人の目に触れる場所に、と。……きっと、あなたにも同じことを言うはずよ。優しい子だもの。ねえ、陽菜さん。自分から独りになろうとしてはいけませんよ。幸せだと笑ってくれたほうが、お兄様は喜びます」
陽菜は唇を嚙んで、
溢れそうになる涙を
堪えた。
シスターの言うとおり、兄は陽菜が幸せでいることを怒ったりしない。よかったね、と頭を撫でてくれる。そういう人だった。穏やかで優しくて、大好きな兄だった。
そう信じていたいが、心の何処かで疑ってしまう。
四年前から、いつまでたっても前に進めずにいる。
今日、陽菜は十八歳になった。兄の
享年と同じ歳になってしまった。この先の未来について考えることが、どうしてもできなかった。
奪ってしまった兄の未来、途絶えてしまった彼の年齢を超えることが恐ろしかった。
空は
茜色に染まりゆく。雪は止んでいたが、いまだ
凍てつく風が吹いていた。
シスターと別れた陽菜は、寮に帰るのではなく、教会の裏にいた。兄が天使像を拾ったという涸れ井戸が気になったのだ。
半ば雪に埋もれた井戸に近寄って、ふと違和感を覚える。何枚もの木の板で塞がれている井戸の底から、こぽり、こぽり、と水の音がする。
「雨や雪が、
染み込んだの?」
涸れ井戸だったと聞くが、蓋をしている木の板に雨や雪が染み込んで、底に水が溜まっていても不思議ではない。
しかし、それにしてはあまりにも水音が大きかった。
まるで、大量の水がたゆたっているような――。
思い切って、陽菜は木の板を蹴りあげた。つま先に痛みが走ったが、繰り返し蹴りつけると、井戸を塞いでいた板が一枚、二枚とはがれていく。
井戸を覗きこめば、広がっていたのは暗闇ではなかった。
「え?」
薄明かりの差す空間に、巨大な砂時計があった。奇妙なことに、なかを満たしているのは砂ではなく水で、閉じ込められていたのは
褐色の肌をした少女だった。
「天使、様?」
その顔は、教会にある天使像と
瓜二つだった。
剝き出しの背中には白い羽根があり、水泡を纏ってきらきらと輝いている。
だが、陽菜が何よりも気になったのは、彼女が抱きしめている
片方だけの白い翼だった。
彼女自身の翼は欠けていない。つまり、あれは彼女の翼ではない。まるで他の天使からむしり取ったような翼は、片翼であるが故に痛々しい。
閉じていた少女の瞼が開く。彼女は
愛しくて堪らないという表情で、陽菜を見つめる。
――呪いを解いて、どうか。
少女の声が
脳髄を揺らしたとき、陽菜は手を伸ばしていた。無意識のことだった。
だが、手を伸ばしたことで、前のめりになってしまう。踏み
止まろうとするが、積もった雪でブーツが滑った。
浮遊感に襲われて、井戸に身体が吸い込まれていく。痛みと衝撃を覚悟して、陽菜はかたく両目を瞑った。
教会の裏には、凍てた風が吹いている。
誰にも気づかれることのないまま、陽菜は生まれ育った世界から姿を消した。