はじまり
魔界の夜に君臨するのは、
煌々と輝く月である。
地図なき魔界では、数えきれないほどの国が滅びては生まれゆく。大地はいともたやすく塗り替えられ、各国の魔王たちは
戯れのように
余所の領土を滅ぼしては奪い合った。
魔界に存在する
数多の国々で、この《砂漠》ほど月が
映える国はないだろう。
不毛な砂の大地に生まれた魔族は、身も心も
凍えるような闇夜を恐れている。
故に、砂漠の魔族は、道しるべのように輝く月を創造主たる神のごとく
崇めるのだ。
――だが、夜に君臨する月が、いつだって憎くて
堪らなかった。
月光に照らされた
小路を、《砂漠》の魔王カマルは歩く。
ひとつ残らず明かりの消えた
街には、
砂埃を含んだ風が吹いていた。
背中が引きつれたように痛んで、とうに
塞がったはずの古傷が
疼く。
忌々しい過去がよみがえる。記憶のなかで、カマルは血に濡れていた。砂の大地に
堕ちたカマルを見下ろして、
狡猾な蛇が
嗤っている。翼に
穿たれた牙の鋭さ、
滲んだ毒の香りがまざまざと思い出されて、
酷くめまいがする。
「うるさい」
つぶやいて、カマルは自らの背中に触れた。背から生えた白い翼は、本来ならば左右に広がるものだったが、いまは左翼しか存在しない。
失われたはずの翼が痛む。いつまでも、片翼を失った夜に
囚われている。
こんなのは自分ではない。《砂漠》の魔王が、古傷の痛みに
怯えて、眠ることのできない弱い魔族であるはずがない。
(翼がほしい。もう一度、夜明けを目指すための翼が)
祈るように目を伏せたとき、カマルの鼓膜を揺らしたのは弱弱しい旋律だった。
夜風の吹き荒れる小路に、歌声が響いた。鈴を転がしたような声は、優しい子守唄を
紡いでいる。
百年前に
涸れてしまった水路を避けながら、カマルは歌声を頼りに進んでいく。
路地裏に転がっていたのは、傷だらけの娘だった。
すり傷と
青痣だらけの手足は細く、頼りない体格をした少女だ。唇には
紅の代わりに血を滲ませ、肩ほどで切られた黒髪を血と砂で汚していた。
娘の瞳は、太陽を閉じ込めたかのような金色をしていた。
襤褸のように打ち捨てられながらも、彼女は歌っていた。今にも力尽きそうな
風情で、されど歌声だけは
止まない。
娘が
唄うのは異国の歌だった。なにひとつ、カマルには歌詞が理解できなかった。
だが、泣きたくなるようなその歌は
懐かしく、遠い昔に聞いたことがある気がした。同じではない、されど同じように
慈しむ声で、誰かがカマルに歌ってくれた子守唄。
娘の前に
膝をつく。荒い息を吐きながら、彼女はカマルに微笑んだ。
「 」
そうして、娘は力尽きたように目を閉じた。
彼女の口元に
掌をあてれば、まだ息があった。折れそうな身体を抱きあげたとき、血の
匂いに混じったのは、久しく感じることのなかった太陽の匂いだった。
明けない夜に囚われたカマルには、この娘が
陽の光を
纏っているように感じられた。
(あたたかい)
その唇からもう一度、優しい歌を聞かせてほしい。
◆◇◆◇◆
赤星陽菜の意識を繫いでいたのは、息もできないほどの痛みだけだった。
身体のそこかしこが悲鳴をあげている。ふらついて倒れ込んだ
拍子に、石畳に散らばった砂が口に入る。
額が切れたのか、涙は赤い血と混じりながら頰を伝った。
(ここ、
何処?)
ほんの少し前まで、陽菜は高校の敷地内にいたはずだ。
きっと悪い夢を見ている。砂埃の舞う異国の街も、逃げ
惑う陽菜を捕まえようとした
異形の女も悪夢でしかない。目が覚めたら、陽菜は学生寮にいて、いつものように同室の友人たちと朝のお
喋りでもしている。
夢ならば、どうして、こんなにも痛くて苦しいのか。このまま死ぬのだろうか。
――夢であろうとも、死にたくない。死ぬことなど
赦されるはずがない。
気づけば、陽菜は祈るように歌いはじめていた。
(兄、さん)
かつて、大好きな人が歌ってくれた子守唄を。
陽菜が
殺してしまった人が歌ってくれた、忘れ得ぬ歌を。
わたしの可愛い小鳥さん
羽を休めて、この指で
何も持たないわたしでも
あなたの止まり木にはなれるから
わたしの可愛い小鳥さん
目を閉じて、この胸で
何も見えないわたしでも
あなたの
揺籃にはなれるから
わたしの可愛い、月の小鳥
おやすみなさい、良い夢を
あなたを夜明けに連れてゆくから
歌い終えたとき、頭上に影が落ちる。
満月を背にして、男がひとり立っていた。美しい男だった。彫りの深い端正な顔立ちに、月光を溶かし込んだような白髪をしている。
彼の背には、大きな白い翼があった。片方だけの翼は痛々しさを感じると同時、
冒しがたい
神々しさを纏っている。
「天使様?」
陽菜は金色の目を細めて、男に微笑みかけた。