白鷹の花嫁

3.礼拝堂に死者は眠る | 5.呪われた街 | 目次

  4.祈りの歌はがために  

 赤星家あかほしけの長男。陽菜ひなの兄は不思議な人だった。
 どこか浮世離れしていて、子どもとは思えないほど達観していた。両親や歳の離れた姉たちは、草食系どころかかすみでも食べている、と苦笑していたものだ。
「眠れないなら、子守唄でも歌ってあげようか?」
 リビングのソファでまどろんでいた陽菜は、驚いて転がり落ちそうになる。たった今帰ってきたという恰好かっこうで、四つ年上の兄がいた。
「帰ってきたの? 今年は受験だから帰らないって」
 兄の高校は全寮制であり、地元の人間でも例外なく寮に入る。長期休みは実家に戻っていたが、今年の冬休みだけは帰らないと聞いていた。
「年末年始くらいは帰ってきなさいって怒られたんだよ。こんな大雪のときに帰ってこいなんて、ひどいと思わない?」
「三十年ぶりだって。十二月にここまで積もるの」
「だから、あんなに電車が遅延していたんだね。あんまりにも遅れるから、家に帰れないかと思ったよ。起きているの陽菜だけ?」
「うん。明日も仕入れで早いから、みんな寝ちゃった」
「ふうん、陽菜が遅くまで起きているなんて珍しいね。明日のコンクールは余裕かな?」
「緊張しているの! 今年は良い結果を残したいから」
「負けたくない?」
「だって、一番になれたら、意地悪なこと言った人たちも見返せるでしょ? 捨て子なんて言う人も、母さんが浮気したなんて言う人も」
 陽菜は金の瞳を伏せた。生まれつきの金色の目は、家族の誰とも似ていない。実子ではないと疑われるのは悲しいが、まだ我慢できる。嫌なのは、母の不貞を疑われることだった。
「気にしなくていいのに。うちの家系には、たまに陽菜みたいな子が生まれるんだよ。遠い昔のご先祖様は異国人だったのかも」
「昔って、いつの話?」
 少なくとも、家系図で辿たどれる範囲ではないだろう。
「遠い昔は、遠い昔だよ」
 明確にいつの話とは言わず、兄はくすりと笑うだけだった。
「わたし、兄さんたちみたいに黒い目が良かった」
「ばかだね、綺麗なのに。太陽の色だ。お前はきっと太陽みたいに明るくて、誰かを助けてあげられる子になる。天使様みたいな声で、たくさんの人を救ってあげるんだよ」
「……兄さん、もう天使とか信じるのめなよ。学校で変な目で見られない?」
 いくら信仰にもとづいて設立された高校とはいえ、全員が信心深いわけではない。兄のように教会に足を運び、祈りをささげる者はまれだ。
「変な目で見られているかもね。でも、信じるものがあれば人は強くなれるものだから。僕は僕の天使様を信じることで強くなれる。誰かに優しくすることができる。それは素敵なことだろう? 天使様が僕を助けてくれたように、僕もまた誰かを助けてあげられる」
 蛍光灯が兄の青白い顔を照らす。頼りない身体は折れそうなほど細く、同級生よりも一回りも二回りも小さかった。
「兄さんの病気が治ったのと、天使様は関係ないと思うけれど」
 兄は昔から身体が弱く、小さい頃は大病をわずらっていた。地元でいちばん大きな病院に入院しており、調子の良い日は、近所の高校にある教会に通いつめていた。元気になれますように、と天使に祈ったのだという。
 遠い昔、この地は雪に閉ざされて、深刻なやまい流行はやった。人々が死にゆくなか、救いを与えたのは白いたかだ。天から舞い降りた鷹は、その身にまとった炎で雪を溶かし、蔓延まんえんする病毒をいやしたと伝えられている。
 天使とも重ねられたその鷹は、雪害の守り神であり、病毒を癒す存在として信仰された。
「僕は信じているよ。僕を治してくれたのは天使様だと。陽菜の歌にも、天使様と同じ力があると思っている。陽菜の歌を聴いていると、元気が出て、優しい気持ちになれるんだ」
「なら、明日は会場で聴いてくれる?」
 コンクール会場まで一緒に来てほしいと言えば、兄はうなずいた。
「もちろん。可愛い妹の晴れ舞台だからね」
 微笑んだ兄を思い出すと、胸の奥が締めつけられる。
 変わった人だった。しかし、陽菜が知る誰よりも優しい人だった。家族はそんな兄を困ったように、されどいとおしむように見守っていた。
 ――天使が兄を救ったならば、どうして兄は死んでしまったのか。
 病を克服して、彼は明るい未来に向かっていた。誰よりも幸せになれたはずだった。
 あのとき陽菜が我儘わがままを言わなければ、兄の道は続いていた。雪道で車にねられて、短い生涯を終えることはなかった。
 ただ歌を聴いてほしかった。たったそれだけの願いが、兄の未来を奪った。
 もう誰かのために歌うことはできない。まして、この歌のせいで死んでしまった人のために歌うことなど、きっとゆるされはしない。
 ゆえに、陽菜は天使のために歌うことにした。兄のために歌えないならば、せめてあの人が信じた天使のために歌おうと決めた。
 そうすれば、きっと天使が亡くなった兄を幸せにしてくれる。
「ごめんね、兄さん」
 こぽり、こぽり、と水泡の音がした。過去におぼれていた陽菜は、ゆっくり目を開ける。
 思い出のなかで笑う兄の代わりに、巨大な砂時計――砂の代わりに水をめたガラスで、裸身の少女がまどろんでいる。
 礼拝堂には淡い光が満ちていた。照らされた少女は、やはり兄が信じた天使と似ている。
「天使様。どうしたらつぐなえるの。どうしたら、うしなわれた命は救われるの」
 慣れ親しんだ日本語が、つたなく白々しく響いた。イトと話す際も、この頃は砂漠の言葉を使っているため、口にするのは久しぶりのことだった。
 砂漠にいると、日本で生きていた十八年間が失われていくようだった。陽菜という存在が塗り替えられて、兄の死さえも遠くなるようで恐ろしかった。
「分かっているの。兄さんは死んだ。死んだ人はこたえてくれない! でも、わたし……」
 過去はくつがえらない。ならば、どうすれば死んでしまった兄を幸せにできるのか。
「こそこそと何をしているのかと思えば。だめですよ、その娘はもう死んでいるんです。あんたの言うとおり死者は応えない」
 はっとして、陽菜は礼拝堂の入り口を見た。
「シャムス」
 砂漠の宰相さいしょうは、乱暴な足取りで歩いてくる。
 その面差おもざしに胸が締めつけられる。片眼鏡モノクルをかけた少年に、兄の面影を重ねてしまう。他人の空似だと分かっていながらも、割り切れない瀬無せなさが込みあげた。
「ひどい女だ。私たちの苦しみも知らずに、幸せそうな顔をして」
 シャムスは砂時計に閉じ込められた少女をにらみつけた。
「知り合いなの?」
「妻ですね」
「つま……、妻!? うそ」
 何百年と生きているそうだが、外見だけならば陽菜よりも幼い。この男の子が結婚していたとは、夢にも思わなかった。
「噓なんかつきませんよ。まあ、こんな綺麗な娘と、私みたいなみにくい魔族は釣り合いがとれないんでしょうけど。とても美しいでしょう? 私はナジュムほど美しい娘を知りません」
 ナジュム。寝所しんじょで砂漠の魔王が呼んでいた名前だった。
「そうね、綺麗な子。……魔王と似て」
 少女――ナジュムの顔は砂漠の魔王と似ている。背に生えた白い翼とて、彼らの繫がりを連想せずにはいられない。
 なにより、彼女は翼を抱きしめている。彼女自身のものではない、誰かの背中からむしりとったような片翼だ。それは魔王が失った翼なのではないか。
「魔王の妹のようなものですから。彼と彼女は、もともとは同一視される存在であり、名前すらも共有していたんです。……けれども、ナジュムという新しい名を得てから、彼女は変わってしまった。魔王を憎み、砂漠に呪いをのこした」
「え?」
『呪いを解いて、どうか』
 魔界に落ちる直前、れ井戸から見た光景がよみがえる。呪いを解いて、と願ったのはナジュムだ。呪いの元凶が彼女とは、想像すらしていなかった。
「砂漠は貧しい国です。だから、水はとても貴重なものでした。昔は、この砂漠にも大きな水源があったんです。マディーナや郊外の農耕地を巡る地下水。だから、貧しいなりにも、弱い者たちも生きていられた」
 その水源に、陽菜は心当たりがあった。魔界に落ちたとき、街を逃げまどった陽菜は、地面のくぼみにつまづいた。今思えば水路の跡だったのだろう。
「いまは、ないの?」
「百年ほど前に涸れました。涸らしたのがナジュムです」
 シャムスの声は、ぞっとするほど冷たいものだった。
「で、でも。水源が涸れたって、なんとかなるのよね? 侍女じじょたちが使っていた、えと……」
 以前、侍女たちは魔法のような力で水を生み出し、から水瓶みずがめに溜めていた。生活に必要な水は確保できているはずだ。
「魔法は万能ではありません。あれは言葉の力。砂漠には、読み書きどころかまともにしゃべれない連中だって多いんですよ。そもそも、魔法で水を生み出したところで、砂漠に生きる者たちを生かすには、とうてい足りない」
 素気無すげなく返されて、陽菜はうつむいた。
「そう。あの、百年前に何かあったの? そんなに大事な水を涸らしちゃうなんて」
 この国を揺るがす事件が起こったのではないか。それがきっかけとなって、ナジュムは魔王の翼を奪い、水源を涸らした。
「水路から、他国の魔王が攻めてきたんです。猛毒を持つ蛇、《湖城》の国の王。それを追い払うために、砂漠の魔王は重傷を負った。けたんですよ。……忘れもしません。ナジュムは瀕死ひんしの魔王の片翼を奪って、水源を道連れに自殺した。涸れた水源の代わりに遺されたのが、この水と死体です」
 弱り切った魔王から翼を奪った、とシャムスは吐き捨てた。手負いの獣から羽をむしり取った、唾棄だきすべき行為だと非難する。
 やはり、ナジュムがかかえている翼が、砂漠の魔王の失われた片翼なのだ。
 ただ、陽菜は一連の話に違和感を覚えた。
 ――水源を涸らしたというが、ガラスのなかで、水はナジュムとともにあるではないか。
「どうして、ナジュムは魔王の翼を奪って、あなたの言う水を涸らしたの?」
 他国の魔王が侵入してきて、魔王は瀕死の状態だった。そのような緊急事態で暴挙に出たならば、深い理由があったはずだ。
「さあ。そんなの私が知りたい」
 シャムスの瞳はいとしそうに、されど同じくらい憎らしげにナジュムを映していた。

◆◇◆◇◆

 礼拝堂を出た陽菜は、柘榴ざくろの木のある中庭に立っていた。
 あれからシャムスは一言も喋らず、礼拝堂から動くこともなかった。その場にいる陽菜の存在など無視して、彼はひたすら少女を見つめていた。
 居たたまれなくなったのは、シャムスのまなざしを知っていたからかもしれない。
 あれは陽菜と同じだ。深い後悔を抱えたまま、死者から目を離せずにいる。
「ばか。関係ないのよ、ぜんぶ」
 過去に砂漠で起きた事件は、陽菜の知るべきことではない。陽菜の目的は帰ることなのだから、余計なことに首を突っ込んでいるひまはないのだ。
 街にあるという、陽菜たちの世界に繫がる門のことだけ考えるべきだ。
 ナジュムの遺した呪い――涸れた水のことなど気にするべきではない。
 そう言い聞かせながらも、心は晴れない。毎晩ともにいる魔王のことが浮かんでしまう。彼を苦しめている原因は、水を涸らした呪いにあるのだ。
 白砂の庭を歩きまわっていた陽菜は、柘榴の木の前で足を止めた。殺風景な庭に、たわわに実った赤い実だけが彩りを添えていた。
 背伸びをして柘榴の実に手を伸ばすが、指先をかすめるだけで届かない。
 不意に、陽菜のとろうとしていた果実を誰かがもいだ。
 華やかな飾り布を頭に巻いて、砂漠の魔王が首をかしげていた。奴隷として買われて以来、昼間に会うのは初めてのことだった。
 魔王は鉤状かぎじょうの爪で柘榴を割ると、陽菜の唇に押しつけた。瑞々みずみずしい果肉に口を開けば、赤い実が舌ではじける。
 甘酸っぱい柘榴を呑み込めば、彼は次から次へと実を押しつけてきた。
「あ、ありがと」
 彼は果汁で濡れた陽菜の唇をなぞってから、その指を自らの口許くちもとに寄せた。甘い、とでも言うように、彼は柔らかに笑う。
 陽菜は頰を赤くする。魔王の笑顔は苦手だ。いつくしむようなまなざしに、どうすればいいのか分からなくなる。
 魔王は柘榴の枝を折ると、陽菜の手首を摑みながらしゃがむ。砂に枝を突き立てて、彼はゆっくり、ゆっくり文字を書く。
『お前の名前は?』
 いつかの夜、陽菜が男の頰に書いた質問と同じだった。
 彼の文字はいびつで、ちっとも綺麗ではなかった。宮殿に刻まれた美しい筆跡や、整った銘文めいぶんと比べればミミズがったようなものだ。
 しかし、陽菜には魔王の文字がいちばん温かくて、心がこもっているように感じられた。
「もしかして、読めなかったの?」
 ようやく、あの夜の真実に気づく。
 魔王は陽菜の問いを無視したのではない。文字が読めないから、理解できなかっただけだ。彼は《砂漠》の言葉を喋ることはできても、書き記すことも読むこともできなかった。
 魔王はもう一度、砂の上に文字を連ねた。少しばかり不安そうに瞳を揺らすのは、陽菜の答えを期待しているからだ。
 陽菜は枝を受け取って、地面に名前を書く。
陽菜ひな
 名前を口にしたのは、ずいぶん久しぶりのことだった。咽喉のどの奥がからからにかわいて、泣きたくなるような衝動がこみ上げてくる。
 太陽の名だとめてくれたのは、亡くなった兄だった。きっと太陽のような子になる、誰かを助けられる子になる、と笑ってくれた兄が好きだった。
 陽菜。それが自分の名前。生まれ育った場所へと繫がるきずなだった。いまは遠く彼方かなたにある、帰りたいと願う世界のことが走馬灯のように駆け巡った。
 優しい両親や姉たち、墓の下で眠る兄、たくさん助けてくれた真由子まゆこをはじめとした級友たち、見守ってくれたシスターの顔が浮かんでは遠ざかってしまう。
「陽菜」
 ここは陽菜の知らない世界だ。隣にいる魔王は、家族や友人とは似ても似つかない異形いぎょうだ。
 だが、陽菜と呼ぶその声は、生まれ育った世界の人々と同じだった。同じように陽菜を大事にして、慈しんでくれるのだ。
 あふれそうになる涙を、無理やり目元をぬぐうことで誤魔化す。しかし、魔王にはとっくに見透かされていたようだ。彼は陽菜の肩を抱いて、なぐさめるように頰をり寄せてきた。
 陽菜はうつむく。その拍子ひょうしに、冷たい涙が頰を伝った。
 繰り返し、陽菜、と魔王はささやいた。その声に応えたかったが、男の名前を知らない。
 震える手で、もう一度、柘榴の枝を握った。
『あなたの名前は?』
 頭のなかで警鐘けいしょうが鳴り響いていた。名前など知ってしまえば、引き返せなくなってしまう。今でさえ、陽菜はこの男に情を移してしまっている。傷ついている彼のために、何かできないかと思っている。
「カマル」
 彼が名乗った音の意味を、陽菜はもう知っていた。
 夜毎よごとに痛みに襲われて、ひたすら朝にがれる彼の名は、皮肉なことに夜に閉じ込められた美しい天体と同じだった。
 ――カマル。あなたが苦しくないように、夜明けに連れていってあげたい。
 そんな風に思う自分が、陽菜は恐ろしくてたまらなかった。

◆◇◆◇◆

 熟れた柘榴をてのひらで転がしながら、カマルはゆっくりとまばたきをした。
 赤い柘榴は、あの娘の唇を思わせた。果汁で濡れた唇は赤く、その奥からつむぎだされる歌と似て、かじりついたら甘いことを知っている。
 柘榴を爪で開いて、一粒口に含む。
「柘榴なんて好きでしたっけ?」
 シャムスは目を鋭くした。片眼鏡モノクルの奥のまなざしには、探るような色があった。
「陽菜が好きなようだ」
「……あの娘の名前ですか。あんまり甘やかさないでくださいよ、奴隷なんですから」
 あたりを見渡したシャムスは、あきれたように溜息をつく。
 殺風景だったへやには調度品が増え、菓子や果実の甘いにおいが漂っている。あの娘と出逢ってから、カマルは彼女のために室を整えるようになった。
 まるで大事な者を迎えるために、巣を整える鳥のように。
 夜毎に震えていた絶望は、少しずつ遠ざかっている。陽菜が歌っているだけで、失くした翼の痛みも、この身を苦しめる毒の後遺症もやわらいでいく。
「甘やかしているつもりはなかった」
「無自覚なら、なお性質たちが悪いですよ。――先ほど《湖城こじょう》からの偵察ていさつが戻ってきました。また国境付近で騎士団と衝突したみたいですが、向こうはいつもの偵察だと割り切って、追っては来なかったみたいです」
「そうか。湖城の様子は?」
「不自然なくらい百年前と変わらないそうですよ」
「……? 変わっていないのか」
「ええ、あいかわらずバカみたいに豊かです。でも、今ならばれるかもしれない。少なくとも、百年前より勝算があります。魔王は代替わりした。あのときの狡猾こうかつな蛇はいない。……カマル、どうしたんですか」
「いや」
怖気おじけづいたんですか? 今になって」
 カマルは目を伏せた。怖気づくも何も、選択肢など最早もはや残ってはいない。
「この国には水が必要だ。水源が戻らなければ、そう遠くないうちに砂漠は滅びる。頭の悪い俺にでも分かることだ」
「あんたは、それでも生き延びるんでしょうけどね」
 砂漠が滅びてもなお、当たり前のようにカマルは生き残るだろう。
 業火ですべてを焼き尽くし、砂のような灰を纏って、それでも生き延びてしまうのが自分だと、カマルは知っていた。己を殺すことができる存在は、砂漠にはもう存在しない。
 いるとすれば、他国の魔王なのだ。
「百年前。いっそ死ぬべきは俺だったのかもしれない」
 瞬間、カマルの首に当てられたのはサソリの尾だった。
「怒っているのか?」
「怒らないと思っているなら、あんたはやっぱりバカですよ。ナジュムの代わりにあんたが死んだところで、結局、砂漠は滅んだ。あの娘は病や毒を癒すことはできても、あんたと同じ炎を纏うことはできない。他国からの侵略にも、国内からの反乱にも立ち向かえない」
「ナジュムをそんな弱い魔族にしたのは誰だ? 俺たちは二人でひとつだった。どちらも業火から生まれ、どちらも癒しの力を持った。俺たちを二つに分けたのは、お前だろうに」
 シャムスは傷ついたように唇を嚙んだ。
「私は、ただ」
「忘れるな。俺たちを二人に分けたのも、俺を魔王にしたのも、すべてはお前の願いだということを。お前が水を望み、湖城を得ることを願うならば、俺は戦おう」
「なんて、ずるい言い方をするんですか」
「お互い様だ。――陽菜のことは好きにさせろ。甘やかすのは、それだけの価値があるからだ。あれの歌を聴いているだけで、ずいぶん調子が良い」
「歌の上手な娘なら、他にもいます」
「他はらない」
「私は! あんたに、あの娘は必要ないと思っています。あんたは弱いものをあわれんで、切り捨てることができない。いつか、きっと。あの娘のために自分の身を損なう」
 カマルは咽喉を震わせる。
「なに笑ってんですか!」
「俺が弱い魔族を憐れむならば、それはお前に育てられたからだ」
 シャムスは太陽を閉じ込めたような金の瞳を揺らす。少年の姿をした彼が、ずいぶんと幼く、小さく感じられた。愛らしい育ての親の背丈を抜いてしまったのは、遠い昔の話だった。
 生まれたての雛鳥ひなどりは親を追い越した。それほどまでに時は流れた。
「忘れるな。この国を創ったのは、俺ではなくお前だ」
「……バカなあんたは、こんな弱い魔族にそそのかされて、同胞たちを焼き尽くした」
「バカな俺は、それでもお前の望みをかなえたかった。その望みの果てに、三人で幸せになれる楽園があると信じた」
 しかし、楽園は手に入らなかった。
 カマルは半身を、シャムスは最愛の妻を亡くして、三人は二人になってしまった。礼拝堂でまどろむ少女の眠りは永遠に続いて、二度と笑いかけてくれることはない。
 彼女は呪いを遺した。砂漠から消えた水は戻らず、時間ばかり過ぎていった。呪いが解けることを祈って、待つだけの時間はもう残されていない。
「水を得ます。それさえあれば、砂漠はきっと楽園になれる」
 シャムスのつぶやきは、自らに言い聞かせるかのようだった。
 涸れてしまった水を求めている。手に入ったならば、すべては変わるだろうか。
 ――水さえあれば、幸せだった三人に戻れるのか。
 胸に浮かんだ疑問を、カマルは言葉にすることはなかった。口にしてしまえば、取り返しがつかなくなる予感がした。

◆◇◆◇◆

 昼下がりの礼拝堂で、陽菜は隣にいる少年を見た。
 まだらに硬化した肌、稲穂のような金髪は兄と異なる。しかしながら、面差しは亡き兄とうり二つだった。
 礼拝堂でのシャムスと顔を合わせるのは、あれから途切れることなく続いていた。
「あんたは私の奴隷ではないから、おせっかいと分かっているんですけど」
「え?」
 珍しく話しかけられて、陽菜は間抜けな声をあげてしまう。
「寝所にあるもの、食べるのめた方がいいですよ。太りましたよね」
 シャムスの言う寝所とは、カマルの寝所のことだ。あの部屋には山ほどの菓子や果実が用意されている。
「そ、そんなに太ってないもの!」
 反論しつつも、日本にいた頃より肉づきが良くなったことは否定できない。
「これ以上ぶくぶく太ったなら、あんたのこと厨房ちゅうぼうでバラしますから」
 陽菜は頰をひきつらせた。どこまで本気なのか判断できない。
「だって、残せないでしょ? 魔王……か、カマルだって、厚意で用意してくれるのに」
 微笑みながら差し出されると、つい口にしてしまう。子どもみたいに食べさせてもらうのは恥ずかしかったが、純粋な厚意と分かるから無下むげにできない。
 カマルは恐ろしいほど素直で、感情をさらけ出すことをためらわない。裏表のない態度は、真っぐに陽菜の心を射貫いぬいた。
「困った子ですね、あいかわらず。人に食べさせることばかり大好きで。自分のことだけ考えていれば良いものを」
「意外と世話焼きよね」
 カマルは言葉こそ多くないが、行動のひとつひとつに他者への気遣きづかいがある。
「怒ると手がつけられませんけれど、基本的には優しい子ですからね。そうじゃなきゃ、あんたみたいな弱くて手のかかる娘を飼ったりしません。あれしきのことで倒れる奴隷なんて、はじめてでしたよ。買われてすぐは使い物にならなかったじゃないですか」
「そんな昔のこと持ち出さないでよ。もう倒れたりしないもの」
 魔界に来てから、すでに四カ月以上の月日が流れている。実感はなかったが、過ぎ去った日数は残酷なまでに真実だけを突きつけてくる。
 生まれ育った世界が遠ざかっていく。
 たった四カ月の間に、いくつの記憶が薄れていったか分からない。砂漠の気候や文化に馴染なじんで、言葉を覚えていくほど、足元が崩れていくようだった。
「昔、ねえ。まばたきほどの時間ですよ、私たちにとっては」
 陽菜は苦笑するしかなかった。人間である陽菜と、シャムスたち魔族の時間の感覚は合致しない。長い年月を生きる彼らにとって、四カ月は一瞬と同義だ。
「シャムスみたいなおじいちゃんと一緒にしないで。あなた、カマルより年上なんでしょ。いま、いくつ?」
「さあ? もう数えるのを止めて久しいので。五百くらいまでは数えていた気がします。カマルの歳なら憶えているんですけどね」
 五百年という時間に思いを馳せようとして、陽菜はあきらめた。あまりにも長くて、想像しようにもできなかったのだ。
「変なの。自分の歳は忘れているくせに、カマルの歳は憶えているなんて」
「子どもたちの年齢くらい数えますよ。あれとナジュムは、私が最初に育てた子ですから」
「実の子ではないのよね?」
 あまりにも似ていない二人なので、血が繫がっているとは思えない。そもそも、魔族に子どもができるのかさえあやしいところだった。
「あの子たちは実子ではありません。……彼らは、突然、砂漠に生まれたんですよ。あの頃、ここは国と呼べるような土地ではなかった。たくさんの部族がひしめきあって、争いあって。そこに、どの部族にも属さない強力な魔族が誕生したんです」
「そうして、あなたはこの国を創ったの? カマルを利用して」
 砂漠の国のはじまりは、たくさんの部族が統一されたことによる。カマルに部族をつぶしまわらせて、無理やり統一したのは、目の前の少年ではないか。
 イトは、この国の実権を握るのはシャムスだと言った。弱い魔族であるシャムスが、強い魔族だったカマルを利用して建国したのが、この《砂漠》なのだ。
「否定はしません。私が願ったから、あの子は魔王になった。……誰かの願い、誰かの想いで自らのり方を変えてしまう。それが魔族です。もっとも、純粋な人間ではない私が言ったところで、信じてもらえないのかもしれませんが」
「想い?」
「ええ。私たちは人間の、はじまりの花嫁に望まれて生まれたもの。故に、人の想いこそ魔族を形づくるのです」
 はじまりの花嫁。すべての創造主たる神が自分の写しとして創った、最初の人間である。彼女がさびしいと泣くから、神はありとあらゆる生き物や魔族を創り出したのだという。
 故に、魔族は人間に望まれたからこそ生まれた存在と解釈できる。
「なのに、人間を食べてしまうのね。強くなるために」
 シャムスはあきれたように肩をすくめた。
「勘違いしているみたいですけど、人間を食べたら強くなれる、は正確ではありません。人間にはアタリとハズレがいる。魔族に力を与える《花嫁》と、ゴミが。私が知る《花嫁》は一人だけ。彼女は心から異形の魔族を愛し、この砂漠に血を流した。想いの強さこそが、人間ゴミを花嫁にするのかもしれません」
 自分を愛してくれる人間の血肉を食べたとき、魔族は強くなれる。
 ただの人間では意味がない。想いがなければ、力は与えられない。
 つかみどころのない、抽象的な話だった。かつて砂漠にいたという《花嫁》も、彼女が愛した魔族に喰われたであろうことも、遠い世界の御伽噺おとぎばなしのようだった。
「まるで信仰ね」
 礼拝堂にいるから、なおさらそう思ってしまう。
 兄の信じた天使は、遠い昔、終わらぬ雪を炎で溶かし、人々を病から救った白い鷹だ。
 カマルもナジュムも、陽菜の生まれた地域の伝説と重なる。雪害を晴らした炎も、蔓延していた病毒を癒した力も、彼らは持ち得ていた。
 炎と癒しの魔族。二つの力を持った天使は、きっと多くの人からあがめられた。故郷の伝説に限った話ではなく、あらゆる土地で、白い翼を持つ存在は信仰の対象だ。
 それだけの人間に崇められているからこそ、カマルは砂漠の魔王となることができた。人間たちの想いが、カマルを強い魔族にしたのだ。
 ――だが、砂漠の魔王は敗北を経験している。
「百年前。カマルに勝った魔王は、たくさんの人に崇められていたの?」
「あんなのが崇められていたかと思うと吐き気がしますが、そうなんでしょうね。あれは気まぐれに砂漠に現れて、好き放題荒らしていった。奪うものなどない不毛な土地で、単に暇つぶしをしたかっただけです。だから、復讐しなければ」
 シャムスのまなざしは遠く、ここではない何処どこかに向けられていた。それはカマルが敗北した魔王のいる、《湖城》と呼ばれる国なのだろう。
「水を涸らしたのは、ナジュムでしょ?」
 湖城の魔王による侵略は、間接的な原因となったかもしれない。だが、実際に水を涸らしたのはナジュムだ。
 礼拝堂で永遠の眠りにつく少女こそ、砂漠から大事な水源を奪った裏切り者だ。
 シャムスは応えず、黙って少女を見つめるだけだった。

◆◇◆◇◆

 寝所には甘い香りが漂っていた。
 陽菜の唇に菓子や果物を運んでは、カマルは満足そうに笑っている。
 心臓が早鐘を打って、頰に赤みが差す。こんな風に厚意を向けられるたび、彼に好かれていると勘違いしそうになる。
 カマルが好きなのは、陽菜自身ではなく、陽菜の歌だ。不眠症の彼は、自分を眠らせてくれる特効薬を求めているだけだ。
 それは決して、責められることではなかった。カマルが安眠のために陽菜を利用するように、陽菜とて魔界で生きていくために彼を利用した。
 歌ではなく、陽菜自身を望んでほしいなど、あまりにも都合が良すぎる。もとの世界に帰ろうとする身でありながらも、カマルからの好意を期待するのは卑怯ひきょうだ。
 落ちつかなくなって、陽菜は近くのテーブルから茶器をとった。ぬるくなってしまったコーヒーを残念に思うと、カマルに茶器を取りあげられる。
 彼の掌に小さな炎がともった。驚いた陽菜を余所よそに、カマルは茶器を突き返してくる。茶器は温まり、コーヒーはもとの熱さを取り戻していた。
「えと、魔法?」
 魔法は言葉の力、とシャムスは教えてくれたが、陽菜からしてみると、訳の分からない不思議な力だった。
 カマルは目を丸くする。
「違う。魔法は言葉で紡いで、言葉で解くものだ。文字もろくに書けない男には、うまく操れない。そもそも、俺に魔法が使えると思っているのか? お前は」
「ええと、違うの。ごめんなさい、変なこと言って」
 早口で誤魔化す。どうやら、おかしな質問だったらしい。
「魔法を使うのは、たいてい弱い魔族だ。あれは神にすがって、神を信じる連中にしか使えないのだから。俺のは……、何と言えばいい? 生まれつきのものだ」
「本性? みたいな感じかしら。カマルはそういう魔族なのよね」
 炎を纏った白い鷹。そういった存在として人間から望まれ、生み出された魔族なのだ。
 カマルは頷いて、掌で揺れる炎を消した。
「魔法が上手うまいのはシャムスだ。見たことくらいあるだろう? よく会っているはずだ」
「あの、話をしているだけだから」
「匂いが移るほど近くで?」
 首に鼻先を近づけられて、陽菜はあせった。匂いがするほど一緒にいるつもりはない。そもそも、そんなものをぎ分けられるとは思いもしなかった。
「……いろんなことを教えてもらっているの。ナジュムの、こととか」
 彼女のことを話題にするのは勇気が必要だった。しかし、うやむやにできることではないとも感じていた。
「懐かしい名だな」
 カマルの反応は意外なものだった。彼は怒るわけでもなく、ごく自然に返してきた。
「妹なのよね?」
「似たようなものだ。俺とナジュムは、もともと同じカマルという名で呼ばれていた。二人でひとつの魔族だった。――あれにナジュムという名を与えたのはシャムスだ。そのとき、はじめて俺たちは二つの存在に分かれたのだろうな」
 何を思って、シャムスは少女に名を与えたのだろうか。少なくとも、悪意ある感情ではなかったはずだ。
 むしろ、愛しくてたまらなかったからこそ、彼女だけの名がほしかったのだろう。
「砂漠は呪われている、とシャムスは言ったの」
「ああ、呪われているのかもしれないな。どうして、ナジュムが水源を涸らしたのか。俺を憎んでいたのか、恨んでいたのか。死者の気持ちは分からない。今はただ、ナジュムが悪く言われるのが哀しい」
 時の流れは事実を風化させるだけでなく、感情さえも薄れさせてしまう。
 陽菜とて、兄が死んだときに感じた哀しみは、生々しさを失ってしまった。今の陽菜に残っているのは、当時感じた絶望や後悔の残滓ざんしに過ぎない。
 カマルもまた、ナジュムが自殺したときは強い感情を持っていたのだろう。しかし、今となってはその想いも形を変えてしまっている。
「ナジュムのこと、愛していた?」
「あれを愛していたのはシャムスだ」
 がんじがらめになってしまった彼らの過去に、部外者の陽菜は踏み込めない。だが、どうしても、遣る瀬無さがつのった。
「どうして、お前が哀しい顔をするんだ」
「可哀そうだから。このままじゃ誰も幸せになれない。みんな哀しいまま。あなたもシャムスも……ナジュムだって」
 何を考えて、彼女が水を涸らしたのか理解できない。だが、穏やかな死に顔を見ていると、カマルへの憎しみが理由とは思えないのだ。
「ナジュムを憐れむのは、お前が知らないからだ。あれの犯した罪を。……あれが憎まれることは哀しいが、憎む者たちの気持ちも否定できない」
「分からないわ。だって、わたしはの国を知らないもの」
「ならば、マディーナを見てくるといい。この《砂漠》に遺された呪いを」
 カマルは遠くを見据えて、薄い唇をゆがめた。


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