白鷹の花嫁

4.祈りの歌はがために | 6.夜明けを迎える物語 | 目次

  5.呪われた街  

 宮殿カスルからの長い坂道をくだれば、城砦じょうさいに囲われたマディーナへと至る。
 魔界に落ちたときの印象のせいで、陽菜ひなはずっと、砂埃すなぼこりの舞う陰鬱いんうつな街を想像していた。それは間違いであり、石造りの街には活気があふれていた。
 建物と建物の間にかけられた天蓋てんがいの下で、市場スークにぎわいを見せている。
 小路こみちに所狭しと並ぶ露店には、青物や出来合いの食べ物、装身具などが売られている。商人たちは街行く人々を引き留めながら、あらゆる品々を売り込んでいく。
 途中、通行人と肩がぶつかりそうになる。宮殿にいる兵士たちと同じ恰好をした彼は、背中に大きな水瓶みずがめを背負っていた。誰かに声をかけられるたびに、水瓶から水を注いで、せわしなく動き回る。
 恰好を見るに、宮殿が派遣している水売りなのかもしれない。
「あまり余所見よそみはするな。はぐれたら、私が魔王に殺される」
 後ろからブラウスの袖を摑まれる。イトはけだるそうに溜息をついていた。
「子どもじゃないんだから、はぐれたりしないもの。ねえ、イト。あなたたちが天幕テントを張っていた場所って、どのあたりになるの?」
「お嬢さんが泥棒に入ってきたときか? あれはもっと中心部だ」
「あとで連れていってほしいの」
「分かったから、一人でうろちょろするのはやめてくれ。ほしいものがあれば買ってやるから、おとなしくしていろ」
「いいの? じゃあ、あのイチジク」
 イトは露天商に声をかけて、イチジクを買った。受け取った陽菜は、丸々とした大きな実に目を輝かせる。
「立派なイチジクだな。余所から持ってきたんだろうが」
「余所から?」
「今の砂漠でまともに食料を生産できると思うか? 半分以上、余所からやってくる隊商に依存している。その隊商も、昔に比べたらずいぶん減った。旨味うまみがないからな」
 イチジクを売っていた露天商は、《さかずき》の紋が刻まれた腕輪をしていた。
 以前、隊商には種類があると教えてもらった。イトたち《椿つばき》のような奴隷商もいれば、食料を中心にあつかっているところもあるのだろう。奴隷商が花の紋を掲げるなら、食料をあつかっている隊商はうつわやカトラリーを掲げているのかもしれない。
美味おいしそう。持ち帰って、カマルにあげてもいい?」
 宮殿でイチジクを見かけたことはなかった。カマルにも食べさせてあげたい。
「なんだ、まんざらでもなかったのか? 砂漠の魔王の求愛に。山ほどえさみつがれていると聞いたが。よほどご執心しゅうしんなんだろうよ」
「貢ぐって。なにそれ」
 たしかに、毎晩、寝所しんじょには山ほどの菓子や果物が用意されている。だが、それが何を意味するかなど考えたことはなかった。
「鳥の給餌きゅうじは愛を求めるからだ。魔王はお嬢さんにべったりだからな。さっさと巣にこもって子作りでもしてしまえば、あれも安心するのではないか? 大事なものは羽の下に囲っておきたい奴だから」
 あまりの言い様に、陽菜は絶句した。唇を開いては閉じるを繰り返していると、イトの冷たいてのひひたいに当てられる。
「へ、変なこと言わないで!」
「ああ、ちゃんと通じていたか。だいぶ言葉が上達したな、その調子で励むといい」
 一連の会話は《砂漠》の言語で行われているので、言葉が上達したのは本当なのだろう。だが、あまりにも聞き捨てならない内容だった。
「やめてよ。あの人、わたしになんて興味ないでしょ?」
 興味があるのは陽菜自身ではなく、陽菜の歌なのだ。彼は自分を眠らせてくれるならば、そばにいるのが誰であろうとも構わない。
「ばか言うな。あれはどんな奴隷であろうとも、一晩もたずに追い出してきた男だ。夜伽よとぎとは名ばかりで、同じ空間で夜を明かすこともゆるされなかった」
「宮殿の侍女じじょたちのこと?」
 何かにつけて陽菜の世話を焼いてくれる彼女たちは、もともとはカマルが買い取った奴隷だという。カマルを眠らせる役目は、本来、彼女たちに望まれていたものだった。
「不眠症だというから、踊りや楽器の上手な娘を集めた。なかには歌声の綺麗な娘もいた。だが、誰もが魔王の気に入りにはならなかった。例外はお嬢さんだけだ」
「そんな面白いことになっていたの?」
 突然のささやきに、驚きのあまり飛びあがる。反射的に手を振りあげるが、いとも容易たやすく摑まれてしまった。
「意外と乱暴者なのかな? とても可愛らしいお嬢さんだと思っていたのに」
「アーシファ」
 宮殿の入り口で、シャムスと会っていた男だ。街に居を構える魔族であり、陽菜が帰るための手掛かりにつながる存在でもあった。
 彼とシャムスが口にした《門》は、陽菜の世界と繫がっているかもしれない。
「僕の名前、憶えていてくれたんだ。嬉しいなあ、ねえ、やっぱりカマルなんかやめて、僕の恋人にならない? とっても大事にしてあげる」
 指先であごすくわれる。彼は宝石のように美しい瞳をしていたが、背筋が凍りつくような怖気おぞけを覚えた。彼のまなざしは玩具おもちゃをねだる子どもと同じだ。子どもは玩具に飽きると、簡単に捨ててしまうものだ。
「……嫌よ。カマルは、大事にしてくれるから」
 言葉こそ少ないが、この砂漠の誰よりも陽菜を大事にあつかってくれた。いま陽菜が生きていられるのは、すべてカマルのおかげだ。
「でも、あれは頭が空っぽだから。お嬢さんの気持ちなんてお構いなしに、強引なことをするかも。ああ、それも嫌ではないのかな? カマルはあなたを優しく抱いてくれる?」
「下世話なこと言わないで。あなたには関係ないもの」
「イト。僕、下世話なことなんて言ったかな?」
 アーシファはわざとらしく眉をひそめて、傍観者ぼうかんしゃとなっていたイトに問う。
「若いお嬢さんには下世話なのだろう。年寄りは傍観者ぼうかんしゃいが足りない、と私もよく注意される」
「年寄りなんて止めてよ! 僕はこんなにも美しいだろう? ねえ。それを老人あつかいなんて、ひどい」
 たしかにアーシファは美しい。ガラス細工を思わせるはかなげな美貌である。
 また、首筋の刺青いれずみを除けば、彼には魔族らしい特徴もない。カマルもほとんど人間に近い姿をとるが、アーシファはそれ以上に綺麗な人型だった。
 彼の外見からは、魔族としての特徴を拾うことができないのだ。
 アーシファの魔族としての本性は何だろうか。イトの蜘蛛くもや、シャムスのサソリ、カマルのたかのように、彼もまた何かしらの本性を持っているはずだが、まるで想像がつかない。
「うるさい男だな。そんなだから魔王や宰相さいしょうから嫌われるのだろうに」
「そういうあなたも嫌な女だね、昔から。――ねえ、こんな年増は放っておいて、僕とお茶でもしない? 今日も暑いから、適度に休憩を挟まないと。街の中心部には、僕のやしきがあるんだよ。せっかくだからお招きしたいな」
 アーシファは上機嫌に陽菜の手をとる。手の甲を撫でられて、思わず身震いする。
 屈強な男ではなく、華奢きゃしゃで女性的ですらある。しかし、アーシファを前にすると本能的に身がすくみそうになった。頭から丸呑みにされて、四肢ししが千切れるまでぼろぼろにされるような、そんな錯覚がした。
「お嬢さんを困らせるのはやめろ」
「イトにとっても悪くない提案だろう? あなた、そろそろ隊商宿に寄るべきだよ。《椿》の子たち、イトがいなくて困っていた。宮殿に居座るのもいいけど、仲間の面倒は見ないと」
 イトは数度まばたきをして、思い出したように両手を叩いた。
「すっかり忘れていた。たしかにそろそろ顔を出さなくてはいけないな」
「でしょう? だから、このお嬢さんを預かってあげる」
「まあ、お前のところなら、独りにするより安心か。お嬢さん、私は隊商宿に寄るから、アーシファの邸でいい子にしていてくれ。用事が終わったら迎えに行く」
「え、ちょっと待って!」
 得体の知れないアーシファと二人きりなど冗談ではなかった。イトがいるならば我慢できるが、好んで一緒にいたい相手ではない。
「うんうん、ゆっくりしておいで」
「イト!」
「そう嫌がるな、お嬢さんの望みもかなうのだから。私たちが天幕を張っていたのはアーシファの邸にある外庭だ」
 イトはどうでもよさそうに片手を振るだけで、助けてはくれなかった。アーシファは陽菜の手を引いて、市場を歩いていく。
「痛いから引っ張らないで!」
 市場を通り抜けて、一本外れた小路に入った。さきほどまでの喧噪けんそうが噓のように、静まりかえっている。
「ふふ、生意気だなあ。奴隷のくせに」
 アーシファはあっさりと陽菜の手を離した。陽菜は毛を逆立てた猫のように、彼から一定の距離をとろうとする。
「だめだよ、僕から離れないで。街は安全な場所じゃないんだ。イトや僕が一緒ならいいけれど、あなた一人なら死ぬよりひどい目にっても文句は言えない」
 冗談と笑い飛ばすことはできなかった。アーシファやイトは、より人間に近い姿をした魔族だ。あからさまにサソリの特徴を残した異形いぎょう――宰相シャムスと違って、彼らは強い魔族なのである。
 強い魔族と一緒ならば、手を出すものはいない。裏を返せば、陽菜が一人ならば、危害を加えてくる可能性は高いのだ。
「街に出るのは今日がはじめて? 砂漠の国を見たことはあるかな」
「街にいたことはあるけれど、この国のことなんて知らないわ。わたし、奴隷なのよ。いつのまにか連れてこられたもの」
「いつのまにか、ね。本当なら災難だ。よりにもよって、こんな不毛な国にさらわれてくるなんて! この《砂漠》という国はね、城砦に囲われた街を除いて、大半は砂の大地におおわれているんだよ」
 いま魔族たちが暮らしているのは、とりでに囲われたマディーナだけ、とアーシファは語る。
「でも、昔はたくさん部族があったんじゃないの? なら、その人たちの住む場所とか……」
「今はもう部族なんてあってないようなものだよ。みんなカマルが燃やしてしまったから。この街や砦も、部族が統一されて、《砂漠》という国が生まれたときに造られたんだよ」
 やはり、《砂漠》はカマルによって生まれた国なのだ。彼は圧倒的な力をもって部族をつぶしまわり、無理やりひとつにまとめあげた。
 自ら望んで、部族を滅ぼしたわけではない。シャムスに望まれたからこそ、カマルは暴力的な炎をもって砂漠を蹂躙じゅうりんしたのだ。
「考えごとは良いけれど、余所見は感心しないな。落ちるよ」
 次の瞬間、陽菜は思い切りつまずいてしまう。
 なんとか転ばずに済んだが、足元を見て蒼白になる。
 地面に大きなくぼみがあった。かなり深く、陽菜の身長を優に超えるだろう。窪みは長く続いており、街中に張り巡らされているようだった。
「水路?」
 水は張られていないが、かつては水路のようなものだったのかもしれない。
「正解。街のいたるところに水路が整備されていたんだよ、昔は。地下水があったから」
「地下水。えと、砂漠に?」
 日本で生きていた陽菜には、砂漠と地下水が結びつかなかった。
「隣国と呼ぶには少し離れているんだけれど、山脈で繫がったとこに雪山があるんだよ。その雪解け水が地下にもぐって、長い時間をかけて砂漠に水源を作ったみたい。僕も詳しいことは知らないんだけれど」
 礼拝堂にある死体――ナジュムという少女は、かつて砂漠の水源をらした。その水源こそ、アーシファの語る地下水なのだろう。砂漠の国に生きる魔族たちにとって、最も重要な水資源だったはずだ。
 その水を涸らした行為は、まさに呪い・・と呼ぶにふさわしい。
 陽菜はひざをついて、涸れた水路をのぞきこむ。
 石造りの水路は、途中から下り坂になり、そのまま地面に潜り込んでいた。ナジュムが死んだのは百年前なので、水源が涸れてからも百年はっているのだ。
 ふと、陽菜はあやしい光を見た。地下へと潜り込む水路の暗がりに、宝石のような無数の輝きがあった。
 いな、それは宝石などではなかった。
 地下水路の闇で、せた子どもたちがうごめいていた。襤褸ぼろを纏った彼らは、言葉もなく陽菜を見ている。生気のないうつろな顔をしており、目だけが飢えた獣のごとく光っている。
「だめだよ。この子は僕のお気に入り。お前たちにはあげられない」
 暗がりの子どもたちに向かって、アーシファは片手を振った。子どもたちは名残惜なごりおしそうにしばらく動かなかったが、やがて地下水路の闇へと消えていった。
 アーシファは陽菜の肩を抱いて、この場から去るように駆け足になる。
「待って!」
「待たない。僕と一緒だから目をつけられることはないと思うけれど、地下の連中と目を合わせてはいけないよ。お嬢さんみたいな身綺麗な奴隷なんて、すぐに身ぐるみをがされて大変なことになる。骨のずいまでしゃぶられて、骨も拾ってもらえなくなるんだ」
「あの子たちは何? どうして、あんな」
 陽菜よりも幼げな子どもたちが、何故なぜ、地下水路で息をひそめるように生きているのか。
「弱いから、あんな風に生きることしかできない。言葉もまともにあつかえない、まともに魔法も使えない魔族だ。ひとさじの水を得るために、まさに死にものぐるいで何でもやる」
「でも! 水なら、宮殿だって」
 宮殿の侍女たちは、魔法によって水をつくっている。市場にいた水売りが、宮殿の兵士と同じ恰好だったことからも分かるように、水は宮殿の内部だけではなく、街にも与えられているはずだ。
「ばかだね、そんなもの根本的な解決にはならない。活気があるのは表面だけで、食料も水も弱い魔族には渡らない。この国は爆発寸前だ。……まあ、僕の知ったことではないけれど。どれだけの魔族が死のうが、どうでもいいよ」
「そんな言い方しなくても。誰も、助けないの?」
 水路に潜む子どもたちに、最初は恐怖を抱いた。しかし、いま陽菜の胸にあるのは憐憫れんびんの情だった。余所者の陽菜ですら、こんなにも瀬無せななさを感じている。砂漠に生きる者たちは何とも思わないのだろうか。
「どうして弱い者を助けるの? 強者は栄えて、弱者は死ぬ。それが魔界のことわりだ」
 陽菜とアーシファの間には、深い溝があった。同じ言葉を話すことができるようになっても、同じ価値観を共有できるわけではないのだ。
 魔界と、魔界に生きる魔族たちの価値観。
 あわれみという感情は、魔族にとって取るに足らないものだった。生まれた瞬間から、彼らには完全なるヒエラルキーがある。そして、それが当然という認識を持っている。
「弱者に同情するのなんて、間抜けなカマルくらいだよ。あいつには自分で考える脳みそがないんだ。いつだってシャムスの言いなりで、シャムスに願われないと動けない」
「違う! 間抜けなんかじゃない。カマルは優しいだけよ」
「優しさに何の価値があるの? あいつは何ひとつ守れやしなかったのに」
 小路を抜けた二人は、大きな邸に辿たどりつく。門に立ったアーシファは、微笑みながら手招きしていた。
 宮殿カスルほどではない。だが、間違いなくそれに次ぐ建物である。邸は高い塀に囲まれており、なかには礼拝堂などの施設まで完備されていた。
 また、塀の外側にある庭も大きく、厩舎きゅうしゃ鐘楼しょうろうが設けられていた。
「ここに、イトたちがいたの?」
 イトたち《椿》の隊商は、当初、アーシファの邸にある外庭を拠点としていた。この場所こそが、涸れ井戸から魔界に落ちたとき、陽菜が現れた場所なのだ。
「そうだよ。運の悪いことに、あのときは街の隊商宿がいっぱいだったからね」
「奴隷商に庭を貸すなんて、どうかしている。ここ、天界への門があるんでしょ?」
 口にした直後、はっとして唇を押さえる。心臓が早鐘はやがねを打っていた。陽菜の正体を知らないアーシファに対して、あまりにも不用心な発言だった。
「ああ。シャムスとの会話、盗み聞きしていたの? 心配しなくても、シャムスの言っていた《門》なら閉じているよ。イトたちには何もできない」
 噓つき、と声をあげそうになった。門が閉じたならば、陽菜が魔界にいることの説明がつかない。
「ここ、井戸とかないの? ずっと昔からあるような」
「ないよ。うーん、どうして門が気になるのかはかないでおいてあげるけど。お嬢さん、たぶん勘違いしている。僕たちは門と呼んでいるけれど、あれは魔界と天界との繫がりを意味するんだよ。形のあるモノや場所とは限らないし、魔族そのものが門となるときもある」
 やけに抽象的で、摑みどころのない話だ。陽菜が想像していた門は、たとえばあの涸れ井戸のような、何処どこかに繫がる入り口だった。
「つまり、縁みたいなもの?」
「あるいは運命かな。遠い昔、魔界と天界は混ざり合い、深く繫がり合っていた。たくさんの門があって、行き来も簡単だったよ。――でも、いまはもう遠い。僕たちはきっと、人間にとって御伽噺おとぎばなしになってしまったんだね」
 陽菜は思う。現代まで伝わる御伽噺や神話の登場人物は、魔族だったのかもしれない。
 陽菜の故郷に伝わる白い鷹とて、魔界から現れた可能性がある。遠い昔、天界と魔界が混ざり合っていた頃ならば、そんな奇跡が起きても不思議ではない。
 実際、あの白い鷹は、カマルとナジュムだったのではないかと陽菜は考えている。
「御伽噺になったのは、僕たちにとっての人間もだけどね」
 陽菜はきつく唇を嚙んだ。天界への門が閉じているならば、ここから帰ることはできない。門は繫がりであり、縁のようなものだという。ならば、陽菜は何の繫がりによって魔界に招かれたのか。
「ほら、おいで。屋上にお茶の用意をさせているから」
 落ち込んでいる陽菜に気づくこともなく、アーシファは邸の外階段に足をかけた。
 ためらいがちに彼の背を追いかけると、緑豊かな屋上庭園が現れる。美しい果樹や、水不足におちいった国には似合わない噴水に、自然と顔がけわしくなってしまう。
 すでにお茶の用意がされており、給仕とおぼしき魔族たちが控えていた。華やかな衣装の彼らは、うやうやしく首を垂れる。
「可愛いでしょう? 僕の恋人たち」
 すべて羽やはねのある魔族だった。ただ、彼らの背にあるそれは片方ずつしかない。偶然の一致にしてはあまりにも不自然だった。
「はねを、むしったの?」
 問う声は上擦うわずってしまった。
「だって、僕がほしいのはカマルと同じ片翼の奴隷だもの。そうでなければ意味がない」
「なんて、ひどいことを」
「ひどいこと? 弱いのが悪いんだよ。何をされたって文句を言える立場じゃない。お嬢さんの大好きなカマルだって、弱いから片翼を失った。あれは敗者だ。百年前、カマルは毒蛇との戦いに敗れた」
「《湖城こじょう》の、魔王?」
 かつて、カマルは他国の魔王に敗北したという。それが《湖城》という国の魔王だ。
「地下深くから水路を辿り、砂漠に現れた侵略者だ。あのときカマルの片翼は失われて、ナジュムは自殺した。一人で死ねばよかったのに、あの女は水源も道連れにした」
「それが呪いだって、あなたまで言うの」
「そう、呪いだ。ナジュムの呪いが、百年間も砂漠をむしばんでいる。……シャムスもばかだよ、おとなしく僕たちと暮らしていればよかったのに。あんな鷹に情を移したから、こんなことになった。本来であれば、砂漠の魔王は僕がなるべきだった」
「魔王はカマルよ」
「でも、自分の意志で魔王になったわけじゃない。あれを魔王に仕立てたのはシャムスだ。僕はね、シャムスと同じ部族の出身だった。なら、魔王になるのは僕であるべきだろう? 小さい頃から可愛がっていた僕ではなく、余所の子どもを魔王にするなんて裏切りだよ」
「待って。シャムスの方が年上なの?」
「……? 僕が小さかったときから、シャムスはずっとあの姿だよ。とっても長生きなんだ。御伽噺から生まれたからかなあ」
 アーシファは幼子のように頰をふくらませる。毒気を抜かれるような表情だった。
 意図しているのか無意識の態度なのか知らないが、アーシファが本当は何を考えていて、何をしようとしているのか読めない。
「あなた何がしたいの。カマルを殺して、魔王になるつもり?」
「それも楽しいかもしれないね。今なら殺せそうだ」
「茶化さないで!」
「茶化させてよ。僕が殺さなくたって、そのうちカマルは魔王ではいられなくなるよ。《砂漠》は遠くないうちに滅ぶ」
 アーシファは陽菜の肩を摑んで、無理やり抱き寄せた。抵抗しようとした陽菜は、飛び込んできた景色に動きを止めてしまった。
 屋上庭園からは、城砦に囲われた街の外を眺めることができた。不毛な砂の大地が広がっており、ただひたすら荒れ果てている。
「……っ、ひ」
 咄嗟とっさに、陽菜は口元を覆った。砂の上に無数の白骨死体があった。
「あれがこの街の、この国の未来だ。あそこに転がっているのは、砂漠から逃れようとして力尽きた魔族のむくろだよ。運良く砂漠を逃れた奴らもいるだろうけど、大半はああなる」
 砂漠に骨の墓標をさらし、死者は何も語らない。
 カマルは、知っているのだろうか。このむごたらしい現実を。
 知っているのだろう。はじめて出逢った夜、彼は街をうろついていた。自らの治める国の現状を理解しているはずだ。
 この国には、ナジュムの涸らした水源が必要だった。それこそが、弱い魔族が生きるために必要なものだ。
 だが、その水は何処にあるのか。涸れて戻らぬならば、何処から代わりの水を得ればよいのだ。
 イトが迎えに来るまで、残酷な光景から目を離すことができなかった。


 宮殿への帰り道、街は暗がりに呑まれていく。夜の寒さに震えながら、きっと水路の子どもたちのような存在が泣いている。
「イト。あなたは前に、楽園を湖に映る城と言った」
 迎えに来てくれたイトは、不思議そうに首をかしげた。
「有名だろう? 水と緑に溢れ、荘厳そうごんな建物が立ち並ぶ《湖城》は。山を越えた先にある湖城の国は、この砂漠に比べてあまりにも豊かだ」
 魔界に地図はない。数多あまたの国が滅びては生まれゆく魔界では、地図など描いたところで意味はないのだ。
 砂漠のほかにも無数の国があり、《湖城》という国も実在する。
「湖城の魔王は、毒をもつ蛇なの?」
 カマルが敗北したのは、猛毒を持つ魔族だったという。イトは苦笑した。
「それはの魔王だ。今の《湖城》を治めているのは蛇ではない。睡蓮すいれんの魔物だよ」
「代替わり、したってこと?」
「ああ。前の魔王は倒されて、新しい魔王が立っている。珍しいことではない」
 ならば、カマルと争ったのは、今の《湖城》を治める魔王ではないのだ。彼の片翼を奪い、ナジュムの自殺の引き金となった存在は、すでに玉座ぎょくざから引きずり下ろされている。
「虚しい、そんなの。前の魔王は、もういないんでしょ。恨んでも憎んでも、晴らすことはできないのよ」
 おそらく、カマルは片翼を奪った存在を恨み、憎しみをつのらせている。百年前の悲劇を引き起こした他国の魔王を赦してはいない。
「いつまでも過去にとらわれたりしないで、もっと……」
「もっと新しい幸せを求めればいい、か? それはどうだろうな。得てして過去は美化されるものだ。過去の幸福は永遠だ。未来と違って、過去はくつがえらないのだから」
「でも! 未来には可能性がある。過去よりも美しいものがないなんて、そんなの誰にも分からない。……思い出は美しくていいの。だけど、未来の幸せまで捨てる必要なんてない」
 過去を大事に抱きしめたまま、未来に向かって歩くこともできるはずだ。
「なら、お嬢さんが砂漠の魔王に未来を見せてやればいい。自分のすべてをけて。――お嬢さんにそんな覚悟があるとは思えないが」
 カマルの哀しい顔を見たくない。眠れない傷をいやしてあげたい。だが、それは陽菜の帰りたい世界と引き換えでなければ、かなわない願いだった。
 もとの世界に帰りたいと思う限り、陽菜は永遠に余所者でしかない。滅びゆく砂漠を憐れんでも、それは余所者の身勝手な感傷だ。
「わたし、は」
「故郷が恋しいのだろう? 砂漠の魔王が思い出を大事にするように、お嬢さんにも大事な過去がある。だが、選べるのはひとつだけだ」
 陽菜はうつむく。どちらか片方しか選べないが、どちらも陽菜にとって等しく捨てられないものだった。
「カマル」
 唇からこぼれた名前は、もとの世界に残してきた人々のものではなかった。

◆◇◆◇◆

 燭台の明かりが、寝所で揺れている。寝台で横になったカマルは、陽菜の膝に頭をせながらまどろんでいた。
マディーナは、どうだった?」
 陽菜はすぐに答えることができなかった。街に降りた一番の目的は果たされなかった。もとの世界に繫がる《門》は閉じて、すべては振り出しに戻った。
 頭がぐちゃぐちゃで、上手な返事が思いつかない。
 もとの世界に帰ることができるのか。そもそも、陽菜は本当に帰りたいと思っているのだろうか。
 あちらには愛してくれた家族も、大事にしてくれた友人もいる。彼らに背を向けることは、彼らの想いを裏切ることでもある。
 だが、心の片隅で思っていた。帰ったところで兄はいない。死んだ兄を置き去りにして、時間ばかり過ぎていく。
「……いろいろ見ることができて、良かったよ。これ、お土産みやげ
 露店で買ってもらったイチジクを差し出すと、カマルは微笑んだ。
「イチジクか。ナジュムが好きだった」
 カマルの表情は穏やかで、妹への憎しみはなかった。思えば、カマルは一度たりとも、ナジュムへの恨み言を零さなかった。
「どうして憎まないの? あなたの妹を。ナジュムは水を涸らして、あなたの翼を奪ったのに」
 陽菜は拳を握って、遠くない未来に滅ぶであろう《砂漠》の街を思った。水が涸れてしまったこの国は、坂道から転がり落ちる石のように滅びに向かっていた。
 カマルとて、眠ることができず、夜の闇のなかで苦しみ続けた。
 この国に呪いだけを遺して死んだ妹を、何故なぜ、カマルは憎まないのか。
「憎しみはない。憎んでいるとしたら、それは湖城の魔王だ。ナジュムのことは、ただ哀しいだけだ」
 胃ののあたりに、焼けつくような痛みを感じた。妹に裏切られて、手ひどい仕打ちを受けてもなお、憎しみを否定するカマルが理解できない。
「……っ、でも! 兄さんは憎んでいるかもしれない」
 唇から零れたのは、どうしようもない問いだった。カマルたちと陽菜の事情は異なるというのに、ふたつを重ね合わせてしまった。
 カマルは兄だ。陽菜たち兄妹と同じように、妹によって取り返しのつかないことになった。妹のせいでカマルは片翼と水源を失くし、妹のせいで陽菜の兄は死んだ。
「兄さんは死んだ、わたしが殺した。だから、きっと」
 穏やかで優しくて、大好きな兄だった。シスターの言うとおり、彼は陽菜が幸福に生きることを願っている、と信じていたかった。
 だが、兄は陽菜を憎んでいるのではないか、と疑ってしまうときがある。
 あの事故で死ぬべきだったのは、兄ではなく陽菜だった。
 動揺する陽菜の頰に、軽い衝撃が走った。寝転がったまま手を伸ばして、カマルは不機嫌そうに陽菜の頰を叩く。
「俺は頭が悪いから、難しいことは分からない。だが、ひとつだけ。――お前の兄は死んでいるのだろう? 死者の気持ちなど誰にも分からない。そんなものは妄想だ」
「だけど!」
「死者は語らない。兄に憎まれていると思うならば、それはお前が憎まれたいと願っているからだ。不幸になりたいのだろう? 不幸にならなければ、お前は自分が赦せない」
 陽菜はうつむく。図星だったからこそ、答えられなかった。
 ――幸せになってはいけない。
 家族や友人に囲まれて幸福を感じる度、そう言い聞かせてきた。兄は死んでしまったというのに、自分だけ幸福に生きていることが苦しかった。
 兄は幸せになれなかった。ならば、陽菜もまた不幸でいなければならない。
「死者を言い訳にするな。お前が幸せになっても不幸になっても、死んだ兄の責任ではない」
 カマルは困ったように眉を下げた。かさついた掌に頰を撫でられて、目の奥が熱くなる。
「小難しいことを考えて、勝手に哀しくなるのはやめろ。泣きそうな顔で歌われても、なぐさめ方が分からない」
「……泣きそうなのは、カマルでしょ」
 古傷が痛んで、眠れぬ夜を過ごし続けた魔王は笑った。
「言うようになったな。――陽菜。時が来たら、お前はここを去るといい」
「砂漠が滅びるときが来たら?」
「ああ。滅びる前に《湖城》にでも向かえ。そうしたら、いつか迎えに行けるかもしれない。あそこは美しい国だ。百年前、あの魔王を倒せば湖城が手に入ったと思えば、死んでも勝つべきだったな」
「カマルは、湖城の国を見たことがあるの?」
「魔王となる前の話だ。ナジュムと一緒に山を越えて、あのほのかに暗い、水のにおいのする国を見たときは驚いた。楽園があるならば、きっとあのような場所のことを言う」
 涸れた水路に潜む子どもたちや、城砦の外に転がった死体が脳裏をよぎった。宮殿の外には、いくらでも不幸が転がっている。
 砂漠は楽園ではない。彼らがそう思うのは、長く苦しんできたからに他ならない。
「本当に、そうなの?」
 だが、陽菜はカマルたちの想いすべてに同意することはできなかった。
「どういう意味だ?」
「あなたは、水が溢れて、緑があって、そういう場所が楽園だと思っているのかもしれないけれど。楽園って、幸せになれる場所のことだと思うの」
 この砂漠で幸せになることができたら、の国こそ楽園になるのではないか。
 砂漠が滅びるならば、滅びる前にできることがあるのではないか、と考えてしまう心を止められない。
「この国には水が必要で、滅びに向かっているのも噓じゃない。……でも、まだ何かできることがあるんじゃないかって思うの。魔法も使えない弱い魔族がいるって聞いた。言葉を知らないから、自分たちの飲み水も確保できないって」
「……水路の子どもたちか」
「魔法は言葉の力なんでしょ? なら、子どもたちに言葉を教えてあげるのはどうかしら。貧しい人たちに還元できるように、強い魔族から寄付を集めるような仕組みは? きっと、まだできることがあるはずよ」
「弱者を助けるのか?」
「助け合うのよ。弱い魔族だって砂漠のたみだもの。いつか、この国を楽園にしてくれるかもしれない」
 魔族たちは弱者を切り捨てる。だが、しいたげられる弱い魔族を救いあげることができれば、何かが変わるかもしれない。
 陽菜の膝から起きあがったカマルは、声をあげて笑いはじめる。次の瞬間、陽菜は強く抱きしめられていた。
「幸福は楽園にある。そう、ナジュムは信じていた。あれはずっと、この砂漠が楽園であることを願っていた」
「優しい人だったのね」
「ああ。弱いくせに優しくて、だからこそ可哀そうだった。お前たちは似ている。とても可哀そうで、とてもいとおしい」
 大きな身体に包まれながら、陽菜は気づく。
 カマルにとっての愛とは、弱者への憐れみなのだ。暴虐の魔王などと呼ばれるわりに、彼の心根にあるのはいつくしみの心だ。
 いつだって、カマルは陽菜を大切にあつかった。簡単に殺せる命をみ取らずにいてくれた。それこそが、カマルの愛情のあかしだった。
 ――与えられた愛情の分だけ、陽菜は同じものを返すことができているだろうか。
 カマルの傷に寄り添ってあげたい、傷ついた陽菜を彼が守ってくれたように。
 だが、自分を愛してくれた世界を捨てる覚悟が持てない。天秤にかけたとき、釣り合ってしまった。どちらとも大切で、どちらとも手放したくなかった。
 もとの世界に帰りたいと願いながら、帰りたくないと叫ぶ矛盾むじゅんした心がある。
 ここにいたい。この人の傍にいたいと思う心を捨てきれない。
 そして、叶うならば、この《砂漠》を楽園に変えたいのだ。カマルが安心して夜明けを迎えられるような、そんな場所にしてあげたいと思ってしまった。

◆◇◆◇◆

 夜更よふけの宮殿は、眠りに落ちたように静かだった。
 カマルの腕のなかでは、小さな娘が眠っていた。
 いつからだろうか、この娘がカマルの隣で眠るようになったのは。最初はあちこちを警戒して、毛を逆立てる猫のようだったというのに、今では安らかな寝息を立てている。
「カマル」
 睫毛まつげを震わせて、娘がカマルを呼んだ。
 それだけで胸が熱くなって、泣きたくなるような気持ちになる。この簡単に殺せるほど弱い娘を、殺せないと思い知る。
 娘の歌は、いつだってカマルに優しい夢を見せてくれた。
 ――助け合おう、と陽菜は言った。弱者が弱者として生きていけるように、皆で砂漠を楽園に変えていく、と夢物語を口にした。
 その夢物語にかれてしまう自分は、現実を見ない大馬鹿者なのだろうか。
 陽菜を起こさぬように、カマルは寝所から出る。廊下に立っていたのは、長い付き合いになる育ての親だった。
「中庭でいいか? 話があるのだろう」
 不機嫌そうに腕を組んでいたシャムスは、ひとつうなずいた。
 二人きりで夜の散歩をするのは久しぶりだった。最後にシャムスとこのような時間を持ったのは、ナジュムが死ぬ前のことだ。
 百年間。魔族にとって、それほど長い年月ではない。されど、ずいぶん遠くに来てしまった。この百年でうしなわれたものも、変わってしまったものも多すぎる。
「いつになったら、あの娘を手放すんですか。あんた、おかしいですよ。眠れるようになったのなら、もうらないでしょ? あんな素性の知れない娘。処分するのが嫌なら、こっちであの娘が生きる場所を用意しますから」
「眠れるようになっても、傍に置く」
「ばか言わないでくださいよ。あんたにあの娘は必要ない」
「必要かどうか決めるのは、お前ではない。俺だ」
 シャムスは苛立いらだっているのか、硬い尾を地面に叩きつける。この少年の皮をかぶった男は、これでいてカマルより年上だ。長生きをしている分、適当にはぐらかして本心を誤魔化すことも得意だった。
 彼がここまで素直に感情をあらわにするのは、いったい何百年ぶりだろうか。
 ナジュムが水源を道連れに自殺したときでさえ、彼は本心を見せなかった。傷ついたカマルを見守ることを選んで、自分の悲しみは押し殺してしまった。
 そんな男が、たしかな憎しみをもってカマルをにらんでいた。
「らしくないですよ、あんな娘に固執こしつするなんて。あんたが大事にすべきは、あんな娘じゃなくて砂漠の民です」
 カマルは目を伏せて、金の瞳をした娘を思い描く。
「太陽の、匂いがするんだ、あの娘は。歌を聴いていると痛みを忘れる。傍にいてほしいと思った。この娘がほしい、と」
「あんたの傍には、私やナジュムがいた。他は要らないでしょう? 私たち三人は、ずっと一緒だった」
「だが、壊れてしまった。もう三人には戻れない。……なら、俺は前に進みたい」
「は? ……あんたまで捨てるんですか、ぜんぶ。ナジュムのように! 新しいものなんて要らない。欲しいものなんて、あんたにはない。私たちは過去がいちばん幸せだった。それ以上のものなんて、もう手に入りやしない」
「手に入るかもしれない。時は戻らない、過去は覆せない。ならば、先を夢見て何が悪い?」
 シャムスは絶句していた。彼は傷ついたように、陽菜と同じ金の目を揺らす。
「あの娘のせいですか? あれが余計なことを!」
「違う。俺が未来を望んだだけだ」
 柘榴ざくろの木の下で、微笑んだ娘。陽菜はカマルを見上げるとき、その瞳に恐怖を映さない。はじめて会ったときから、彼女はカマルを恐れなかった。
 陽菜と一緒ならば、未来に進むことができるかもしれない。
「陽菜を知りたい。叶うなら、ともに未来を夢見たい」
 そのとき、シャムスの顔に浮かんでいたのは絶望だったかもしれない。
 カマルとシャムスの二人は、この百年間、過去に囚われていた。カマルが《湖城》の先代魔王に敗れて、ナジュムが水源を涸らしたときから、一歩も進むことができずにいた。
 止まっていた時間は、永遠に止まったままでいてほしかった。過去の幸福こそ至上のものであり、未来には幸せなどないと決めつける気持ちも、痛いほど分かる。
 だが、カマルはもう、過去こそ最も幸福な日々だったと信じることができない。
「やめろ、あんたの望みなんて聞きたくない!」
「俺たちは前に進むべきだ。今ならば、きっと進めるはずだ。たとえ、夢見た楽園がなくとも、この地で幸せになれる」
 がれた水の大地がなくとも、この地で生きていくことはできるかもしれない。妄執もうしゅうに囚われるのではなく、より良い未来へ進むために何かをしたい。
 ――余所から奪うのではなく、この国のためにできることがあるはずだ。
 シャムスは顔をゆがめた。泣きたいのに泣けない子どものようだった。
 瞬間、振りあげられたシャムスの尾が、カマルの首に刺さる。咄嗟に炎で払いのけたときには、すでに遅かった。
 視界が揺らいで、軽いめまいがする。立てなくなるほどのものではないが、わずかにカマルを足止めするには十分だった。
「どんなに弱いものであれ、あんたはやまいも毒も癒せない。それはナジュムの力だから」
 二人でひとつだった炎と癒しの魔族は分断された。カマルに残っているのは、すべてを蹂躙する炎だけだ。
 そのことを誰よりも知っているのは、カマルとナジュムを別の存在に変えたシャムスだ。
「さようなら。思い出を捨てるなら、あんたはもう私の王じゃない」
 何百年と連れ添った友は、実に呆気あっけなく、カマルのもとを去ってしまった。


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