白鷹の花嫁

5.呪われた街 | おしまい | 目次

  6.夜明けを迎える物語  

 シャムスが姿を消してから、数日が経過した。
 宰相さいしょうの不在は、すでに宮殿カスル中に知れ渡っていた。侍女じじょや兵士たちも不安そうに過ごしており、この数日間、宮殿は異様な雰囲気に包まれていた。
「カマルは?」
 陽菜ひなは夜の宮殿を歩きながら、カマルの居場所をたずねる。しかし、誰もが知らないと口を揃える。寝所しんじょを訪ねても不在にしており、何処どこにいるのか分からなかった。
 シャムスと一緒に姿を消したわけではないだろう。カマルの性格からして、宮殿をつときは陽菜に告げるはずだ。
 胸騒ぎがする。心臓から指先にかけて、不安が広がっていく。シャムスが失踪したことで、一番の衝撃を受けているのはカマルだろう。
「お嬢さん、ちょうど良いところに」
 陽菜を呼び止めたのは美しい青年だった。銀髪を風に流して、アーシファが手をあげる。
 陽菜は言葉を失くした。アーシファが連れていたのは、彼が恋人たちと呼ぶ片翼の奴隷たちだった。うつろな目をした彼女らは、人形のように黙り込んでいる。
「どうして、こんなときに宮殿に来るの?」
 おそらく、アーシファは、シャムスが失踪したことを知っているのだろう。彼の不在を狙ったような来訪に、不信感を隠せない。
「カマルに挨拶あいさつに来たんだ。お引っ越しの」
「引っ越し? あとにしてよ」
「あとにはできないよ、マディーナはそんなに持たないだろうから。ねえ、何処に行った方がいいと思う? 怖い睡蓮すいれんの魔物がいる《湖城こじょう》は追い返されそうだし、《渓谷けいこく鬱々うつうつしているから嫌い。いっそのこと《大河たいが》に行こうか。あそこはふところが広そうだ」
 直後、陽菜の鼓膜を揺らしたのは、花火をあげたような轟音だった。
「なに、あれ」
 空が赤く燃えていた。いな、燃えているのは空ではない。宮殿から見下ろした街のあちこちで、火の手があがっていた。
 夜にもかかわらず、まるで太陽が落ちたかのように、街は赤々と燃えていた。何もかも呑み込む炎が、砂漠の街を蹂躙じゅうりんしはじめている。
「街のあちこちで一斉に火の手があがったんだよ。僕のやしきも、暴徒のせいでひどい有様。こういう真似ができるのが、シャムスのいやらしいところだよね。あの人にとって、砂漠のたみを先導して、この国をひっくり返すくらい訳なかったみたい。年寄りって怖いなあ」
「……け、消さないと! カマルの、街が」
「消すための水もないのに?」
 陽菜はいまいちど言葉を失くした。アーシファが語るように、街を巡り、国をうるおしていた水源は、百年ほど前に涸れている。
 アーシファは肩をすくめると、奴隷たちと一緒に宮殿を進む。
「待って! アーシファ!」
 今のアーシファを、カマルと会わせるわけにはいかない。陽菜は一拍遅れて、アーシファを追いかけた。
 アーシファが向かったのは、陽菜が奴隷として買われた広間だった。
 最奥さいおう玉座ぎょくざには、ここ数日探し続けていた男がいる。
 カマルは何一つ表情の読み取れない顔をしていた。夜に君臨する月のごとき目は、ただ無感動にこちらを映している。
「何の用だ、アーシファ。お前が俺の前に姿を現すなど、いつぶりだ?」
「百年ぶりだよ。最後に会ったのは、片翼を失くしてナジュムの死体にすがりつくお前だった。あんな素敵な光景、忘れられるはずがない。みじめで可哀そうで、だからこそ、とてもお前たちを可愛いと思ったよ」
 カマルの瞳に、わずかに色が宿った。それは純粋な怒りだった。
「ねえ、カマル。可愛いは可哀そうなんだろう? お前が弱者を愛するのは、一瞬にしてみ取れる命だと知っているからだ。可哀そうなものがいとしいんだね? だから、僕はお前の真似をした。見てよ、僕の恋人たちは可哀そうで、いっとう可愛いだろう?」
 アーシファの背後に並んでいるのは、彼が恋人と呼ぶ奴隷たちだ。皆、一様にして片方の羽をむしりとられて、覇気のない顔をしている。
せろ」
「失せるよ。だから、別れの挨拶に来たんじゃないか。の国はもう終わり。シャムスの見た夢はついえる。他ならぬ、お前のせいで」
 アーシファは嘲笑あざわらう。楽しげに細められた目には、明確な悪意がある。
「アーシファ」
 いつも淡々と話す人だった。だが、今のカマルの声には押し殺せない怒りがあった。
「どうして怒るの? お前が悪いのに。湖城の魔王に負ける弱い魔物ジンだったから。結局、お前は何もかも不幸にしただけじゃないか! ねえ、街の様子を知っている? 涸れた水路でちた子どもたちの、城砦の外で干からびた魔族たちの最期の悲鳴を聞いたことはある? みんなお前が救えなかった命。だって、この百年間、お前は自分のことばかり。可哀そうなのも、あわれだったのも、お前だけじゃなかったのに!」
 舞台役者のように両手を広げながら、アーシファは哄笑する。
「黙れ!」
「街には炎が立ちのぼり、《砂漠》は再び不毛な大地に血を流す。お前が暴力をもって、此の国をまとめたときと同じだ。炎によって数多の部族を蹂躙して、燃やし尽くしたお前には、炎をもって終わる運命がふさわしい」
「お前に何が分かる。気まぐれに過ごしては、なにひとつ身を削らなかったお前に! シャムスの、俺たちの何が」
「分からないよ。でも、知っている。シャムスは魔王選びを間違えた。だから、責任をとって国を滅ぼそうとしている」
「……これが、あれの仕業しわざだとお前は言うのか」
「分かっているくせに。本当なら、もう少し保たれるはずだった《砂漠》に引導を渡したのは、あの人に決まっている。――ねえ、僕が魔王になってあげようか? シャムスに捨てられたお前には荷が重い」
 その直後のことを、陽菜は理解できなかった。ほんの一瞬のあと、耳をつんざく悲鳴が宮殿を揺らした。
 あたり一面が、赤い炎に包まれていた。
 熱さを感じていないのは陽菜だけだ。虚ろな顔をしていた奴隷たちでさえ、我先に広間の外へと逃げる。
 炎の中心で火達磨ひだるまになっていたのは、美しかった青年だ。
 絶叫が響く。弦楽器ウードのように澄んでいたアーシファの声は、しゃがれた老婆のようだった。彼は頭をかかえて叫び、ひざから崩れ落ちる。熱い、痛い、と叫んでいるのだろうが、咽喉のどが焼けただれたのか、理解できるような言葉にはなっていない。
 陽菜はまばたきすら忘れて、惨状のなか立ち尽くした。
 地獄が広がっていた。焼け爛れた肉のにおいに、吐き気が込み上げる。
 炎に包まれた人影が、ゆっくりと伏せていた顔を起こす。だが、もうそれは人の顔をしていなかった。爛れて黒ずんだ皮膚の中心で、宝石みたいな瞳だけが輝いている。
 黒焦くろこげになったアーシファが手を伸ばす。助けを求めるようなその姿に、思わず陽菜は駆け寄る。しかし、握ろうとしたアーシファの手が、ぼたり、と床に落ちた。燃え落ちてしまったのではない、いつのまにか近寄っていたカマルが剣で切り落としたのだ。
「カマル!」
 陽菜が叫んでも、カマルは止まらなかった。彼は床に転がったアーシファの手足を、次々にね飛ばしていった。
 肉を断つ音が鼓膜を揺らし、脳にこびりつく。それを彩る悲鳴は、最早もはや、人とも獣ともつかぬ化け物のものだった。
「やめて! 死んじゃう」
 震える足を叱咤しったして、陽菜は踏み出した。
 広間を満たす炎の熱さは、やはり陽菜には感じられなかった。舞い落ちる火の粉さえも、陽菜の柔らかな肌を傷つけない。
 だから、陽菜は確信した。この炎はカマルが生み出したものであり、彼が怒りを向ける相手だけを燃やすものなのだ、と。
「だめ。こんなことを、したらっ……!」
 誰かを傷つけて、そのことに傷つくのはカマルだ。彼の炎は、怒りにまかせて、憎しみと一緒に使うべき力ではない。
 カマルが砂漠の魔王として求められたのは、弱い魔族を守るためだった。力のないシャムスが、自分たちを守護する魔王を望み、カマルを王にしたのだ。
 誰かを傷つけるならば、それはシャムスたちが望んだ魔王ではない。
「ああ、そうか。弱いのだった、皆。簡単に壊れてしまう。……俺たちのそばにいてくれたのは、シャムスだけだった」
 カマルは自嘲じちょうした。涼やかな目元には涙の一滴もなかったが、泣いているかのようだ。独りきりで立つ背中に、胸が締めつけられる。
「わたしが! わたしが、傍にいる」
 必死の声は、カマルには届かなかった。何もかもあきらめて、彼は目を閉じた。そうして、広間から炎が消えていくと同時、カマルの姿も消えてしまった。
 残されたのは、消し炭となって床に転がったアーシファだけだ。炎に蹂躙された広間で、陽菜は膝をついて泣き叫ぶ。
 この地獄を生み出したのが、陽菜が好きになった男だった。
 地獄にとらわれた彼には、きっと陽菜の声は届かない。彼の一番柔らかい場所に手を伸ばしても、触れることさえかなわないのだと思い知らされる。
 傍にいてあげたい。だが、その願いすら彼には響かない。
「やはり、こうなると思った。ばかなのか? わざわざ魔王の怒りを買うなど」
 扉を蹴飛ばして、イトが広間に入ってくる。焼けげたアーシファに向かって、彼女はあきれたように溜息をついた。
「イト。もう……」
「このくらいでは死ねないさ。すぐ再生する。これの本性は形のないものだから、仮初かりそめの肉体が滅びても朽ちることはない。なあ、アーシファ。お前は名のとおりの魔族なのだから」
 アーシファとは砂漠の言葉で《嵐》を意味する。
「嵐? でも、そんなの生き物じゃないでしょ」
「だが、人間から信仰され、畏怖いふされるべきものだ。人間に想われる存在が、どうして魔族ではないと言い切れる?」
「それ、は」
「潮時だな。この国も、お嬢さんの噓も」
「……なに、言っているの?」
 イトは細い指先で、なぶるように陽菜の唇に触れた。
「私は噓が好きだよ。自分がつくのも、他人の噓に乗りかかるのも。だから、だまされてあげた。お嬢さんが同郷の者でなかったとしても」
 陽菜は血の気を失くした。
 イトは気づいているのだ。陽菜が彼女の出身である《神木しんぼく》の者ではないことを。そして、同郷ではないというのに、言葉が通じた理由にも勘付いている。
 陽菜が人間であり、おそらく《神木》と繫がりの深い土地――日本の生まれであることを知りながら、彼女はずっと茶番に付き合ってくれた。
「どうして、見逃してくれたの」
 人間である陽菜には、いくらでも利用価値があった。人間の世界から遠ざかってしまった今の魔界で、陽菜はさぞかし高値のつく商品となっただろう。
「お嬢さんの迎える結末が知りたかった。お嬢さんが幸福な《花嫁》となれるのか、それとも取るに足らないゴミとなるのか。退屈をまぎらわすには、ちょうどよい見世物だろう」
「わたしは、あなたの玩具おもちゃじゃない」
「玩具だよ、人間など。――宰相殿は姿を消した。じきに《砂漠》は崩壊する。わざわざ不毛な土地で商売をする理由はない。私たちと一緒に来るか? 商品としてなら迎えてやろう」
「あなたたちの奴隷になるつもりはない!」
「おかしなことを。今とて、お嬢さんは奴隷だろう。砂漠の魔王に守られて、何もせずに過ごしている。ただ願われたから歌っていただけ。そこに意志などない。ただの人形、誰かに言われなくては動けない子どもではないか」
 陽菜は反論できなかった。誰かにわれて、ようやく重たい腰をあげることができる。一人では何もできず、立ち尽くしては過去を悔いるばかりだった。
「ここで砂漠の崩壊を待つか、私たちの商品となるか。それさえも、お嬢さんは選べない」
 くすりと笑って、イトは広間から去った。彼女の所属する《椿つばき》の隊商は、このまま砂漠の国を出て、二度と戻らないつもりなのだ。
「あいかわらず嫌な女だね。これだから年増は」
 陽菜は肩を揺らす。振り返れば、しゅうしゅうと全身から音を立てたアーシファが、唇を吊りあげていた。
 驚くべきことに、彼の身体は少しずつ再生していた。切り落とされた四肢が生えてくるには至っていないが、爛れていた顔はもとの美しい輪郭りんかくを取り戻し、滑らかな肌がちらほら見えている。
「あー、だいぶ戻ってきたかな? イトの言うとおり、砂漠に残るのはおすすめしない。イトのとこが嫌なら、僕の恋人になる? 守ってあげるよ。一緒に砂漠から引っ越そうよ」
「絶対に嫌。……どうして、シャムスはこんな真似をするの」
 この騒ぎを先導したのが、あの少年とは思いたくなかった。
「カマルが前に進むことが許せなかったんだろうね。だから、愛した娘と心中することにしたんだよ。もっとも、娘はとうに死んでしまっているけれど」
 礼拝堂で水にたゆたう娘は、シャムスにとっては愛しい妻でもある。この百年間、生きている彼のかたわらには、時を止めた妻の死体があった。何も語らぬしかばねと向き合いながら、彼は長らく苦しんでいたのかもしれない。
「カマルを置いていくつもり? そんなに薄情な人だったの」
 だが、愛しい妻はいなくとも、大事に育てたカマルはともにあった。それにもかかわらず、シャムスは過去を見つめて、ナジュムだけを愛していたのか。
「逆だね。むしろ、あの人は情が深すぎるんだよ、生まれゆえに。ねえ、あの人と一緒にいて、おかしいと思ったことはない? あなたは気づくべきだったんだよ。どうして、シャムスがあなたを殺さなかったのか」
「カマルを眠らせるためでしょ?」
「それもあるだろうね。だけど、それだけじゃない。どう考えても無理のあるイトの噓に目をつぶって、あなたを受け入れたのは、シャムスが優しかったからだ。あなたの境遇に同情していたんだよ。突然、魔界に現れたと知っていたから」
「どう、いう」
 ふと、陽菜の脳裏をよぎったのは、礼拝堂での邂逅かいこうだった。兄を想って、兄の信じた天使――ナジュムに話しかけたときのことだ。
『分かっているの。兄さんは死んだ。死んだ人はこたえてくれない!』
 あのとき、陽菜は日本語を使っていた。砂漠の魔族たちにとっては、理解できない異国の言葉である。
『だめですよ、その娘はもう死んでいるんです。あんたの言うとおり死者は応えない』
 奇妙なことに、礼拝堂に現れたシャムスは、砂漠の言語でそう答えたのだ。
「シャムスは何? あの人、最初からわたしの言葉を理解していたのね。砂漠で生まれて、砂漠で育った彼が、どうして。はじめから、シャムスはぜんぶ知っていたの?」
 陽菜が《椿》の隊商の奴隷ではなかったことも、人間であることも理解していた。
「あの人はね、御伽噺おとぎばなしから生まれたんだよ」
 手足をがれて胴体だけになったアーシファは、歯茎をき出しにした。
「御伽噺?」
「遠い、遠い昔。この砂漠にまだたくさんの部族があったとき。とある部族に花嫁が迎えられました。花嫁は魔族の腕に抱かれて、その血を砂漠に流したのです」
 その物語は知っている。シャムスとの話題にあがった《花嫁》のことだ。
「人間を食べた魔族がいたってことよね」
「意外とおばかさんなの? 血が流れたっていうのは比喩ひゆだよ。骨をうずめたってこと。シャムスは人間と魔族の間の子どもなんだよ」
「え?」
「別に隠していることじゃないんだけど、そういえば知っている奴、ほとんど死んじゃったね。嫌だねえ、長生きすると昔馴染なじみが死んで、嫌な奴ばっかり残るんだ。あの湖城こじょうの魔王とか。いや、あの蛇はもう死んだっけ。奴隷に足をすくわれるとか笑っちゃうよね!」
「人間と魔族の間に、子どもができるの?」
「人間が望めば、それらしいものはできるよ。だって、僕たちは人間の想いによって生まれたんだから。望めば、あなただって子どもを授かれるんじゃないの?」
「待って、わたしが人間だって」
「気づいていないのは、バカなカマルくらいかな。あとは人間を見たこともない若い魔族? 僕は長生きしているからね。人間を見たこともあるし、食べたこともある。ま、ゴミみたいだったけれど。砂でも嚙んでいる方がマシ」
「じゃあ、わたしを欲しがったのは? 人間なんて興味ないんでしょ」
「あなたがシャムスに似ていたからだよ。僕はあの人が大好きなんだ」
「わたしが?」
 シャムスの顔立ちに、兄の面影おもかげを重ねたことはあった。兄と似ているならば、陽菜とも似ているのだ、と今になって思う。
「僕は人間なんてどうでもいい。十分強いし、カマルにちょっかいを出せば退屈せずに済む。恋人たちさえいれば、大好きなシャムスの気を引けるしね」
 なんて屈折した好意だろうか。
 アーシファが奴隷の羽をむしったのは、そうすることでシャムスの関心を引くためだった。シャムスが気にかける片翼の魔王――カマルと同じ姿をした奴隷をかかえることで、シャムスの意識を少しでも自分に向けるために。
「そんな、そんな理由で。あなたの恋人たちを見たとき、カマルがどれだけ傷ついたか! 翼を失ってから、ずっと苦しんでいたのに」
 百年間、カマルは夜に囚われていた。失った翼とうしなってしまった妹をいたんで、身も心もすり減らしていた。
「苦しんでいたのは、あいつだけではないよ。あのバカが負けたせいで、どれだけの魔族が苦しんだのかな?」
 水路の闇で息をひそめる子どもたち、城砦じょうさいの外で力尽きた魔族たち。砂漠の国には不幸が蔓延まんえんしていた。
「カマルもナジュムも、シャムスだって傲慢ごうまんだよ。勝手に三人で幸せになって、勝手に三人で不幸になった。そんな奴らの身勝手で、たくさんの命が奪われた」
 三人だけの狭い世界が、この《砂漠》のはじまりだった。故に、ナジュムが自殺し、水源を涸らしてしまった日から、彼らは身動きがとれなくなった。
 幸せだった過去が、彼らを不幸にする足枷あしかせとなってしまった。
「まあ、苦しんでいる奴らだって、弱いのが悪いんだけどね。でも、弱いものに願われて魔王となった男が、その子たちを見捨てるのは道理にかなっていない。美しくないよ」
「だから、あなたは魔王になりたいの? 弱い魔族を守るために」
 アーシファは視線を泳がせた。先ほどまで自信たっぷりに語っていた姿が噓のようだ。
「ええと、それとこれとは別? 僕、魔王になったら、カマルみたいに優しくはできないよ。可愛いのは自分だけだから、弱い奴らが死んでいったところで……」
 陽菜はひたいに手を当てた。深く息を吸ってから、片足を振りあげる。
「ぎゃあ!? 蹴らないでよ、暴力反対! すごく痛いんだよ。カマルの奴、火達磨にしただけでもひどいのに、手足まで刎ねていったんだ。簡単に再生できないように傷口も焼いて! この美しい僕の身体を好き勝手して!」
「元気そうね。しばらく、そのまま反省していれば? わたし、行くところがあるから」
「僕の邸にあった門に行くの? かつて、シャムスの親――僕たちの部族に舞い降りた《花嫁》が現れた門だ。もしかしたら、もう一度開いて、君の知る場所に繫がるかもしれないね」
 アーシファは微笑んでいた。意地の悪い笑みだった。
「わたし、あなたやイトの言うとおり《お嬢さん》だった。何もできない、何もしないまま、ただ与えられるのを待っていたの。ゆるされたいとか、幸せを祈りたいなんて綺麗事だけ言って、死んだ人を理由に立ち止まっていただけ」
 進まないことの理由に、死んだ兄を使った卑怯者ひきょうものだ。
 いつだって、何かにつけて兄を引き合いに出した。未来に進んではいけない、幸せになってはいけない、と自らを縛りつけたのは、他でもない陽菜自身だった。
「わたしは幸せになるの。兄さんに謝るのは、死んでからにする」
 そのためには、白い翼の魔王が必要だった。
 愛しているかは分からない。けれども、その傷や痛みに寄り添ってあげたいと想う気持ちが、愛でなければ何なのだろうか。
 彼を夜明けに連れていく。それができるのは自分だと、今の陽菜は信じることができた。

◆◇◆◇◆

 思い出はいつだって美しい。過去は決して、変わることのないものだから。
 だが、美しい思い出ほどカマルを傷つけるものはなかった。
 もう手に入らない、戻らないものを想うことは、愛おしいと同時にむなしかった。過去が幸せだったからこそ、喪われた今が不幸になってしまう。
 夜が明けない。暗闇に囚われて、いつまでも明るい場所に辿たどりつけなかった。
 カマルナジュムも夜の住人だった。あたたかな場所に手を引いてくれた人――太陽シャムスがいなければ、ずっとひだまりの優しさも、世界の美しさも知らなかった。
 もう、あの人の腕に抱かれていた小鳥ではない。
 それでも、あの人こそがカマルにとって道しるべだった。ナジュムが死んでからも、それは変わらないはずだった。
 金の瞳をした少女が、カマルの腕に舞い降りるまでは。

◆◇◆◇◆

 陽菜は息を切らして、通い慣れた寝所に飛び込む。
 室内のあちこちで燃える炎は、かつてシャムスがともした優しい魔法の炎ではない。その業火はすべてを蹂躙する暴力そのものであり、カマルという魔族が生まれた揺籃ゆりかごだ。
 されど、陽菜が炎の熱さを感じることはなかった。
「カマル」
 彼の炎が陽菜を傷つけることはない。炎だけではなかった。鋭い爪も太い腕も、決して陽菜を害することはなかった。
 いつだってカマルは優しかった。優しくて、それ故に人一倍傷つきやすい人だった。
 寝台に腰かけて、彼は顔をゆがめていた。血走った眼、痙攣けいれんする手足を見れば、彼に残された毒がどれほどのものか。
 百年前、片翼を失った日から、彼は蛇の毒に苦しんできた。
「歌え」
 短い命令に、陽菜は唇を閉ざす。寝台の前で膝をついて、うなだれる彼と視線を合わせると、乱暴に両肩を摑まれた。
「歌ってくれ。翼が痛む。もう、とうに失われているというのに痛みだけが消えない。目を瞑れば蛇のわらい声がする。湖城の魔王が憎い、あれさえいなければすべて手に入った!」
 陽菜は、はじめてカマルが取り乱す姿を見た。苦しげな姿も、優しく微笑む顔も知っていたが、こんなにも感情を剝き出しにしたことはなかった。
 カマルはいつだって大人だった。陽菜のような《お嬢さん》ではなかったから、苦しみも悲しみも呑み込んでしまっていた。
 その悲しみが、いま目の前にさらけ出されている。
「本当に? そんなのは違う。あなたが手に入れたかった幸せは、他人の幸せを奪うことだって気づいているの?」
 陽菜は《湖城》の国を見たことはない。カマルが楽園と呼び、焦がれ続けた湖に映る城など知らない。だが、それを奪って砂漠がうるおったとき、湖城に暮らす者たちの幸福は奪われる。
 何も変わらない。ただ、《砂漠》の代わりに《湖城》が不幸になるだけだ。
「黙れ!」
「黙らない。誰かの幸福を奪う権利なんて誰にもないのよ。どれだけ苦しくても、それは誰かを不幸にしていい理由になんかならない」
 誰かの幸福は、常に誰かの不幸の裏返しだ。陽菜の叫びは綺麗事でしかなく、強さこそが絶対である魔界では絵空事なのかもしれない。
 だが、傷ついた人も、哀しい人も、かなうならば生まれてほしくない。
「あなたが傷ついたように、誰かが傷つくの。痛い想いをしたのに、誰かを同じ目にわせるの? そんなの嫌よ。誰も救われないじゃない。あなただって、誰かを傷つけたことに傷つく」
 大切な人を喪った。兄の死は忘れ得ぬ傷となって、生涯消えることはない。
 だからこそ、陽菜は誰にも同じ想いをさせたくはない。
 苦しむのも哀しむのも、自分だけで良い。同じ気持ちを抱く必要などない。誰もが幸せに笑っている世界が、いちばんの理想だ。
「お前に何が分かる。失われていくばかりだった、望んでも手に入らないものばかり。奪って何が悪い? 水さえあれば、もうナジュムは裏切り者とそしられない。豊かでさえあれば、シャムスがあれほど苦しむこともなかった! 二人は想いあっていた。なのに、何故! どうして、幸せになれなかった?」
 遠い昔、彼らが過ごした日々を想像して、陽菜は歯を食い縛った。とても幸福な日々であったことは疑う余地もない。
 一人の少女が喪われた。彼女が無事であったならば、三人は今も幸福に身をゆだねていた。
「そんなの、分からない。でも、ここで立ち止まったら、ぜんぶダメになる。あなたの大事な親友も、大切な半身もむくわれない」
 陽菜は彼の頭を摑んで、無理矢理引き寄せた。
「あなたは強い。その力を、誰かを守るために使ってきた。それだけは、これからも変えちゃいけない。なら、シャムスのところに行かないと」
 どれだけ他国からあなどられようとも、この国は何百年と続いてきた。いくつもの部族を統一し、他国から支配されないだけの力を、カマルは魔王として維持した。
 それは決して、カマルだけの功績ではない。彼が守ってきた魔族が、彼を王としてあがめ、支え続けた結果だ。今は崩れてしまっても、彼が国を守った時間が噓になるわけではない。
「守ったことなどない。この力はいつだって、誰かを遠ざけた」
「違う。あなたの傍には、いつだって誰かが寄り添っていた。いまだって、わたしがいるのよ」
「お前は砂漠の者ではない。ここにとどまる理由がない」
「……あなたが買った、奴隷なのに?」
 陽菜の命を握っていたのは、他でもないカマルだ。
「身体を縛ることはできても、心までは縛れない」
 少ない言葉から、陽菜は彼が何を求めているのか察した。口下手くちべたな彼は、おそらく自らの想いの正体すら気づいていない。
 この男の人は、ずっとさびしさを抱えていたのかもしれない。
 弱者のようにしいたげられることはなかった。しかし、生まれたときから強かったが故に、彼は常に遠巻きにされた。寂しいと口にするには、あまりにも時が流れすぎている。五百年以上もの長い時間を生きているカマルが、今さら、そんな想いに気づけるとも思えない。
「ここがお前の故郷なら良かった。そうしたら、何処にも行かない」
 すがりつくように、カマルは陽菜の首筋に頰を寄せた。熱い吐息と、背中にまわされた腕の強さにめまいがした。
 ――夜明けがほしい、と身を小さくした男の人。
 誰かに傍にいてほしいのに、その孤独を認めることも打ち明けることもできず、夜に囚われてしまった哀しい人だ。
 彼の背に手を伸ばして、失った翼の代わりに残された傷痕きずあとに触れる。
 水路を辿り、砂漠を侵略しようとした《湖城》の魔王を思う。すでに玉座ぎょくざを追われており、今の魔王はカマルと熾烈しれつな争いをした魔族ではない。
 いまはいない《湖城》の先代魔王は、毒を持った蛇の魔族は、大きな爪痕だけを《砂漠》に遺していった。
 猛毒におかされ、死のふちをさまよったカマルは、生還した今とて後遺症に苦しんでいる。夜毎よごとに失われた翼が痛むのだという。蛇の毒牙どくがにむしばまれた翼は、とうにナジュムによって奪われたというのに、ないはずの翼が痛むのだ。
 痛むのはきっと、奪われた翼が、半身を喪った記憶に繫がるからだ。
「太陽のような娘だと、はじめて会ったときから、ずっと思っていた。お前の瞳は夜明けの色、お前の歌は俺に優しい朝をくれた」
 家族の誰とも似ていない金の目を、彼は夜明けの色だと言う。兄の死のきっかけとなった歌を、朝を連れてきてくれる優しいものだと言うのだ。
「好きだ。俺を選んでほしい」
 亡くなった兄が信じた天使が、ナジュムならば――。
 陽菜の信じる天使は、きっとカマルと同じ姿をしている。
 はじめは、美しい翼に心かれた。だが、ともに過ごしているうちに気づいた。美しいのは姿かたちではない。彼の本当の美は、その心根にある。
 暴虐の魔王は、その実、とても優しかった。
 魔界では当たり前に淘汰とうたされるべき弱者を、彼は責めない。
 カマルは自分が強いことを知っているからこそ、他者に強さを求めなかった。そのままでもいいと彼は赦す。それどころか、足りない部分を埋めてもらうことをためらわない。
 そんなことをされたら、誰だって彼をしたってしまう。
 価値のない存在と思っていた自分を、価値あるものとして頼ってくれるのだから、力を貸したいと願うだろう。陽菜だけではなく、多くの者がカマルに救われたはずだ。
 愛しい人たちの顔が、走馬灯のように駆け巡った。大切に育ててくれた両親、傍にいてくれた姉たち、優しかった真由子まゆこ、いまの陽菜を形づくってくれた人々の顔が浮かぶ。
 カマルを選んでしまえば、永遠に会うことはできない。
 陽菜は顔をあげた。こらえた涙が頰を伝う前に、震える唇を開く。
「わたしも、あなたが好き。だから、この《砂漠》であなたを幸せにしてあげたい。……あなたの幸せには、シャムスが必要よ。死んでしまったナジュムだって」
 好きと告げたとき、引き返せなくなる。そのとおりで、もう陽菜は選んでしまった。もとの世界を、生まれ育った場所を捨てる覚悟を決めてしまった。
 微笑む大切な人たちよりも、この男の傍にいたい。
「あなたを夜明けに連れていってあげる」
 陽菜は自らの手を、そっとカマルの掌に重ね合わせた。

◆◇◆◇◆

 礼拝堂の扉は、もとは固く閉ざされていた。扉に刻まれていた文字こそ、この礼拝堂をシャムス以外が入れぬようにする魔法だったのだろう。
 魔法は言葉でつむいで、言葉で解くものだ。礼拝堂を閉ざした魔法が日本語で紡がれたものならば、それを解くことができるのも日本語をあつかう者――シャムスだけだったのだ。
 シャムスの片親は、おそらく陽菜と同じ日本人だった。
 扉に刻まれた魔法を読みあげれば、紡がれた魔法は解かれる。
 礼拝堂は荒れ果てていた。シャムスの仕業なのか、天井は半壊し、められていた色ガラスは無残に砕けている。
 シャムスは砂の代わりに水のめられた、少女のたゆたう砂時計の前に立っていた。
「カマルが来てくれましたよ。百年ぶりの再会ですね、ナジュム」
 振り返った彼は、愛おしげにカマルを見つめた。
「街の暴動はお前の仕業だろう。もう、この砂漠を愛せないか? 俺が魔王でいることが許せなくなったか」
「……? ああ、そんな勘違いを。あんたは優しい子ですからね。この前はすみません、年甲斐としがいもなく怒ってしまって」
「シャムス!」
「あんたは理想の魔王でした。私の思い描く、最上の。――けれども、これ以上は耐えられない。ナジュムを愛しています。この子が罪を犯したならば、その罪ごと私も死んでしまいたい。たぶん、ずっと、百年も前からそう思っていた。生きているあんたのそばで、死んでしまった女のことばかり考えていた裏切り者だった」
 シャムスは金の目から涙をこぼす。まろい少年の頰を、次々と透明なしずくが伝った。
「あんたは王になんてなりたくなかった。私がそれを望んだから、叶えてくれただけです。優しい子、あんたもナジュムも、私なんかよりよほど優しく清らかだった」
「俺は……」
 カマルが言いよどんだのは、図星だったからだろう。彼は自ら魔王になることを望んだわけではない。三人で過ごすために、魔王という座について、小競こぜり合いの絶えなかった砂漠を統一した。
「もう、いいんですよ。私たちの我儘わがままに付き合って、こんな不毛な土地にいる必要はないんです。ナジュムの呪いは、私が引き受けます。この《砂漠》は私が創った箱庭、終わらせるのも私の役目。――だから、あんたは外へ。余所よその土地で、その太陽のような娘と幸せになりなさい。あんたを夜明けに連れていくのは私じゃない」
 太陽シャムス。陽菜と同じく太陽の名を持つ少年は微笑む。
 まだらに硬化したよろいのような皮膚、強靭きょうじんなサソリの尾、はさみ状の手、どれをとっても異形いぎょうめいた姿だというのに、はっとするほど人間らしい表情だった。
「さようなら」
 別れの言葉に、カマルは動けない。シャムスは彼にとって最良の友であり、幼い頃からの導き手だった。
 だが、ここで踏み出さなければ、彼らの関係は永遠に救われない。陽菜はカマルの手をとって、祈るように胸元に引き寄せる。
 カマルは痛みに耐えるかのように、眉根を寄せた。
「俺は未来に進みたかった。だが、それは過去を捨てるという意味ではない。俺たちは幸せだった。なら、不幸になどなってはいけない。幸福な過去を抱いて、よりよい未来を目指さなければ。きっと、ナジュムならそう言う」
「……あんたを裏切った半身を、今も信じるんですか?」
「ナジュムは裏切ってなんかいない!」
 堪えきれず、陽菜は叫んでいた。
戯言ざれごとを。この娘は水源を涸らした。砂漠に生きる魔族たちを呪った。それが裏切りでなく、何だというのですか」
 陽菜は必死になって、頭を回転させる。
 そもそも、水源を涸らしたという表現に違和感があったのだ。涸れるも何も、ナジュムの死体とともに水は存在している。
 優しい娘だったという。本当に彼女が砂漠に呪いを遺したのか。
 ――兄の信じた天使。病毒をいやすものとして信仰された存在が、そんな真似をするのか。
 彼女は奪うのではなく、いつだって救いあげるものだった。そう望まれていた魔族だ。
 ずっと、陽菜はナジュムの呪いが存在するものと考えていた。けれども、呪いなど本当は存在しなかったのかもしれない。
 ナジュムが身を投げたのは、余所の魔王がこの国を侵略したときのことだった。水路を辿って現れたその魔王は猛毒を持っており、カマルが片翼を失うきっかけともなった。
「……呪いなんて、最初からなかった。ナジュムが水源をだめにしたんじゃない。彼女は毒のせいでだめになった水源を癒すために身を投げた」
 前提が違った。陽菜たちは起こった出来事の因果いんがを勘違いしていたのだ。
 ナジュムが身を投げた結果、水源が涸れたのではない。水源を涸らす――毒に冒された水源を封じるため・・・・・・・・・・・・・・に、ナジュムは自らの命をささげた。
「水源は、この国の命そのものだったんでしょ? 毒に冒されていたなら、どれだけの魔族が死んだか分からない。だから、封じるしかなかった。水を解毒するために、ナジュムは」
 彼女はその命をもって、水源を浄化することを選んだのではないか。
 水路を通って現れた侵略者、かつての湖城の魔王は猛毒を持つ魔族だった。狡猾こうかつな他国の魔王は、そのとき砂漠の水源をも毒で汚染した。
 カマルは瀕死ひんしの重傷を負い、頼みの水源も毒されたとなれば、とれる手段は限られる。
 これ以上の被害を食い止めるために、直接的な力を持たないナジュムは自らを犠牲にすることを選んだ。
 彼女に毒を癒す力があったとしても、陽菜は驚かない。
 カマルとナジュム、もとは同一の存在だった彼らは、二人とも同じように炎と癒しの力を持っていたという。しかし、二人が分かれたことによって、ふたつの力は分断された。
 カマルは炎、ナジュムは病毒を癒す力に。
 カマルの翼を奪った理由も同じだ。毒が全身にまわる前に、湖城の魔王にまれた翼を切り離した。後遺症こそ残ったが、彼の命が助かったのはナジュムのおかげだ。
 シャムスは青ざめる。陽菜の口にした可能性に、彼もまた気づいたのだ。
 もしかしたら、彼は気づいていながら、見ないふりをしていたのかもしれない。愛した娘の死を認められず、置き去りにされたことが許せなくて、彼女を裏切り者とののしった。
「そんなこと。そんなこと信じません! ナジュムは裏切ったんです。私たちの夢を、三人で生きるための約束を捨てて」
「違う! どうして、逃げるの。あなたがいちばん彼女を愛していたのに。だから、名前をあげた。二人から三人になりたかったんでしょう」
 かつて、カマルとは二人でひとつの魔族を示す名だった。鏡合わせの男女は、月の名を冠するひとつの存在だったのだ。
 彼らが分かれたのは、ある男がそう願ったからだ。
 彼らの片割れを愛して、その存在をナジュムと名づけたからだった。半分ほど人間の血を継いだシャムスの愛は、そのままナジュムという存在を創り出した。
 人間の想いの強さが、魔族を形づくるように。
 半分とはいえ人間の血を継いだシャムスの心が、ナジュムという魔族を誕生させた。
「ナジュムは弱くなかった。強かったのよ、だから選んだの。それを否定しないで。愛する人たちに誤解されたままなんて、嫌よ」
 兄の信じた天使。その清らかな心は、ずっとここにあった。誰よりも大切だった二人には届かなくとも、彼女は祈り続けていた。
 シャムスが唇を嚙んで、恐る恐る両手を伸ばした。
 砂の代わりに水の籠められた砂時計で、少女はまどろんでいる。異形の掌で、シャムスは彼女を閉じ込めるガラスに触れた。
 瞬間、たゆたっていた水が、ぴたりと静止する。
 そうして、ガラスは粉々に砕けた。星屑ほしくずのように散ったガラスから溢れた水は、天上へと立ち上っていく。天から降り注いだのは、街の炎さえ消してしまう激しい雨だった。
 そのとき、陽菜は美しい娘の幻を見た。
 薄く形の良い、カマルそっくりの唇が震える。彼女は大切な人の名を呼んでいた。閉ざされていたまぶたが開いて、しなやかな手がシャムスの頰を包む。
 彼女はそっと、愛しい少年に口付ける。
 微笑んで、その瞳は閉ざされた。呆然と立ち尽くすシャムスへと、力の抜けた少女の肢体がくずおれる。
 冷たい、体温などすでに残っていない少女を搔き抱いて、シャムスは声をあげて泣いた。
 少年の慟哭どうこくを慰めるように、雨は降り続いた。乾いた砂の大地にしみこんでいく雨は、やがて干からびた水源をもとに戻すだろう。
 涸れていた砂漠の水は、思い出したように流れはじめる。
 幸せだった三人が過ごした、かつてのように。


5.呪われた街 | おしまい | 目次
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