白鷹の花嫁

6.夜明けを迎える物語 | 後日譚:月のための夜想曲 | 目次

  おしまい  

 煌々こうこうとした月明かりが、宮殿カスルの門を照らしていた。
「ずいぶんと晴れやかな顔だ。あまり面白くないな、お嬢さんは悩んでいるときの方が魅力的だった」
 奴隷商のイトは、不健康そうな青紫の唇を吊りあげる。
「その方が楽しいだけでしょ? あなたが」
 長く生きた魔族の考え方が、少しだけ理解できる気がした。
 イトもアーシファも、なまじ力が強いため、長い時間を生きざるを得なかった。単調に続く日々はやがて退屈なものとなり、心はんで、汚泥おでいのようによどみはじめる。
 ゆえに、自らをたのしませてくれる玩具おもちゃかれるのだ。
「あなたは悪い人なんだと思うの」
「何をいまさら。善人に奴隷商は務まらない」
「でも、感謝しているのよ。あなたのしていることは、ひどいことだと思うけれど。――あなたのおかげで、わたしはカマルと出逢えたから」
「お嬢さんが幸運だっただけだ。その髪飾りも含めて」
 陽菜ひなは頭に手を伸ばし、椿つばきのピンに触れる。椿の花が好きだったのは、大切な人と同じ名前だからだ。真由子まゆこたちが誕生日プレゼントに選んでくれたのも、偶然の結果ではない。
 死んだ兄の名を椿つばきという。花の落ちる様ではなく、椿寿ちんじゅ――長寿の意にあやかって、病弱な彼が長生きできるようにと付けられた名だった。
 死者は語らない。だが、あの優しい人は死してからも陽菜を守ってくれたのかもしれない。
「これから何処どこに行くの?」
「相棒を迎えに《大河たいが》まで。そのさらに向こう、閉ざされた島国にもいつか帰ろう。お嬢さんを見ているとなつかしくなった」
 イトの故郷は、《神木しんぼく》の名を冠する島国だ。そこでは、魔族はあやかしと呼ばれている。美しい異形いぎょうたちが暮らす国を想像しようとして、陽菜はすぐにやめた。
「なら、わたしの分まで見てきてくれる? あなたの故郷を」
「自分で見に行くとは言わないのだな」
「だって、その国にはわたしの大事なものはないから」
「だが、最もお嬢さんの故郷と似ている。あの土地ならば、帰るすべもある」
「くどい。あなたとは行かないって言っているの」
 たとえ、生まれ育った日本と近しい文化を持つ国だったとしても、そこに帰る術があるのだとしても、これから一生、陽菜とは縁のない国だ。
「残念だ。……また、とは言わない。どうせ、もう会わない。次に砂漠を訪れたとき、お嬢さんは死んでいるだろうから」
「そうね。人間の命は短いから、あなたたちと違って」
「だが、その短さこそ、弱さこそ神に愛されたあかしだ。さようなら、お嬢さん」
「ばいばい、イト」
 最後まで陽菜の名を呼ぶことのなかった蜘蛛くもの魔族は去っていく。仲間たちと合流した彼女を見送ってから、陽菜は振り返った。
「心配しなくても、イトについていったりしないのに。カマルは信じてくれたのに、あなたは疑り深いのね」
 門の陰にいた少年は、サソリの尾で地面を叩いた。
「心配なんてしていません」
 なく言い捨てたシャムスの顔は、やはり亡くなった兄と似ていた。この少年を前にすると落ちつかないのは、そのせいもあるのだろう。
「じろじろ見ないでください、うっとうしい」
「ごめんなさい。でも、懐かしくて。やっぱり兄さんと似ているもの」
 前髪を搔きあげながら、シャムスは溜息をひとつこぼした。
「ああ、もう。教えるつもりはなかったんですけどね。――それ、間違いではないと思います。あんたと私は血が繫がっているんですよ、きっと」
「え?」
 間抜けな声をあげた陽菜の唇に、はさみ状の指があてられた。

 わたしの可愛い小鳥さん
 羽を休めて、この指で
 何も持たないわたしでも
 あなたの止まり木にはなれるから

 わたしの可愛い小鳥さん
 目を閉じて、この胸で
 何も見えないわたしでも
 あなたの揺籃ゆりかごにはなれるから

 わたしの可愛い、月の小鳥
 おやすみなさい、良い夢を
 あなたを夜明けに連れてゆくから

 シャムスは歌う。よどみなく、彼が知るはずのない陽菜の家に伝わっていた子守唄を。
「もともと、カマルとナジュムに歌っていた子守唄です。ただ、娘にもよく歌ってあげましたよ、ナジュムが。――昔、魔界と天界の境目は曖昧あいまいで、今よりずっと近かった。人間が魔界に落ちてくるように、魔族が天界に渡ることもありました。私とナジュムの娘は、天界に渡っているんですよ」
「子どもが、いたの?」
 シャムスは涼し気な顔でうなずいた。思い返してみれば、シャムスは自分の子どもについて、カマルとナジュムだけとは言っていない。
「魔族は、たいていは自然に発生するものです。近しい種や類型なら子どもが生まれることもありますけれど、そう多くはない。……ただ、私は人間の血を継いでいますからね」
 だからこそ、明らかに異種であるナジュムとの間に、子どもがいたのだと彼は語る。
 陽菜は生まれ育った土地を思い出した。
 陽菜の故郷に伝わる天使は、魔界から天界に渡ったシャムスとナジュムの娘だったのかもしれない。それならば、教会にあった天使像がナジュムとうり二つだったこともうなずける。
「あんたは、ほとんど人間です。でもね、あんたの血は、私たちを憶えていたのかもしれない。……そもそも、純粋な人間に魔法は使えないんです。あんたが礼拝堂の扉を開けられたのも、あんたの歌がカマルを眠らせたのも、薄くとも魔族の血を継いでいるからだ」
 陽菜の瞳は、シャムスと同じ金色をしていた。そして、兄の面影おもかげを感じる顔立ちは、陽菜とも重なる部分があるということだ。
「シャムス、おじいちゃん?」
「祖父なんていうほど近い血ではないんですけど。まあ、これも運命なんでしょう。長い時間をかけて、あんたは《砂漠》に帰ってきたわけだ」
「ナジュムが連れてきてくれたのかも」
「そうかもしれませんね。彼女、そういう陳腐ちんぷな物語が好きでしたから。物語の最後は必ずめでたし、めでたし、でなければ気が済まない女だったんですよ」
 思い出を手繰たぐり寄せるように、彼は目を伏せた。その横顔には、もう暗い影はない。
 明けない夜にとらわれていたのは、カマルだけではなかったのだろう。だが、シャムスに夜明けは必要ないのだ。彼が寄り添いたいのは、闇夜にまたたいた美しい星だった。
 永遠に朝が来なくとも、彼は夜を生きていく。自らの名と同じ太陽が昇ることはなくとも、優しい星明かりがいつまでも彼を照らす。
 過去に囚われるのではない。過去と一緒に、シャムスは未来を夢見るだろう。
「カマルなら中庭でぼけっとしていましたよ。行ってあげてください。あんたの歌がないと、ろくに眠れないんでしょうから」
「そう? もう眠れる気がするけれど」
「いいから行けって言っているんですけど」
 乱暴な口調に苦笑いして、陽菜は駆け出した。中庭までの道すがら、侍女じじょたちが転びますよ、と声をかけてきたが、今日ばかりは見逃してもらうことにする。
 月明かりに照らされた庭園、柘榴ざくろの木のもとに男が立っていた。
「まだ寝ていなかったの?」
 振り返ったカマルは、陽菜に気づいていたのか、特に驚いた様子はない。
「歌を聴いていない」
「聴かなくても、もう眠れるでしょ?」
 カマルを縛りつけていたのは、その身に受けた毒の後遺症だけではない。本当の意味で彼を夜に閉じ込めていたのは、幸せだった過去を失くしたとき心に負った傷だ。
 ナジュムの呪いが解けた今、彼を縛るものはないはずだ。
「お前の歌で眠りたい」
「わたしの歌、好き?」
「お前が好きだから、お前の歌も好きだ」
 カマルは陽菜の唇を指でなぞった。まるで壊れ物をあつかうかのように、その指先は優しかった。本来であれば、陽菜の唇どころか、全身を燃やしてしまう力を持っている彼を、やはり怖いとは思えなかった。
 その身に宿る炎は、決して陽菜を傷つけない。
「あのね。わたし、人間なの」
 カマルは目を見張ってから、ゆっくりと首をかしげた。
「そうなのか?」
「気づかなかったの? あれだけ一緒にいたのに」
「綺麗な娘だとは思っていた。そうか、人間なのか」
「食べちゃう? わたしのこと」
 カマルは考え込むように、まばたきを繰り返した。
「お前が死んだら、そうしよう。しかばねであろうとも誰にも渡したくはない」
 物騒な告白だったが、嬉しく思う時点で陽菜の負けだ。死んでもそばにいてくれるならば、望むところだった。
「ひとつ残らず食べてね。あなたが優しくて、いつまでも強い人でいられるように、あなたを信じるから。そうしたら、《花嫁》みたいになれるでしょ?」
 魔族は自分を信じてくれる人間の血肉を食べると、強くなれるのだという。ならば、陽菜がカマルを想う限り、この血肉は彼のかてとなるはずだ。
 魔族に力を与える《花嫁》に、陽菜もなれるかもしれない。
「どうして、泣きそうな顔をするの?」
 カマルは泣きたくても泣けない、迷子の子どものような顔をしていた。
「分からない。幸せだからかもしれない。――幸福は楽園にある、とナジュムは言った。俺は楽園を知らなかった。だから、美しい湖に浮かぶ城がそうだと考えた」
 陽菜は不思議だった。楽園など、すぐ傍にあるではないか。
「楽園なら、ここからはじめましょう? わたしとあなたがいるこの砂漠を美しい楽園にするの。湖に映る城なんて必要ないのよ。自分たちの居場所も、幸せな国も、自分たちで創っていけるから」
 カマルの瞳には戸惑とまどいがあった。彼の過去を思えば当然だろう。
「……俺に、できるのだろうか」
 彼に宿るのは暴虐の炎だ。弱者を守るために振るったところで、何もかも蹂躙じゅうりんする力であることに変わりはない。築くのではなく、すべてを燃やす業火だ。
 だが、陽菜はその炎が優しいものであると信じている。
「大丈夫よ、一人じゃないもの。あなたが不安になる夜は、ずっと歌ってあげる」
 亡くなった兄は、陽菜の歌が誰かを救うものであることを願っていた。その願いを思い出すことができたのは、カマルが求めてくれたからだ。
 この人のために歌い続けよう。この歌が祈りとなって、彼の力となるように。
「だから、一緒に楽園を創ろう? あなたとわたしだけじゃない。みんなが幸せになるために。わたしも砂漠を愛するから」
 不毛な大地と言いながらも、カマルはこの地を捨てなかった。捨てられないほどに愛して、誰よりも想っていたからだ。
 陽菜もこの地を愛していく。恋した男が守り、いつくしんできた魔族ごと。
「なら、お前の捨てたものを教えてほしい。俺も、お前の大切な人々を、お前の生きた場所を愛したい」
 陽菜は泣き笑いする。彼は陽菜の愛するものを大事にしてくれる。この先もずっと変わらない。
 二人が寄り添う夜の先には、何が待っているのだろう。きっと幸福な朝が待っていると信じることができた。
 捨ててしまったものの痛みも、愛してくれた人たちのもとへ帰らぬ罪さえも抱いて、陽菜は幸せになるのだ。
 陽菜は爪先つまさき立ちになって、カマルの背に腕をまわす。この白い翼に抱かれて、何度でも夜を越えよう。
 きっと、過去も未来も、傷も痛みもすべて愛していける。
「一緒に夜明けを迎えましょう」
 片翼の魔王は微笑んで、花嫁の首に頰をすり寄せた。







あとがき

再掲にあたり、お付き合いくださった読者様に御礼申し上げます。
心の在り方も、命の長さも違う二人が手を繋いで、同じものを愛して、同じ幸福を分け合う、
そんな優しさのある物語であれば、と。
いつか別れが訪れたとしても、ふたりは幸せに生きると思います。

『白鷹の花嫁』は、2018.2.23~3.30 WebマガジンCobalt様で連載していた物語です。
公開期間終了から1年、何処かで読めるようにしたくて個人サイト再掲となりました。
もし気に入ってくださったら、他の方にご紹介いただいたり、
編集部様まで御葉書や御手紙いただけると嬉しいです。


WebマガジンCobalt様での連載当時から、文庫化等の予定なかった物語です。
なので、作者個人の我儘でしかないのですが、何かしらの形で発刊できないかな、と
いろいろと未練のある物語でもあります。
もし気に入っていただけたら、応援していただけると嬉しく思います。


2019.10.23 東堂 燦



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