太陽の眠る揺籃歌
砂漠の夜に、白い月が昇っていた。
冷たい風に打たれながら、カマルは
宮殿の中庭に立った。
柘榴の大樹に背を預けて、
夢現をさまよっていると、よく知った気配が近づいてきた。
「ばか」
ライラは泣きながら、カマルの膝を蹴りつけた。
「眠れなかったのか?」
「だって、もう母上が歌ってくれないんだもの」
母親そっくりの娘は、真っ赤に泣き腫らした目をしている。涙の痕が消えない頬を、次々と新しい涙が濡らしていった。
「母親の子守唄がないと眠れない年ではないだろうに」
「子守唄が必要なのは、父上でしょう⁉ ……っ、どうして、泣かないの? 薄情者。ひどい。どうして、探してくれなかったのよ。母上を長生きさせる方法を」
カマルの胸倉を掴んで、ライラは嘆く。母親の死を受け止めることができず、嗚咽まじりにカマルを詰った。
「あれは人間だ、俺たちとは異なる生き物だった」
「そんなの分かっている! だから、魔族と同じにすれば良かったでしょう⁉ そうしたら、今も一緒にいられたのに。父上だってその方が良かったって、思うでしょう」
「思わない。お前の母は、今宵、死ぬべき命だった」
涙で潤んだ金色の眼が、悲しみで揺れた。子どもの頃のように頭を撫でてやると、乱暴に振り払われる。
「なら……っ、せめて、何か遺してくれたら良かったのに。なにも遺らなかったじゃない。父上が、ぜんぶ独り占めしたから」
「それが約束だった」
カマルが首を傾げると、ライラは目を吊りあげた。
「どうせ死んじゃうなら、せめて、この国に埋めてほしかったの‼ お墓を建てて、いつでも母上のことを感じられるようにしてよ。なんで、ぜんぶ独り占めしちゃうの? ばか! 大嫌い!」
ライラは叫んで、カマルから逃げるように宮殿に帰った。ぴいぴいと泣く姿は、年相応の娘ではなく、もっと幼い雛鳥のようだった。
「悲しむことはない。そうだろう?
陽菜」
カマルは目を閉じる。瞼の裏で、愛しい妻が微笑んでいた。
◇◆◇◆◇
贅を凝らした
室に、か細い寝息だけが響く。
カマルは天蓋付きの寝台を覗き込んだ。精緻な刺繍された敷布のうえに、小柄な女が横たわっていた。
鉤爪が刺さらないように気をつけて、頬を撫でてやると、女はまどろみから目を覚ます。
「おはよう、
陽菜」
耳元に唇を寄せると、くすくすと可愛らしい笑い声がする。出逢った頃から変わらず、彼女の声は鈴が鳴るように可憐だ。その声を聴いていると、どんな悪夢も見ずにいられた。
「おはよう、で合っているの?」
「……
室の外は、もう夜だな」
陽菜の金色の目には、もう何も映らない。一日の大半を眠って過ごすようになった彼女は、いまが夜か朝かさえ分からないのだ。
「あの子の名前と同じね」
夜。一人娘の名を呼ぶ声とき、陽菜の声はいつも甘く、溢れんばかりの愛情が籠められていた。そっくりの
母娘がじゃれ合う姿が、カマルはことさら好きだった。
「さきほどまで、ライラがいたのか? 廊下まで声が聞こえてきた。誰に似たのか、あれは
喧しいな」
「元気があって、安心するでしょ?」
「お前はライラに甘い」
陽菜はきょとんと目を丸くする。
「甘いのは、あなたも同じよ。……あの子、泣いたの。可哀そうなくらいに」
「置いていかないで、とでも言ったのか?」
図星だったのか、陽菜は困ったように眉を下げる。
「ねえ、カマル。約束を憶えている?」
カマルは頷いて、彼女の頬に口づける。久しく太陽の光を浴びていない頬は青白く、血の気がなかった。それでも、その膚からは、あたたかな
陽の匂いがした。
「忘れたことはない」
陽菜は嬉しそうに、最期の力を振りしぼるように瞬きをした。
「死んでも、
傍にいてくれる?」
「誰にも渡さない。
屍であろうとも」
きっと、ライラは理解してはくれないだろう。母親の何もかも独り占めにして、娘のために遺そうとしなかった、と父親を詰る。
だが、この約束だけは違えない。二人が共に生きてゆくために交わした約束だった。
「俺は、お前を大事にしたと胸を張ることができる。だから、謝らない。お前の死を嘆くことも、悲しむこともない」
「それで良いの。それが嬉しかったの。わたしが死んでも、わたしの死を悲しいものにしないで。わたしは人間だった。短い命の、弱い生き物として、あなたと手を繋いでいられたことが誇りだったの」
カマルの一瞬が、陽菜の一生だった。
二人は異なる生き物として出逢い、異なる生き物として、手を繋ぐことを選んだ。心の在り方も、命の長さも違うことを知りながら、同じ《砂漠》を愛して、同じ幸福を分け合ってきたのだ。
一度たりとも、陽菜が魔族であれば、と願ったことはなかった。カマルが愛したのは、夜毎に優しい歌を囀ってくれた、弱くて小さな人間の娘だ。
「約束よ、ひとつ残らず食べてね。あなたが優しくて、いつまでも強い人でいられるように、あなたを信じるから」
「必ず、お前を《花嫁》にしよう」
子どもの頃、シャムスは魔族の成り立ちを教えてくれた。
はじまりの花嫁――すべての創造主たる神が自分の写しとして創った、最初の人間。彼女が寂しいと泣くから、神はありとあらゆる生き物や魔族を創り出したという。
魔族は、人間に望まれて生まれた存在だ。だからこそ、自分を愛してくれる人間――《花嫁》を食べることで強くなれる。
遠い日、カマルと陽菜は、不毛な砂の大地に楽園を創ることを誓った。他の誰かから奪うのではなく、二人が生きるこの場を、皆が笑うことのできる楽園にしたかった。
その願いを叶え続けるために、この先も共に生きてゆく。
「歌ってくれるか? お前の歌で眠りたい」
陽菜は囁くように歌いはじめる。数えきれないほどの歌を贈ってくれた彼女が選んだのは、カマルにとって思い出深い子守唄だ。
揺籃のような歌は、いつだってカマルを優しい夜明けに連れていってくれた。
わたしの可愛い小鳥さん
羽を休めて、この指で
何も持たないわたしでも
あなたの止まり木にはなれるから
わたしの可愛い小鳥さん
目を閉じて、この胸で
何も見えないわたしでも
あなたの
揺籃にはなれるから
ふと、歌が止む。
「おやすみ、陽菜」
まどろみから目を覚まして、カマルは愛しい女に手を伸ばす。掌をあてて、太陽のような金の眼を閉じてやった。
◇◆◇◆◇
冷たい夜風に、柘榴の葉が揺れる。
甘い果実を摘み取ると、かつてこの場所で、陽菜に赤い実を与えたことを思い出す。柘榴の実を割り開いて、小さな唇に押しつけたとき、ただ幸福感だけがあった。
そんな記憶ばかりが、カマルの胸を満たしている。
「悲しむことはない。そうだろう? 陽菜」
カマルは魔界でいちばんの幸せ者だ。この先も変わらず、永遠に幸福でいられる。
彼女の愛した《砂漠》を、これから先も守ってゆく。誰もが笑える楽園で
在れるように、二人が願った優しい国で在れるように。
空を見上げて、カマルは歌いはじめる。失われた片翼が痛んで眠れぬ夜、何度だって彼女が口ずさんでくれた歌を。
夜が怖くないことを教えてくれた、優しい揺籃歌を。
わたしの愛しい、太陽の小鳥
おやすみなさい、良い夢を
あなたを夜明けに連れてゆくから
二人が寄り添う夜の先には、いつだって幸福な朝が待っているのだ。