白鷹の花嫁

後日譚:月のための夜想曲 | 後日譚:太陽の眠る揺籃歌 | 目次

  星に捧ぐ小夜曲  

 星々が瞬く夜、シャムスは宮殿カスルの中庭にいた。
 豊かな緑に包まれたその場所は、楽園さながらの美しい場所だった。そこかしこに植えられた果樹はたわわに実りをつけ、可憐な花々が楽しげに咲いている。
 庭の主役は柘榴ざくろの木だった。ここが砂庭だった頃から変わらず、その木はずっと《砂漠》の国を見守ってきた。
 ふと、夜風にまぎれて、美しい声が鼓膜を揺らす。
 柘榴の木陰に、ひとりの少女が立っていた。
 長い黒髪を風になびかせて、少女はシャムスの知らぬ旋律を口ずさんでいる。歌声にあわせて、彼女は白い翼を揺らしていた。
「ライラ」
 そっと肩を叩いてやると、振り返った少女は、シャムスと同じ金色の瞳を輝かせた。
「シャムス! 珍しいのね、こんな時間まで起きているなんて。お年寄りは早寝だって、父上は言っていたのに」
 シャムスは苦笑いを浮かべる。
 ライラに比べたら、誰もが年寄りになってしまう。彼女は、生まれて十年も経っていない雛鳥なのだから。
「夜更かしはダメですよ。悪い魔物ジンに攫われてしまいます」
「大丈夫よ。悪い魔物なら、みんな父上が燃やしてくれるもの」
 翼を広げて、ライラは得意げに笑った。陰りのない笑みは、彼女が周囲から愛されている証だった。
「カマルは、娘に甘いんですよ」
「仕方ないの。わたし、母上とそっくりだもの」
 鋭い鉤爪も、背にそびえる翼も、魔族である父親の本性を受け継いでいる。されど、その顔立ちは母親と瓜二つだった。
「あの子たちは、どうしましたか?」
「たぶん寝ていると思う。今日もね、父上ったら子どもみたいに、ずうっと母上にべったりなの。寝かしつけの歌は聞かせてくれたけど、膝枕は譲ってくれなかったの。ねえ、シャムスは、おかしいと思わない? 母上は、きっとこの《砂漠》で一番弱いのに」
《砂漠》の国で一番強い魔王が、一番弱い人間の女に甘えている。そのことが、ライラは不思議でならないのだろう。
「その弱さが、愛しくなることもあるんですよ。いつか誰かを愛したとき、きっとライラにも分かります」
 ライラは唇に指を押しあて、それからゆっくりと首を傾げた。
「シャムスも、誰かを愛したことがあるの?」
「ええ。とても美しい娘でした」
「それは、指輪を贈った人? 母上たちがお揃いでつけている指輪、大きい宝石がついているでしょう? あの宝石、もともとシャムスの物だって教えてもらったの。大事な人に贈ったものだって」
 シャムスは目を細めた。指輪の宝石が、形を変えて、シャムスの大事なふたりのもとにある。そのことを素直に喜べることを、奇跡のように思うことがある。
「あれは、ナジュムに贈ったものですね」
ナジュム? 綺麗な名前」
「あんたの叔母上ですよ」
 ライラは目を丸くして、驚いたように翼をぱたぱた動かす。
「知らなかった! みんな、どうして教えてくれなかったの? 仲間はずれは嫌よ」
 もちろん、仲間はずれにしたつもりはない。だが、振り返ってみると、今までナジュムのことを話す機会はなかった。
「では、寝物語に教えてあげましょうか? あんたの叔母上のことを」
 瞼を閉じれば、幸福な思い出ばかり溢れる。
 別れはつらく苦しいものだったが、ナジュムと過ごした日々は、いつも優しい輝きに満ちていた。

 ◇◆◇◆◇

 好き。最初に彼女がそう告げたのは、まだ幼い頃だった。
「私も大好きですよ」
 膝を折って、小さな女の子と目線を合わせる。ふくふくとした頬に掌をあてると、彼女は恥ずかしそうに目を逸らす。
「違うの」
「違うんですか。やっぱり嫌い?」
「……ううん、好き。カマルは、シャムスが好きなの。あの子も、わたしも」
 白い翼を持つ、二人でひとつの魔族。
 争いの絶えない砂漠で、突如、生まれた強力な魔族だった。彼女たちが、決して分かれることのないように、同じ《カマル》という名前を与えたのはシャムスだ。
「なら、何が違うんですか?」
「……カマルのところ、行ってくる」
 彼女は困ったように眉を下げると、片割れのもとへ走っていく。
 柘榴の木陰にいる男の子は、少女とそっくりの貌をしている。少女が何やら耳打ちすると、彼はじっとシャムスを見つめる。
 そうして、やれやれと言わんばかりの態度で肩を竦めた。
「女たらし」
「はあ⁉ そんなろくでもない言葉、どこで覚えたんですか」
「この前、アーシファが言っていた」
 シャムスの頭に、ガラス細工のように綺麗な青年が浮かぶ。もともと同じ部族にいた彼は、何が面白いのか、シャムスに付きまとっては悪さを繰り返してきた前科がある。
「あの子、教育に悪いので出禁にしましょうか」
「……? どうせ、また蛆虫うじむしみたいに湧く。燃やして捨てても、次の日には平気な顔して戻って来る」
「いや、蛆虫より性質たち悪いですよ」
「ねえ、二人とも。可哀そうだから止めて」
 おずおずと手を挙げた少女に、シャムスたちは顔を見合わせる。
「あんたは優しいですね。そういうところ、私は大好きですよ」
 優しさなど、魔族らしからぬ感情だ。まして、彼女は虐げられることのない強者として生まれついた。
 その身の業火はすべてを燃やし、その身の光は病毒を癒す。
 シャムスのような弱くて醜い魔族と違って、どれだけ傲慢に振る舞っても許される立場にある。魔界では、強い者こそが美しく、正しいのだ。
「優しい子でいられたら、わたしのこと好きになってくれる?」
「ばかですね。どんなあんたでも大好きですよ。優しい子になれなくたって、二人とも私の可愛い子どもです」
「ずっと一緒にいてくれる?」
「あんたが望むのなら、ずっと傍にいますよ」
 そう言いながらも、そんな未来を信じることはできなかった。
 いつかきっと、彼女たちはシャムスの許から巣立つ。
 生まれたての雛鳥は、はじめて見た存在を慕う、と聞いたことがある。こんな風に慕ってくれるのは、彼女たちの卵をかえしたのがシャムスだからだ。
 無条件に愛すべき存在として、シャムスの存在が刻み込まれてしまった。それは刷り込みであり、洗脳のようなものだった。
「約束。好きなの、シャムス。だから、いつか、わたしとつがいになってね」
 少女は頬を赤く染めて、そっくりの顔をした男の子の背中に隠れてしまう。
 ようやく、シャムスは彼女の言う「好き」の意味を知った。
 魔族はたいてい自然に発生するものだ。近しい種や類型ならば夫婦となり、子を成すこともあるが、そう多くはない。
 そのことを知りながら、彼女はシャムスと番い鳥に、夫婦になることを願っているのだ。
 一途で、いじらしくて、可愛い気持ちだった。そんな純粋な想いをぶつけられたら、向き合わずにはいられない。
 頬が熱くなって、シャムスは誤魔化すように咳払いをした。
 きっと、シャムスは彼女を好きになる。そう遠くない未来で、特別な愛を捧ぐようになるだろう。
「女たらし」
 片割れを背に庇いながら、少年は溜息をついた。


 結局、すべては予想どおりの未来となった。彼女は変わらずシャムスを好いて、シャムスもまた彼女を好きになってしまった。
 雲ひとつない空から、星の光が降るような夜のことだ。
「子どもができたの」
 砂庭に生えた柘榴の下で、少女は何てことのないように告げる。
 シャムスは絶句して、それから慌てて外套を脱いだ。薄着の少女を外套でくるむと、彼女は不思議そうに首を傾げる。
「あんた、子どもいるのにそんな薄着で過ごしていたんですか⁉」
「平気なのに。わたしがどんな魔族か忘れたの?」
「あんたは大丈夫でも、子どもは違うかもしれない。私の子どもなんですから」
 シャムスは、自分が弱い魔族であることを知っている。子どもだって、もしかしたら同じ弱さを持ってしまったかもしれない。
「自分の子どもだって言ってくれるの?」
「はあ? 当たり前でしょう。あんた、私と番になるんじゃなかったんですか」
 彼女は目を丸くして、それから顔をくしゃくしゃにした。幼い頃はともかく、成長してからの彼女は、いつも穏やかに微笑んでいた。
 いまにも泣き出しそうな顔を見るのは、本当に久しぶりだった。
「ねえ。わたし、優しい子でいられた?」
「あんたはずっと優しい子ですよ」
「わたしが優しいのなら、シャムスがそう願ってくれたから。魔族は、人間の願いによって在り方を変えるのでしょう? なら、あなたが願って、いまのわたしが形づくられたの」
 魔族とは、人間の願い、想いで自らの在り方を変えてしまう。半分だけ人間の血を継いだシャムスにも、もしかしたら、その力はあったのかもしれない。
 だから、近しい種でも類型でもない二人の間に子どもができた。
「好きなの」
 幼い頃と変わらず、彼女は真っ直ぐに想いを告げる。こんな弱くて醜い魔族に、心からの愛情を示してくれる。
 ならば、シャムスも応えなくてはならない。
「ナジュム」
ナジュム?」
「あんたは星の瞬きのように、いつも私を照らしてくれたから。その名前を」
「わたしの名前?」
「カマルは、あの子にあげてください。代わりに、星の名を贈りますから」
 彼女たちは、二人でひとつの魔族として生を受けた。完璧な対となる存在だった。
 だが、いまのシャムスには、もう二人を同じものとして認めることはできなかった。どちらも大切で、どちらも愛しているが、一人ではなく二人が良かった。
 ずっと前から用意していた指輪を、彼女の薬指に嵌める。何年も探しまわった紫の宝石は、想像していたとおり、彼女の指に良く似合った。
「綺麗」
 砂漠の風習ではないから、彼女は指輪の意味を知らないだろう。それでも良かった。この指輪に、ずっと一緒にいる、という約束を籠めよう。
「好きですよ。私と一緒になってくれますか?」
 涙を流しながら、少女は笑った。

 ◇◆◇◆◇

 ライラに請われるまま、シャムスは妻との思い出を語ってゆく。
 柘榴の幹にもたれるように座っていたライラは、夜が深まるにつれて眠くなったのか、目をこすっていた。
「……ねえ、シャムス。いつか、わたしも誰かを好きになるの?」
「きっと。ライラが好きになった人が、あんたを好きになってくれると良いですね」
 最後の力を振り絞るように、彼女は頷く。そうして、夢の世界に旅立った。
 ライラの隣に座って、シャムスは空を見上げる。柘榴の葉の隙間から、星明かりが降ってきて、優しく頬を撫でた。
 懐かしいような、寂しいような、そんな気持ちになって、シャムスは唇を開く。柘榴の木陰で、ライラが歌っていた美しい旋律を。
「久しぶりだな、お前の歌を聴くのは」
 いつのまにか、中庭には新しい客人がいた。シャムスより一回りも二回りも大きい男は、じっとシャムスたちを見つめていた。
「あんた、寝ていたんじゃないですか?」
「小夜曲の続きは?」
 シャムスの質問を無視して、カマルは笑った。顔立ちはまったく似ていないのだが、その笑顔はライラとそっくりだった。
「これが小夜曲なんですか?」
「さっきまで陽菜が歌っていた」
「それでライラも口ずさんでいたんですね。小夜曲、ねえ」
 覚えのある名前だ。小夜曲。嘘か真か、恋人に捧げる曲と聞いた気がする。
「ナジュムも喜ぶ。あれは、お前の歌が好きだったから」
 好き。何度もそう言ってくれた娘の顔が浮かんで、胸の奥に柔らかな棘が刺さる。その痛みさえも、いまは愛しいと思うことができる。
「届きますかね? あの子に」
 シャムスは微笑んで、もう一度、歌いはじめる。
 頭上には満天の星空が広がっていた。シャムスの愛する人は、その命が燃え尽きてからも、ずっと寄り添ってくれる。
 彼女は星の瞬きのように優しく、美しい人だった。




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