春告姫
一の章 02
夜の境内は静けさに満ちて、時折、葉の揺れる音がするばかりだ。
淡い月明かりの下で、御神木の桜が輝いている。
小さい頃から、この桜が好きだった。薄紅の花弁が舞うなか駆けまわって、太い幹に無遠慮に触っては頬をすり寄せた。花枝が欲しくて木登りしたものの、降りられなくなって大泣きしたこともある。
「何しているの? こんなところで」
突然、冷たいものが頬に触れた。ビニールに包まれたアイスを美春の頬に押しつけて、秋穂が眉をひそめている。
「ありがと。懐かしいね、これ」
美春は棒状のアイスを受け取った。真中から半分に割って食べるそれは、最近ではスーパーですら見かけず、ずいぶんと昔に食べたきりだ。
「おばあちゃんが買っておいてくれたみたい。昔、これで喧嘩になったの憶えている?」
「だって、二つに割れるって知らなかったから」
基本的に喧嘩しない姉妹だったが、あのときばかりは揉めたことを思い出す。今でこそ笑い話だが、当時は二人とも真剣だった。
「分けられないものって、基本的に与えられなかったものね。お母さん、姉妹で差をつけるのすごく嫌がったから。喧嘩しようにもできなかったでしょう?」
「そうかも」
歳も性格も違ったが、母から差別されていると感じたことはない。互いに母から愛されている自信があったから、いがみ合う必要もなく、仲良しの姉妹でいられた。
「でもね、一度だけ差をつけられたことがあるの。美春がいなくなったとき、お母さん泣いていた。美春だけのために、泣いていたのよ」
「……うん」
「あたしも、美春がいなくなったとき、いっぱい泣いた。もうあんな想いは嫌。……怖いの。美春の言葉はぜんぶ夢だって思っているのに。桜を見に行ったきり、またあなたが消えちゃうんじゃないかって」
秋穂は、京都に来た美春を責めていた。家族を悲しませてまで、この場所に固執した美春を非難している。優しい姉にそのような台詞を言わせてしまった美春は、やはりひどい妹だった。
四年前、この桜を訪ねたきり、美春は行方知らずとなった。
あの日、注連縄の巻かれた桜は満開だった。
淡雪のような花弁が、十二歳の美春の頬を撫ぜた。むせ返るほどの花の香りに酔いしれて、吹き抜ける風とともに、美春はここではない世界へと攫われたのだ。
「だけど、わたしはここに来たかったよ」
ばかげた妄想なのだろうか。
正しいのは秋穂たちで、すべては美春がつくりだした夢なのか。
それでも、この桜に会いに来れば、咲哉のもとへ行ける気がしたのだ。
もう一度だけでも良いから、美春、と名前を呼んでほしかった。そうしたら、この胸にある空虚も満たされる。
――咲哉に思いを馳せた瞬間、美春は刹那の幻を見た。
枯れ枝をつけた大樹に抱かれて、美しい青年が目を閉じている。赤みを帯びた白髪、けぶるような睫毛、生白い肌が月明かりに煌めく。
「咲哉?」
美春は夢見心地で御神木に手を伸ばしたが、届かなかった。美春を引き留めたのは、震える秋穂だった。美春の両肩を掴み、彼女は泣くのを堪えるように目を吊り上げる。
「いい加減にして! その男の子は妄想よ。可哀そうな美春がつくりだした、いるはずのないお友達。怖くて、つらい目に遭っただろうあなたが見た夢よ、ぜんぶ! だから、ねえ、ちゃんとしてよ。今を見て! あたしのことを、見て。そんな変な目で、あたしの知らない遠くばっかり見ないでよっ……!」
神隠しから戻ったとき、秋穂と同じだった黒目は薄紅に染まっていた。夢だと否定された異世界を切り捨てられないのは、この瞳が原因でもある。
「帰るって、言ったの。咲哉のところに」
この目は証だ。繋いだ手の温もりを忘れてしまっても、たしかに咲哉はいたのだ、と。
「美春が帰るのは、あたしたちのところよ!」
悲痛な叫びが鼓膜を揺らす。されど、美春は頷くことができなかった。
「お姉ちゃん。わたし、ずっとおかしいの。お母さんたちがいて、お姉ちゃんと一緒の高校にだって受かって。幸せなのに。幸せなはずなのに! ここにいちゃいけないって、ずっと思っていた。……咲哉に会いたいの。もう一度、名前を呼んでほしい」
四年間、美春は違和感を抱えていた。
家族のもとに戻ってきたにもかかわらず、ここにいてはいけない気がした。筝以外のほとんどに関心が持てず、まるで硝子一枚隔てたように世界が遠かった。足下がおぼつかなくて、他の子たちのように普通に生きることができない。
咲哉と過ごした一年間は、四年も経てば薄れていく。
どれだけ憶えていたいと願っても、月日の流れには逆らえず、思い出など掌から零れてしまう儚いものだった。
このままでいたら、美春はすべてを忘れるだろう。
綺麗な思い出は花弁のように散って、心に空虚を抱えたまま、素知らぬ顔をして生きていくのだ。
泣きそうな顔で、美春を送り出した咲哉。お前のことなど好きではなかった、と美春を射貫いたまなざしが胸を打つ。
『待っている。いつまでも。たとえすべて朽ちてしまっても』
好きと口にすることさえできなかった彼は、今も美春を待ってくれているだろうか。
「ごめんね」
謝罪と同時、秋穂の顔が絶望に染まった。
家族を傷つけてもなお、咲哉に会いたかった。彼と過ごした、たった一年の日々を諦められなかった。
「ばか! ……っ、行くなら、二度と帰ってこないで! そんなにその男の子が良いなら、何処にでも行けばいいじゃない!」
何処にでも行けばいいと口にする声は、美春の背を押すように力強かった。
誰より咲哉の存在を否定しながらも、秋穂は美春を信じたかったのかもしれない。美春の妄想を肯定してあげたい。だが、そうすれば二度と会えなくなる、と恐怖に震えていた姉の心に、今さらになって気づく。
愛されている。ずっと大事にされてきたのだと思う。
だからこそ、もう一度、あの少年に会いたい。たくさん愛されてきたから、同じものを咲哉に与えてあげたい。
彼の望んだ《春》を、もう一度、連れていってあげたいのだ。
春風が強く吹き荒れて、セーラー服のリボンを揺らした。あたたかくて、懐かしい香りに包まれながら、美春は笑った。
「ねえ。もう一度、わたしを攫ってくれる?」
美春はそっと目を閉じて、花散らす風に身を任せた。
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