春告姫
二の章 03
薄暮の空は、まるで涙するように雪を降らせていた。それは桜の花弁にも似た柔らかさでありながら、花舞う春とは真逆の冬枯れを連れてくる。
あたり一面の雪景色に、白髪の男は佇んでいた。
年の頃は、二十代半ばの青年にも、とうに三十を過ぎた男にも見える。ゆるく結わえた髪は絹糸のようで、腰まで届くほど長い。けぶる睫毛に囲われた紅紫の瞳が、生白い肌によく映えていた。
「帝)」
まだ少年の面影が残る青年が、白髪の男――帝に声をかける。直衣だけの帝と違って、彼は寒さを凌ぐために獣の皮を羽織っていた。
「柊。どうかしたのか?」
十年近く帝の傍仕えをしている柊は、深々と溜息をついた。
「それはこちらの台詞です。いかがなさいましたか? 上の空のようでしたが」
「少しばかり懐かしくなっただけだ。昔、池に落ちてきた者がいたな、と」
指差した先には、氷の張った池がある。まだらに雪を被ったその池には、その昔は赤い反橋が架けられていた。しかし、今は何処にも見当たらない。
橋だけではない。かつて美しかった山荘は、見る影もないほど荒んでいる。
「忘れてください、そんな昔のこと」
苦虫を噛み潰したような表情で、柊は吐き捨てた。
「忘れられない、ずっと。……直に夜が訪れる。桜が《異姫》を攫ってくるぞ」
「どうせ攫ってくるなら、もっと前に攫ってくれば良いものを。この国は、ほとんど冬に冒されてしまった。京の外は、緑も土も腐り、不毛な冬が広がるばかり。最早、冬枯れの呪いは止まらない」
「呪いというより、祟りと呼ぶべきかもしれない」
柊は目を鋭くした。
「祟りなど、愚か者の妄言です」
帝は視線を落とした。足下には、崩れかけた石がある。遠い昔、愚かにも死んでいった者のために建てられた墓標だ。
骨すら残らなかった、大罪人の墓である。
「さて、どうだろう。生きている者ですら祟るのだ。荼毘に付されることもなく、神域に打ち捨てられた屍が、どうして誰も憎まずにいられる。恨まずにいられる。この国を呑む冬が、愚かな男の祟りだとしても不思議ではあるまい」
冷たい墓に片手を置いて、帝は瞼を閉ざす。
――ずっと待ち望んでいた異姫。冬を晴らすための春告げ鳥。
桜花神は、再び異姫を攫ってくる。この国を冒す冬を退けるために、今度こそ自らが根づく国を救うために。
桜の病を治せるのは、最早、異世から現れる女だけなのだから。
◆ ◆ ◆
吹き荒れる風が、幾百、幾千の桜花を舞わせていた。花弁の海に溺れていると、ふと視界が開ける。
夜空に弓なりにしなる三日月、大粒の雪が浮かんでいた。
闇色の空が、頭上にではなく足下にあった。空を見下ろすように、美春は頭から逆さまに落ちていた。
四年前と同じだ。あのときも美春は宙に放り出されて――。
直後、全身を叩きつけられて、激しい痛みに襲われる。心臓が止まりそうなほど冷たい水に、身体が沈んでいく。指を掠めた氷の欠片に、薄氷の張った水場に落ちたと理解する。
鼻や口から大量の水を含んでしまい、必死に手足をばたつかせた。
水面から顔を出した美春は、痛みと寒さを堪えながら岸辺まで泳いだ。水を吸ったセーラー服は重たく、何度も溺れそうになる。
よろよろと岸辺からあがって、美春は目を見張った。
一面、真白の雪に冒された土地が広がっている。
水気を孕んだ重たい雪が、かたく地面に積もっていた。息をするほど肺腑から凍りつく空気に、肌という肌をなぶられ、自然と頬が引きつる。
寒さというより、痛みと称すべき極寒だった。
雪に埋もれかけているのは、荒廃した木造の建物だ。辛うじて丸柱や板張りの床が形を留めているが、打ち捨てられてから相当の歳月が経っていた。
今しがた美春が落ちたのは、この廃墟にあった庭池なのだろう。
「ここ、何処?」
四年前、異世界に招かれた美春が落ちたのは、咲哉の療養していた山荘だった。普段暮らしている《内裏》で病が流行ったため、彼は京の外にある邸に隔離されていたのだ。
歴史博物館にあった寝殿造りの模型とよく似た建物で、涼やかな白砂の庭と、赤い反橋の架かった池が印象的だった。
あのとき、反橋で鯉を眺めていた咲哉は、小さな悲鳴をあげた。突然、何もない空宙に子どもが現れたのだから、彼が驚くのも無理はなかった。
ここは美春が咲哉と出逢った場所ではないようだ。あの邸は何処もかしこも美しく、荒れ果てた景色とは正反対だった。
風が吹きぬけて、美春は自らを抱きしめる。
「寒い」
舞い降りる雪は、吐息さえも白く染める。池に落ちたことで、全身が思うように動かず、失われていく体温が恐ろしい。
四年前から硝子一枚隔てたように感じていた世界が、美春に迫っていた。すべてがいやに鮮明になり、ありとあらゆるものが五感を刺激する。
ここは、本当に美春の求めていた世界なのだろうか。
もの悲しいばかりの冬景色は、美春の知る世界のものではなかった。必ず帰ると約束した少年の姿もなく、まったく知らぬ場所に一人きりだ。
もし、ここが咲哉の生きる国でなかったとしたら――。
折れそうな心を叱りつけるよう、自らの頬を叩いたときのことだった。
にちゃり、とした音が鼓膜を揺らす。粘ついた液体が飛び散るような、ひどく不快な音だった。
皮膚が粟立つほどの悪寒がして、心臓が逸った。頭の奥にある本能が警鐘を鳴らし、危険を訴えかけている。
「……っ、ひ」
喉の奥から、か細い悲鳴が洩れる。
荒れた邸の影から現れたのは、蜘蛛にも似た化け物だった。
毛羽立った無数の足を四方八方に広げて、かさり、かさりと雪を割るように動いている。足の至るところに夥しい数の目玉があり、何かを探すように濁った瞳が揺れる。
――糸。否、絃だろうか。
化け物の足は、何処へ続くかも分からない絃に繋がれていた。絃が揺れるのに連動して、熟れた果実そっくりの身を震わせている。
醜悪だったのは、化け物の表皮に咲いたいくつもの小花だった。赤黒い花弁は濁った蜜に濡れて、ひどい腐敗臭を放っている。
美春は口元を押さえる。
風が運ぶのは、朽ちてしまった命の香り――死臭だった。
蜜で身体をしとどに濡らし、化け物はぐちゃりぐちゃりと地面を這いずる。
息を殺して震えていたとき、化け物の足にある無数の目が美春を捉えた。
怯えた美春が逃げるよりも早く、化け物は建物の柱を引き倒しながら動く。化け物が触れた途端、柱は一瞬にして腐食した。瞬きの間に朽ちて、崩れてしまった柱に、美春は唐突に理解する。
この化け物は病なのだ。
命の芽吹きを根こそぎ奪い、すべてを枯らす病理だ。きっとこの化け物は、生きとし生ける命を枯らしたあと、不毛な冬を連れてくる。
後ずさっていた美春の足に、冷たさが走る。
背後には薄氷の張った池がある。零下何度かも分からぬ水にもう一度落ちてしまえば、浮きあがる自信がなかった。
迷っているうちに、化け物はすぐ傍に迫っていた。表皮に咲かせた花からは、たっぷりと蜜が垂れている。
咄嗟に避けようとするが、赤黒く粘ついた液体が美春の左手に飛んできた。
瞬間、焼けつく痛みに、美春は獣のごとく叫んだ。
火傷したように皮膚が爛れて、赤紫になっていく。美春は必死になって、手の甲を制服のスカートにこすりつけた。一瞬にして、木の柱を腐食させた蜜だ。身体中に浴びてしまえば、待っているのは間違いなく死だった。
なんとか化け物から逃れようとするが、膝が笑って力が入らない。
化け物に咲いた花が震えて、また蜜が零れようとする。
「いや。嫌、だ!」
恐怖のあまり、美春が目を瞑ろうとしたときのことだった。
闇を切り裂いて、背の高い男が現れる。
薄闇で顔は見えなかったが、夜に溶ける藍の直衣を纏っていた。
軽やかに身を翻した彼は、片手に太刀を構えている。勢いまかせに化け物に飛び乗ると、直後、容赦なく一太刀を浴びせた。
絶叫して、化け物がカタカタと身を揺らす。刺された化け物は、身体から今にも蜜を溢れさせるところだった。
「だめ。逃げ、て」
美春の声も虚しく、化け物は内側から破裂した。
助けてくれた男が腐り落ちるのを想像して、美春は悲鳴をあげる。しかし、化け物の粘液を浴びた男は、平然としていた。
「無事か」
美春に向かって、男が手を伸ばしていた。その姿は、途方に暮れる十二歳の美春に手を差し伸べてくれた、あの少年のようだった。
「咲哉?」
手の痛みに震えながら、美春は舌をもつれさせた。顔も見えないというのに、咲哉だったら良いと思ってしまった。
四年前、池に落ちた日と同じが良かった。死にかけた美春を救いあげてくれるのは、ずっと焦がれていた、あの少年であってほしかった。
「懐かしい名だな。その名を耳にするのは幾年ぶりだろうか」
もっと男を見ていたかった。彼の顔を知りたかったが、涙で霞んでしまう。
堪らずうつむいた拍子に、熱い滴が雪の上に落ちる。
瞬間、幻のような光景が繰り広げられる。凍てつく雪が解けて、見る見るうちに緑が生い茂った。名も知らぬ草が芽生えて、葉を伸ばしては花を咲かせていく。
甘い香りを載せた風が、美春を包み込む。
まるで、春の訪れのようだ。
おいで。はやく、私が枯れてしまう前に。
何処か懐かしい、されど知らぬ声が語りかけていた。
寒さで全身が痺れて、霞みがかったように思考が働かない。手の甲の傷が、痛みだけではなく、恐ろしいほどの熱を持っていた。
倒れゆく美春を、男が抱きとめる。
「ずっと、お前を待っていた」
めまいがして、美春は意識を手放した。
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