春告姫

モドル | ススム | モクジ

  三の章 11  

 辿りついた室は、激しく荒らされていた。
 廂からかけられた壁代の布は破け、室礼は滅茶苦茶になっている。倒れた火鉢からは炭が零れ、几帳や二階棚は見る影がないほど粉々だ。
 奥の棚には何もなかった。箏爪は、あとかたもなく消えている。
「なんで。あの爪は、もう異姫にしか触れないんじゃ……」
 だからこそ、あのように無防備な状態であっても、盗まれる心配はなかった。
 美春のあとを追ってきた帝は、考え込むように指先を顎にかける。彼の瞳は、ここではない何処かを見据えていた。
 茫然としていた美春は、背後で鳴り響いた音に振り返る。
「お前がいながら、盗まれたのか」
 伯の足下には黒髪の女が転がっていた。頬を真っ赤に腫らしながら、彼女は肩を震わせている。
「荷葉さん!」
 荷葉の頬を打った伯は、まるで悪びれることなく溜息をついた。
「誰がお前を拾ってやったと思っている。傀儡子のくせに、役に立たない木偶を動かすので精一杯で、いつまで経っても使えやしない」
「申し訳、ございません」
「お前の謝罪は聞き飽きた。失態を演じたなら、せめて挽回してみせろ。するべきことなど分かるだろ?」
 唇を噛み締めた荷葉は、片手を振りあげた。徐々に集まってきたのは、十数人の傀儡たちだった。
「それで良い。――帝と異姫を捕らえろ」
 荷葉の操っている傀儡たちを横目にして、伯は言い捨てた。
「ずいぶん、性質の悪い冗談を言うようになったな」
 壊れかけの肩を押さえながら、帝は鋭いまなざしで伯を射貫く。
「そりゃあ、俺だって昔のように、いつまでも子どもではいられませんよ。箏爪に触れられるのは異姫だけ。なら、盗むことができるのも同じことだ」
「そんなことしていない! わたしはもともと爪を取りに来たんだよ? 盗む必要なんて、何処にもない!」
「はははっ! 神祇庁が、はじめから箏爪を渡すつもりだったと? そう思っているならば、あなたはずいぶんと人が良い」
「何、それ」
「異姫。あなたが帝に味方するのであれば、爪を渡すことなど認められません。春を呼ぶのならば、我ら神祇庁の手で。それでようやく、俺たちはかつてのように、桜をお守りする名誉に預かることができる。穢れた死体だらけの門を捨て、神域に帰れるんだ」
 咲哉が死んでから、神祇庁はかつての役目を失った。神域の桜に仕えていた彼らにとって、神域から最も離れた場所にいることは、さぞかし彼らを惨めにしたのだろう。
 だが、京の外にある地獄絵図を知りながら、そのようなことを平然と告げるのか。必死に生きようとして力尽きた人々を、この男は穢れた死体と嘲笑った。
「くだらない。大事なのは春が来ることなのに」
 神祇庁にとって、春が来ることが重要なのではない。春を呼ぶのは、かつての権威を取り戻すための手段に過ぎないのだ。
「くだらないと決めるのは、異世の女じゃない。大人しくするなら、悪いようにはしませんよ。あなただけでなく、帝のことも」
 伯は、こちらが逆らえないことを確信していた。
 柊や八重の助けは期待できない。この場に柊たちが駆けつけて来ないのは、彼らにも何かしらの手が及んでいるからだ。捕縛されてしまったのか、あるいは窮地に追い込まれ、逃げているところか。
 どのみち、美春と帝だけでは、この状況を打破することはできない。
 御霊会で異形を倒したとき、帝の器は傷んでいる。無理をすれば、さらに損傷が激しくなる可能性があった。
「大人しくしていれば、良いの?」
「美春」
 帝が、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「大丈夫だよ。乱暴はしないみたいだから」
 美春は無理をして笑ってみせる。
「乱暴などしませんって。神祇庁にとっても、異姫は特別ですからね。荷葉、帝をお連れしろ。一晩も閉じ込めれば、頭も冷えるだろうよ」
「……異姫、は」
 か細い声で荷葉が問う。
「異姫には話がある」
 伯の指示で、荷葉は帝を連れていく。付き従うようにして、群れとなった傀儡も続く。
「帝には、何もしないんだよね」
「しないというより、できませんよ。あんな化け物でも、他の者たちはあの傀儡を帝と信じているんですから、丁重にあつかいます。あれが化け物と知っているのは、神祇庁では、俺と荷葉くらいですから」
「化け物なんかじゃない! そんな言い方、しないで」
 咲哉を殺した、と告げられたとき、帝を恐ろしい化け物のように感じた。
 しかし、今はそんな風に思えない。咲哉の死に打ちのめされる美春を慰め、異形から庇ってくれた。
 傀儡への恐怖は残っている。だが、それ以上に、帝を悪く言われることが我慢ならない。
「化け物です。この百五十年、あの傀儡は帝のふりをしている。時の帝が御隠れになり、新しい帝が立っても、その実、ずっとあれが居座っていただけ。……傀儡子でなければ、いや、傀儡子でも気づくことは難しいか。とても傀儡には見えませんからね」
 人間のようにふるまう帝は、たしかに他の傀儡とは異なっていた。当たり前のように笑って、当たり前のように悲しむふりができるのだから疑いようもない。
 帝は特別だ。傀儡にしては、あまりにも人と近すぎる。
「あれを信用するのは止めた方が良いですよ。異姫は春を連れてくる。どうやって連れてくるのか、帝は説明しました? しなかったはずです」
「……っ、それは!」
 美春は、具体的なことを何一つ教えられていない。
 美春が神域に向かうことで、桜の神が力を取り戻す。そして、神域の門を開くために、神祇庁にあった箏爪と、ここではない何処かに保管されている箏が必要となる。
 美春に与えられた情報は、たったこれだけだった。
「帝は、あなたに隠し事をしています。すべてを知ったあなたが、かつて此の国にいた桜姫のように逃げ出すことを恐れているんだ。桜姫は、あなたと同じだから」
「同じ?」
「異姫」
 美春は絶句した。伯の明かした事実が信じられなかった。
「だって、桜姫は神祇庁の人で!」
「神祇庁が管理していた女です。桜花神の妻は、桜姫とも呼ばれる。箏を愛し、桜に愛された姫君。異姫と桜姫は、どちらも神の伴侶に由来した、異世の女を意味する言葉ですよ」
 咲哉の愛した女性は、美春と同じように異世界から現れた。この百五十年間、美春と入れ違うようにして、この世界に攫われてきた誰かがいたのか。
 知らないことが、あまりにも多すぎる。
 桜姫が《異姫》だったならば、どうして彼女は逃げたのだろうか。逃げた理由こそ、帝たちがはぐらかし、美春に秘密にしていることかもしれない。
 桜の病を治すために、美春はいったい何をしなければいけないのか。
「俺たちなら、あなたに隠し事をしたりしません。傷ひとつなく、苦しむことなく、時が来るまでお守りいたしますよ。だから、あのような化け物ではなく、俺たちを選んでください」
 伯の手が、美春の左手に触れた。異形に負わされた傷を撫ぜる掌は温かくて、帝のそれとは大違いだった。
「嫌だ」
 だが、美春にとって心地良いのは、あの冷たい指だった。
「異姫?」
 うつむきそうな顔をあげて、美春は伯の手を振り払った。
「帝を、化け物なんて言う人と仲良くできると思う? できないよ。それに、神祇庁にとって大事なのは春が来ることじゃない。自分たちの手で春を呼んで、もう一度、昔のような力を取り戻したいだけ」
「それの何が悪いんですか?」
 理解できないと言わんばかりに、伯は気色ばむ。
「帝は! 京の外で死んでしまった人たちを悔やんでいたよ。だから、春が欲しいんだよ。もう誰も死なないために、苦しまないために! そんな人だから、信じられるの」
 美春の意志を無視した柊や、勝手な願いを押しつけてきた伯とは違う。
 ――帝だけは、最初から美春に何かを強いることはなかった。
 美春の言葉を聞いて、美春の想いを汲んでくれた。どれほど残酷なことであっても、咲哉の死や、この国の現状を教えてくれた。
 傷つくことや、苦しむことは恐ろしい。けれども、何も知らずにいることの方が、ずっと怖かった。
「もう、誰も哀しい想いをしないように。わたしも、春が欲しいよ」
 京の外に打ち捨てられた人々、神域にいる咲哉。そんな哀しい人たちは、二度と生まれてはいけない。

◆ ◆ ◆

 校倉には冷たい空気が満ちて、かじかむ指先がもどかしい。
「ぜんぜん、開かないんだけど!」
 力任せに戸を揺らすが、まったく動かない。辛うじて隙間から風が吹き込んでくるが、人が通り抜けられるような空間はなかった。
 伯の怒りを買った美春は、あのあと校倉に閉じ込められた。荷葉が文書を仕舞い込んでいた、あの校倉である。不幸中の幸いだったのは、帝と引き離されることなく、二人一緒に閉じ込められたことだけだ。
 くすりと背後で笑い声がした。壁際に座った帝が口元を綻ばせている。
「もう。笑っていないで、ちょっとは手伝ってよ」
「お前が思っていたより元気で安心した。……すまない、今の私には、お前を抱えて神祇庁を出る自信がない」
 帝は自らの肩に視線を遣った。身体を損傷している彼は、すぐにでも修理が必要だ。無理に校倉を出たところで、足手まといの美春を抱えて逃げることは難しい。
「ごめんなさい。わたしを庇ったせいで」
「謝らなくて良い。これは、私の旧さが原因だからな。それでもお前が納得できないのならば、謝罪とは別の言葉を。その方がずっと嬉しい」
「……ありがと。助けてくれて」
 帝は満足そうに頷いて、美春を手招きした。美春は大人しく帝の隣に座った。
「心配しなくとも、必ず柊が助けに来る。今のうちに眠って、身体を休めたらどうだ?」
「こんな状況で寝るのは、ちょっと。御霊会のことだって、箏爪のことだって、他にも。気になることいっぱいだし」
 御霊会に現れた異形を、女房は春宮の祟りと叫んだ。他の者も口を噤んで、否定することは終ぞなかった。
 春宮の祟り。すなわち、咲哉の祟りである。
 ――御霊会とは、非業の死を遂げた者の魂を慰めるものだ。
 開かれるのはたいてい、御霊が原因で何かしらの事象が起きたときである。疫病、天災、そういったものを御霊の仕業と思ったとき、人々はその魂を慰め、鎮めようとする。
「御霊会、咲哉のためなんだよね」
 帝はわずかに視線をあげるだけだったが、沈黙は何よりもの肯定だった。
「ぜんぶ、咲哉の祟りだって言うの? 桜が枯れるのも、冬に呑まれるのも、ぜんぶ! ばかみたい。死んだ人を悪く言って」
「咲哉は祟らない、と言いたいのか」
「祟らない、というか。……咲哉なら、恨んだり、憎んだりしているとしても、関係のない誰かを巻き添えにはしない。守らなくちゃいけない人たちを、犠牲になんてしないよ。祟るとしたら、咲哉を殺したという桜姫にだけ」
 優しい少年だった、といつも表現したくなるが、正確には優しさのなかに激しい炎を灯した男の子だった。
 言動こそ鋭かったが、物腰は柔らかく、基本的に穏やかな性質だ。しかし、降りかかる火の粉を全力で消すような一面があったことは否定できない。
 桜姫を恨んでいるならば、彼はその女だけを祟り、骨の髄まで憎んだはずだ。
「だが、実際、咲哉が死んでから、みやこの外は冬に負けはじめた」
 美春は押し黙るしかなかった。
 咲哉の死と異形の蔓延る冬枯れは無関係だと信じているが、たまたま時期が重なったと主張するには、あまりにもタイミングが良すぎる。
 咲哉の死が、桜姫によって齎された悲惨なものであったならば、御霊として祟るという言葉も理解できる。本当に祟ったのかどうかはともかく、そう思いたくなる気持ちが分かる。
 咲哉の死と、京の外が冬に呑まれたこと。
 二つに因果関係があるのかないのか、証明することができない。
「桜姫は役目から逃げたんだって。でも、逃げたことが、どうして咲哉の死に繋がるの」
「さあな。傀儡の私にはあずかり知らぬことだ」
「嘘つき。あなたは、自分が咲哉を殺した、と言った。桜姫を庇うために。……殺したなんて言うのは、どうして? 咲哉の居場所を奪って、帝になったからだよね。そんな理屈、おかしいよ。あなたが望んで帝になったわけじゃないのに」
 帝が傀儡であるならば、背後には傀儡子がいる。今でこそ柊が操り手なのだろうが、帝がつくられた当時も、誰かが帝を操っていたはずだ。
 傀儡である帝には、自らの意志で咲哉を殺すことはできない。
 ならば、どうして、帝は桜姫を庇うのだろうか。それほどまでに、帝にとって無視できない存在なのか。
「桜姫を庇ったつもりはない。お前の言うとおり、私が帝となり咲哉の居場所を奪ったならば、殺したも同然だ」
「ずるいよ。そんなに、桜姫が大事なの?」
 美春は膝を抱えて縮こまる。こうしていると、少しだけ心細さが薄まる気がした。咲哉に愛されただけでなく、帝からも大事にされている桜姫が羨ましい。
「ずるい、とは誰に向けた言葉だ? 私か。あるいは桜姫か」
 後ろめたい気持ちを暴かれて、すぐに返事ができなかった。
 異形によって負わされた左手の傷がじくりと痛み、かきむしってしまいたくなる。
「家族が恋しくなったか。ここは冬に呑まれる。咲哉は、もういないからな」
 生まれ育った世界に戻ったら、仕方ないと笑って家族は迎えてくれるだろう。疑いようもなく、彼女たちは美春を愛してくれていた。
 咲哉のいないこの国よりも、ずっと美春に優しい世界が広がっている。
 帝は美春を抱きしめた。深い意図はないのだろう。落ち込んでいる美春を慰めようとしただけだ。
 そんな仕草が、大好きだった少年と重なってしまう。彼はいつだって、帰りたいと泣く十二歳の美春を抱きしめてくれた。
 神域に打ち捨てられた咲哉。
 死んでからもなお、彼の尊厳が穢されていることが耐えられない。まともに弔われないどころか、祟りを起こすと蔑まれ、冬を呼び込んだ元凶のようにまことしやかに囁かれている。
「咲哉がいなくても。咲哉の国は、まだ残っている。……わたしはこの国のことなんて愛していなかった。でもね、咲哉はこの国を愛していたの」
 美春は、この国にとって異物だった。どうしたって相容れることはないと信じて、こちらの国の住人になることを頑なに拒んだ。
 美春の帰りたかった場所は、この国ではなく咲哉の隣だった。
 だが、美春がたった一年しか過ごすことのできなかった国は、咲哉にとっては生まれ育った場所なのだ。誰よりも自分の虚弱さを嘆いていたのは、強くなければ国を守れないと知っていたからだ。
 守りたかった国が冬に冒されていると知ったら、咲哉は悲しむ。
「咲哉が愛した場所なら、きっと愛していける。たくさんこの国を知って、愛して、守っていけるんじゃないかって思うの。今はできなくても、いつか」
「理解できない。どうして、そこまであれを想う?」
 美春は胸に片手をあて、嗚咽を堪えた。
「好きだった。初恋だったの」
 互いに心を通わせたわけではなかった。
 好きだと何度も伝えたが、それが恋心だなんて、当時の美春は知りもしなかった。家族に想いを伝えるように、近しい友に親しみを覚えるように、心を満たしていたのはあまりにも幼い気持ちだった。
「だが、咲哉は、お前のことなど好きではなかった」
 美春と同じ気持ちを、咲哉は持っていなかったのだろう。
 思い出の咲哉は、一度たりとも好きとは言ってくれなかった。
 どれほど美春が彼を好きでも、今になって恋だったと気づいても、咲哉にとっての美春はそうではなかった。
 こちらに戻ってくるまでの美春は、咲哉も自分を想ってくれているとうぬぼれていたが、咲哉は別の人を――桜姫を愛して亡くなった。死んでしまった彼に問うことはできないが、別れ際の約束に固執していたのは、美春だけだったのかもしれない。
 心が焦げつく痛みを呑み込んで、美春は顔をあげる。
「それでも、わたしは咲哉が好きだったよ。だから、つらくても苦しくても良い。わたしは背負いたいの。ずっと咲哉の背中に隠れていたから、見えなかったものを。ずっと守られてきたから、分からなかったことを」
「異姫は不幸になる」
 まるで呪いでも紡ぐかのように、帝はささやいた。
「不幸になんてならない。まだ、心から受け止めることはできないけれど。咲哉は、わたしが泣いていると、すごく痛そうな顔をしていたの。だから、笑うよ。幸せだって、あなたのところに帰って来たんだよ、って……っ、そう、伝えたい」
 優しい咲哉を悲しませていると知りながら、泣くことを止められなかったのは、十二歳の美春の弱さだった。今になって、もっと彼のためにしてあげられることがあったのではないか、と悔いる気持ちも、美春の我儘だ。
 死んでしまった男の子のために、現在いま、十六の美春は何をしてあげられるだろうか。
「泣かない、もう。必ず神域に、咲哉に会いに行くの。――あなたにだって、春を連れて来てあげたい」
 美春は笑ってみせる。膿んでしまう傷を抱えてでも、きっと歩いていける。
「ならば、私がお前を守ろう。神域の門を開くときまで」
 帝は美春の左手をとると、祈りでも捧げるかのように、そっと傷に口づけた。



モドル | ススム | モクジ
Copyright (c) 2019 東堂 燦 All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-