春告姫
四の章 12
初夏の日差しが、柔らかに地上を照らしていた。
「枯れちゃった」
庭の片隅に膝をついて、美春はうなだれた。近くに立っていた咲哉が、慰めるように美春の頭を撫ぜた。
二人の視線の先には、枯れてしまった桜の枝がある。春、余所から貰った枝が根を出していることに気づいて、咲哉と一緒に植えつけたものである。
いっときは上手く根付いてくれたように見えたが、すっかり元気をなくしていた。
「土が合わなかったのかもしれないね」
「合わない?」
「そう。美春はさ、こちらに来たばかりの頃、ずっとお腹を痛くしていただろう。何を食べても痛いって」
「そんなの、忘れて良いのに!」
美春は耳まで赤くした。大好きな男の子に、食べ物で腹痛を起こしていたことなど憶えていてほしくはなかった。
「忘れないよ、お前のことだもの。この桜の枝は、あのときの美春と同じ。自分に合わないものは毒にしかならないんだよ。幸い、美春の身体は、その毒にも慣れたけれど。この桜は、それができなかった」
「ふうん、咲哉は頭が良いんだね」
美春は、ただ哀しむだけで、桜が枯れた原因を考えようともしなかった。
「僕も、この桜と同じだから。ずっと毒を含んでいるんだよ。生まれたときから」
身体の弱い自らを嘲るように、咲哉はつぶやく。
生まれつき環境に適応できないから、すぐに病のもとを拾っては寝込んでしまう。此の世には、美春たちには無害でも、咲哉にとっては有毒となるものが溢れている。
「どんなに強くて、美しいものだとしても。生まれ育った土がないと、やはり根付くことは難しかった」
「咲哉?」
「だからね。永遠に桜が咲いてくれるように、僕たちが土になるんだよ」
木漏れ日が、まろやかな咲哉の頬を撫でる。
夏の入りの、爽やかな風が吹く日のことだった。
◆ ◆ ◆
美春は睫毛を震わせて、ゆっくりと意識を浮上させる。
「起きたのか」
至近距離で、帝が美春の顔を覗き込んでいる。驚いた美春は、そのまま床に倒れてしまう。背中を打ちつけて呻いていると、呆れたような溜息が降ってくる。
「寝起きくらい大人しくできないのか? いつも落ちつきがないのだから」
「ごめん。もう、朝? わたし、いつのまに寝て」
昨晩、帝の肩を借りたまま眠ってしまったらしい。
「もうすぐ夜明けだな。柊が来たら、すぐにでも神祇庁を出よう」
帝は、柊が助けに来ることを微塵も疑っていない。そのことが、美春は少しだけ面白くなかった。帝から信頼され、頼りにされている柊が羨ましい。
「神祇庁を出たら、盗まれた箏爪を取り返しにいくの?」
「それもそうだが、先に箏を確保する。次に狙われるのは箏だろう」
神域の門を開くためには、桜の伴侶であった女の形見――箏を演奏する必要がある。神祇庁には絃を弾く爪があった。そして、肝心の箏は別の場所に納められているのだ。
門を開くためには、爪と箏の二つが必要不可欠である。
盗まれた爪の行方は気になるが、帝の言うとおり、箏の無事も確認しなければならない。
「どうして、爪、盗まれちゃったのかな。神域への門が開いて、桜が咲いて、何も悪いことなんてないのに」
誰が、どうやって、どのような目的で箏爪を盗んだのか。
冬を退けることができれば、昔のように美しい国に戻ることができる。それを阻む者の気持ちなど想像もつかない。
「春が来ても、奪われたものは戻らない。冬枯れに愛するものを奪われた人々は、春など望まない。自分たちはすべて喪ったのに、何故、他の者たちが助かるのか、と恨むだろう」
「みんな同じ目に遭っちゃえ、って?」
「そうだな。同じだけ傷ついて、苦しんでほしいと願うんだ」
美春は眉を曇らせた。
誰かの不幸を願ってはいけない。だが、実際にそのような立場になったとき、美春も同じ憎しみを抱くかもしれない。苦しければ苦しいほど、幸せに笑っている人間を赦せなくなる想いは、きっと誰もが持ちうるものだ。
「お目覚めですか」
突然、校倉の戸が開かれた。戸口に立っていたのは、壺装束の荷葉だった。
はっとして、美春は彼女を睨みつけた。しかし、身構えた美春とは対照的に、荷葉はその場に膝をつく。
「え?」
そうして、深々と頭を下げた。
「昨夜は、手荒な真似をして申し訳ありません。夜が明ける前に神祇庁を出てください。柊兄さまと八重なら、伯から逃れ、無事に神祇庁から逃れたようです」
彼女の言っている意味を理解して、美春は困惑する。
「あ、頭をあげて! 逃がしてくれるの? 嬉しいけど、そんなことしたら荷葉さんだって」
「覚悟のうえです。異姫、あなたは伯に言いましたね。もう誰も哀しまないために、春が必要なのだ、と。……そんな当たり前のことを、わたしは忘れていました。分からなくなっていた。死んでしまった人たちと向き合うことが、怖かったから」
「荷葉、さん」
この人が柊の妹であるならば、同じように家族を亡くしている。冬に呑まれていく人々、朽ちていく屍と地獄を知りながら生きてきた。
「どうか、ご一緒させてください。あなたが春をくださるというのならば、私もその助けとなりたい。もう二度と、誰も哀しい想いをしないために」
この国には、まだ春を求めている人がいる。優しい気持ちで、咲哉のいる国で生きたいと願ってくれる人がいるのだ。
そのことが嬉しくて、美春は荷葉に手を差し伸べようとする。しかし、険しい顔つきをした帝に阻まれた。
「ずいぶんと、呆気のない心変わりだな。兄である柊が何度説き伏せても、神祇庁を離れなかったというのに。今さら、お前が伯を裏切るとは思えないが」
「帝! そんな言い方」
「神祇庁での私がどんなあつかいだったのか、昨夜の様子を見れば、ご理解いただけるはずです。必要なのは傀儡子で、私ではありません。伯にとって、私は使い勝手の良い狗(いぬ)でしかない」
伯によって平手打ちにされた荷葉の頬は、痛々しいほどに腫れていた。
おそらく、伯の意向に沿うことができなければ、日常的に暴力を奮われていたのだ。一見穏やかそうに見えたあの男は、その実、残酷な一面を持っているのかもしれない。
「狗になるのを承知で、お前は神祇庁を選んだ。ずっとお前を心配していた柊を捨てて」
帝のまなざしから逃れるよう、荷葉は視線を落とした。
「それでも、あのときの私は、柊兄さまが赦せなかったのです」
沈黙が二人の間に落ちる。美春はためらいがちに、一度だけ両手を叩いた。
「帝、行こう。こんなところで言い合ってないで、はやく逃げなきゃ。柊たちは迎えに来てくれるんだろうけど、危ない目に遭わせることになったら嫌だよ」
帝がいる限り、柊たちは神祇庁に戻ってくる。そのような危険を冒させるくらいなら、美春たちが神祇庁を出て、彼らと合流した方が良い。
「信じるのか? 荷葉を」
「信じたいって、思うよ。伯と違って、荷葉さんは京の外にいる人たちを悼んでいるから」
伯のように、穢れた死体と嘲笑うことはなかった。家族を亡くし、自らも冬枯れの世界から逃れてきた荷葉は、喪われた命の重みを知っている。
「信じて、くださるのですね」
美春は目を細めて、もう一度、手を差し出した。
「うん。だから、一緒に行こう」
重ねられた彼女の掌には、たしかな意志が感じられた。
◆ ◆ ◆
夜明けの京は肌寒く、風が頬をなぶる。
左京の町屋は半分ほど取り壊され、田畑へと変えられている。朝方の畑には、ぽつりぽつりと傀儡の姿があった。このあたりの傀儡も、誰かしらの傀儡子が操っているのだろうが、気味の悪さを感じずにはいられない。
傍目からすると、誰が操り手かなのか分からず、なおさら不気味なのだ。
荷葉の助けにより、神祇庁を抜けることができた美春たちは、町屋の影を移動する。
「手薄だったな」
帝のつぶやきに、美春は首を傾げた。
「無事に逃げられたんだから、良いと思うけれど」
「お前の能天気なところは嫌いではないが、少しは疑うことを覚えた方が良い。騙されても、誰も助けないぞ」
「騙されないよ!」
美春がむっとすると、取り成すように荷葉が口を挟む。
「あなた様たちの周りが手薄だったのは、神祇庁が荒れているからですよ。御霊会の場で、私は爪が盗まれた、叫んでしまいました。昨夜から、伯のところには大勢の者たちが詰めかけているのです」
「ああ。それは荒れちゃうよね」
神祇庁に仕える者たちが、何処まで神や異姫について理解しているのか分からない。
だが、社殿に飛び込んできた荷葉の態度を見れば、箏爪の重要性くらいは察することができる。爪が盗まれたとなれば、責任者である伯が対応に追われるのも無理はない。
「本来、伯はとても狡賢い方なのですが、よほど余裕がなかったのでしょうね。あなた様の見張りを私だけに任せるくらいですから」
「それだけ、荷葉さんのことを信じていたんじゃないかな」
伯は荷葉が裏切るとは思っていなかったはずだ。彼が荷葉に振るった暴力を許してはいけないが、裏切らない確証があったからこそ、乱暴することができたのだろう。
「そうかもしれませんね。私と柊兄さまが揉めていることを、あの方はよくご存じですから。私も、異姫がいなければ、伯を裏切ろうなどとは思いませんでした」
微笑む荷葉に、美春も笑い返す。
帝は彼女に疑いの目を向けていたが、美春に同じことはできない。美春たちに協力してくれた荷葉の想いを信じたかった。
それに、日常的に乱暴にあつかわれていたとすれば、心の何処かに逃れたい気持ちがあっても不思議ではない。
「そういえば、柊たちは神祇庁から逃げたって、言っていたけど。本当に大丈夫かな? 追われていたりしない?」
「無事だろう。神祇庁の狙いは異姫だ。柊たちのことは、そこまで深追いしない」
「帝のおっしゃるとおりです。神祇庁は、あくまで自分たちの手で春を呼びたかった。そのために異姫が欲しかったのです。……とはいえ、形見の箏がなければ、異姫がいても意味はないようですが」
形見の箏――此の国を守護する桜、彼が愛した姫君の形見。
荷葉をはじめとした神祇庁の者たちは、形見の箏について知らなかった。自分たちが保管していた箏爪についてさえ、文書を引っ繰り返して確認していたくらいだ。
冬枯れの呪いを退けて、春を呼ばなければならない。
しかし、生きている人間の誰もが、春の呼び方を忘れてしまった。それくらい長い年月が経ったのだ。すべて憶えているのは、傀儡として長い時を過ごした帝だけだ。
「箏って、何処にあるんだっけ?」
「話していなかったか? 咲哉の山荘だ」
途端、荷葉は渋い顔になる。
「春宮の持ち物は、あの方が亡くなったとき、すべて神祇庁に渡ったはずですが」
「そう遠くないとはいえ、京の外にある山荘だ。ほんの小さな邸で、今となっては冬に呑まれてしまった。そのような建物、神祇庁も要らないだろうよ」
「京の外にあるなど、なおさら納得できません。そもそも、何故、国を裏切った春宮の山荘に、大事な箏を隠したのですか」
「裏切り者だから、だ。まさか、咲哉の邸に大事な箏があるなんて、誰も思わないだろう。本当に必要となったとき、奪おうとする者が現れたら困る。お前たち神祇庁のように」
「……帝。荷葉さんは助けてくれたんだから、そんな言い方は止めてよ。荷葉さんも、あんまり春宮のこと悪く言わないで」
帝と荷葉は互いに目を合わせたあと、小さく息をついた。
「では、一刻も早く、山荘に向かいましょう」
「柊と合流するのが先だ。私たちが神祇庁に残ったままと思われて、すれ違いになると困る。それに、傀儡の私はともかく、生身のお前たちが、準備もせず冬枯れの地に赴くなど自殺行為だ」
形見の箏は、京の外にある山荘に保管されている。まったく準備もせず、冬に呑まれた極寒の地へ飛び込んでいくわけにはいかない。
「けれども! 異姫が現れた時点で、桜の神には、もう猶予はありません」
荷葉は間違ったことは言っていない。桜が枯れるとき異姫は攫われてくるのだから、すでに一刻を争う事態だ。
ふと、美春は足を止めた。
「美春?」
先を歩いていた帝が、訝しげに振り返った。
美春は右手にある畑から、目を離すことができずにいた。
何本もの透明な絃が、朝焼けの空から垂らされていた。光のつぶてを纏いながら揺れるそれは、最初は細やかに、次第に大きくしなる。
「異形」
直後、生い茂った葉野菜の影から、化け物は現れる。
蜜を垂らしながら、かさり、かさりと蜘蛛のような足を動かしている。見る見るうちに作物は枯れて、畑は紫に変わりゆく。
途端、視界が大きく揺らいで、火にくべられたように目が熱くなった。
網膜に直接焼きつけられたかのように、ここではない何処かの景色が広がっていく。
小高い丘から、美春は――、否、美春ではない何かが荒廃した大地を見下ろしている。うごめく異形の群れに囲まれて、ただ静かに、丘の上に坐していた。
枯れて、皺だらけになった枝先が視界に映る。かつては薄紅の花を咲かせていたその樹木を、美春は憶えていた。
「美春!」
名を呼ばれた瞬間、視界は一瞬にして現実に戻る。
畑から現れた異形が、ぎょろりとした無数の目玉を向けている。
弾いて、私を。
頭に響いたのは、誰とも知れぬ声だった。はじめて異形と対峙した日にも、そっと美春に語りかけた声だ。
声に導かれるよう、美春は袖口から、祖母が日本で授けてくれた箏爪を取る。
異形は箏の絃のようなものに繋がれ、小刻みに身を震わせている。
桜の神が、祖母の神社が祀る桜と同じであるならば、それは箏の桜とも呼ばれるはずだ。可哀そうな姫君のために、花弁を揺らし、いつか箏の音を奏でるようになった神。
その桜と同じように、異形は絃を持っている。
ならば、どれほど醜い形相をしていても、美春が慣れ親しんだ楽器と同じなのではないか。
箏爪を嵌めた両手を、そっと宙に伸ばす。
恐怖が薄れて、迷いが急速に消えた。異形を繋ぐ絃を、ここには存在しない箏を奏でるように爪弾いた。
ぽろん、と絃が鳴いた気がした。
大きく息を吐きながら、続けざまに指を動かす。あの蜘蛛のような足が邪魔だった。足さえ奪えば、あれは動けなくなる。
異形の足が潰れる姿を想像して、強く絃を弾く。
うああああああああん、と絶叫が響いた。人の声とも獣の声ともつかない、もっと深く澱んだ地響きだった。
異形は自らの足を何度も地面に叩きつけ、折れてひしゃげた足を潰していく。やがて支えきれなくなった身体を地に落として、微動だにしなくなった。
「美春!」
傾いだ美春の身体を、後ろから帝が支えた。力の入らない手足を投げ出して、美春は息を吐いた。
頭を直接かき混ぜられて、抉られたように両目が痛む。
――ささやいた声、垣間見てしまった不毛な景色は、もしかして。
がしゃん、と破壊音が響いて、美春は肩を揺らす。
「こんなところにいた」
動かなくなった異形を下敷きにして、水干姿の八重が現れる。
柊の傀儡である彼は、続けざまに異形を踏みつける。浅沓に鉛でも仕込んでいるのか、異形は粉々に砕かれてしまう。
「これから迎えにいくところだったのに。よく神祇庁から逃げられたね」
異形から離れて、少年は軽やかに美春たちのもとにやってくる。
「八重!」
駆け出した荷葉は、勢いのまま八重に飛びついた。自分より背の高い女性を危なげなく受け止めて、八重は首を傾げる。
「どうして、荷葉がいるの? 帝、美春、こっちに来て。隠れ家で柊が待っている」
荷葉に抱きつかれたまま、八重は手招きをした。
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