春告姫

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  五の章 16  

 十二歳の美春は、しかめ面で絃を弾く。
 想像していた綺麗な音は出なくて、箏は悲鳴をあげる。記憶にいる祖母を真似しても、紡いだ旋律は、彼女の奏でるものとは真逆の醜いものだった。
 文机に向かっていた咲哉が、喉を震わせて笑う。
「箏なら弾けるんじゃなかったのか?」
 数日前、女房に叫んだことを揶揄される。
 もっと淑やかに、楽器のひとつでも演奏できるように、と叱られて、売り言葉に買い言葉で、箏なら弾けると返したのだ。
 だが、結果はこのとおり、あまりにもひどい音だった。
 祖母の稽古から逃げていたことが悔やまれる。せっかくの機会を棒に振って、ちっとも上手に演奏することができない。
「そんなに笑うなら、咲哉が弾けば」
 咲哉ならば、美春より上手に爪弾くことができる。女房にとって、彼は自慢の春宮であり、美春より淑やかで落ちつきのある男の子なのだから。
「僕は、お前の箏が良いんだよ。お前の筝を聴いていると、僕は穏やかでいられる。誰も恨まず、誰も憎まず、春宮の役目を果たせる気がするんだ」
 絃から手を離して、美春は首を傾げる。
「こんなに下手なのに?」
「たしかに下手だけど。でも、嫌いじゃないよ。だって、僕のためだけに弾いてくれる、僕だけの音だから」
「じゃあ、いつでも弾いてあげる」
 咲哉が喜んでくれるなら、と美春は笑った。
「いつでも?」
 探るような問いは、はじめから美春のことを信じていなかった。
 美春は何も言えず、唇を開いては閉じるを繰り返す。
 脳裏を過ったのは、生まれ育った世界のことだ。
 突然こちらに攫われてきた美春のことを、姉や母は気に病んでいないだろうか。祖母の家で行方不明になってしまったことに、彼女は責任を感じているはずだ。
 十二年間生きた場所を、捨てることなどできない。
 叶うならば、もう一度、家族に抱きしめてもらいたい。咲哉のことは好きだが、だからと言って、向こうの世界を割り切れるほど強くなれない。
 咲哉は美春を手招きする。近づいた美春のまなじりを、そっと彼の指がぬぐった。
 いつのまにか、美春の頬を透明な滴が伝っていた。
「ばか。いつでも、なんて嘘だよ。今だけで良い。……だから、箏を聴かせて、僕にも優しい夢を見せてよ」
 故郷を、家族を恋しがる美春の涙を拭いながら、咲哉は寂しげに零した。

◆ ◆ ◆

 柔く首を絞められているかのように、息が苦しかった。
 反射的に、美春は首筋に触れていた誰かの指をはたき落とす。
「……っ、荷葉、さん?」
 暗がりには、わずかな月明かりしか射し込まない。目を凝らしたところで、ようやく荷葉の姿を捉えることができた。
 彼女は心配そうに眉をひそめていた。
「申し訳ございません。汗を拭ってさしあげようかと」
 町屋の壁に背を預けていた美春は、首元をたしかめるように触れる。
「汗、……ああ、ごめん。少し、うとうとしちゃって。疲れているのかな」
 追われている緊張感と疲労で、つい眠ってしまったようだ。全身が汗ばんで、鼓動が早まっている。先ほどの息苦しさもそのせいかもしれない。
「無理もありません。兄さまの隠れ家を出てから、ほとんど休まず移動していたのですから」
 とにかく、無我夢中で走っていたように思う。京のことなど分からぬ美春は、ただ帝に手を引かれながら必死に足を動かした。
 また夜が来たということは、丸一日かけて移動していたことになる。
 足は棒切れのようで、すでに感覚がなかった。慣れない浅沓を脱げば、つまさきや踵の皮が剥けて血が滲んでいる。
「ここ、何処なんだっけ?」
「右京一条十六町と言っても、異姫には分かりませんよね? 柊兄さまの隠れ家とは正反対の場所だと思ってください。あちらは神祇庁にほど近い左京ですが、ここは内裏近くの右京になります」
 美春は、頭のなかに京の地図を描く。
 内裏は地図の上部、神祇庁は下部にあたる。そして、左京と右京は内裏から見ての左右なので、なんとなく現在地を頭に思い浮かべることはできた。
 つまり、地図では左上のあたりにいるらしい。
「ここから、箏のある山荘に行くの?」
「はい。神祇庁は把握していなかったのですが、この近くに、京の外へと繋がる道が隠されているそうです」
 荷葉は不服そうにしていたが、美春には思い当たる節があった。
 帝は、神祇庁のことを京に入るためのほとんど・・・・唯一の道と言った。他にも例外があることを、暗に示していたのだ。
 美春がこの国に戻ってきたとき、落ちた場所は冬枯れの地だった。すなわち、京の外である。
 あのときの帝たちは、おそらく神祇庁を通って京の外に出たわけではない。
 異姫――美春の存在を隠すために、秘密裏に動いていたはずだ。このあたりに隠されている、京の外へと繋がる道を使ったのだろう。
「そっか。まだ京にいるなら、そんなに長くは移動していなかったのかな? すごく、疲れた気がするけれど」
「最短の道を通れば、隠れ家からここまで、そう遠くはありません。ただ、伯に見つかるのを避けるため、ずいぶん遠回りしましたから。長い距離を移動した、というのは間違いではありませんよ」
 荷葉は、吐息に疲れを滲ませる。
「帝たちは?」
「外で見張りをされています。八重を傍に置いておくから、私たちは朝まで眠るように、と」
 姿は見えないが、柊の傀儡――八重が近くに控えているらしい。
「そう。でも、目が覚めちゃった」
「ずいぶんと魘されていましたからね。悪い夢でも見たのですか」
「ううん。悪い夢ではないの。幸せな夢。もう会えない、亡くなった人の」
 荷葉はかぶりを振って、美春の言葉を否定する。
「幸福だった過去ほど、悪い夢はありません。だって、幸せであればあるほど、苦しみは増すのですから」
「そうだね。幸せな思い出だったから、後悔もたくさんあって。……わたしは、その人に会うために帰ってきたのに。戻ってきたら、もう死んでしまっていたの。ばかでしょ? もっとはやく会いに来るべきだったのに」
 幸せだった過去を思い出して魘されるくらいならば、もっと前に会いに来るべきだった。頭を過ってしまう後悔に、幾度、惑わされるのだろう。
 荷葉は恐る恐ると言った様子で、美春の顔を覗き込む。
「異姫は、はじめてこちらに来たのでは?」
 帝と違って、荷葉は知らないのだ。美春がこの国に来たのが二度目であることを。
「二回目なの。ぜんぜん前と様子が違って、驚いちゃった」
 帝は、咲哉の春告げ鳥、と美春を呼んだ。
 帝がつくられた頃ならば、咲哉に仕えていた者たちも生きていた。内裏を駆けまわっていた美春を憶えている者も、少なからずいたはずだ。
 しかし、帝以外の者たちにとって、当時は遠い過去のことだ。帝に仕えている柊はともかく、荷葉が事情を知らないのは当然だ。
「なら、あなたは、幸せだったこの国を知っているのですね」
 当時の景色を憶えているのは、美春と、時の流れに逆らってきた傀儡の帝だけだ。
 あの頃、まだ桜の神は咲いていて、この国は冬枯れの呪いから守られていた。
 ごく当たり前の四季があって、京の外にも緑の土地が広がり、皆が桜花神のつくりあげた幸福な夢を揺蕩うことができた。
「うん。咲哉の傍は、すごく綺麗だったの」
「私は、そんな幸せな光景を知りません」
 荷葉はまなじりを拭った。泣いているのかと思ったが、そうではなかった。泣くのを堪えるかのように、唇を噛んでいる。
「なら、荷葉さんにも見せてあげる」
 あの美しい景色は、十二歳の美春にとって日常だった。守られていたから、この国に根づいていた哀しみに気づけなかった。
 今度は、美春が美しかった国を取り戻し、守る番なのだろう。

◆ ◆ ◆

 わずかな月光が、墨を滲ませたような闇を暈していた。
 夜に目を凝らしても、人間である柊には、薄らとしか帝の輪郭を捉えることはできない。
 しかし、町屋で荷葉たちを見張っている八重や、あたりを警戒している帝ならば、暗闇でもあらゆるものがはっきりと見えているのだろう。
 はるか昔から、傀儡とはそういうものだ。人間より頑強で、優秀であるようつくられる。その代償として、心を、魂を持つことはない。
 柊は、傀儡子のはじまりが何であるのか知らない。
 先祖は、大陸を渡ってきた異民族だと聞いている。怪しげな呪術師や、果てにはカビ臭い文献にある魔物や妖精などという化け物がはじまりだとも教えられた。あまりにも説が多く、最早、どれが真実だったのか判断できないのだ。
 ただ、まるで息をするように、人形を操ることができた。年齢を重ねながら学びとったものというより、生まれたときから自明の技術だった。
 どうやって傀儡をつくり、動かしているか、と問われても、柊には説明できない。
 呼吸の仕方を教えることは、誰にだって難しい。いつのまにか、もしかしたら生まれたときから修得していたそれらを、傀儡子ではない者たちに伝えることはできなかった。
「あまり見つめられると、穴が空きそうだ」
 帝は紅紫の目を細めた。その宝玉のような瞳が、柊の心をかき乱す。
 はじめて会ったときから、彼の瞳は変わることはない。いつだって深い苦しみを湛えていることを、柊だけは分かっている。
 かつて、幼い柊を救った傀儡は、永劫にも似た苦しみを抱えながら彷徨っている。進むことも戻ることもできず、何処にも行けないまま時を止めた。
「お身体の調子は、いかがですか?」
「……まあ、動くことはできる」
「申し訳ございません。山荘に向かう前に、不具合を直してさしあげたかったのですが。まさか、隠れ家の場所が知られているとは」
「伯の方が、一枚上手だったようだな。思っていたより追手が優秀だ」
 隠れ家の場所は、神祇庁に覚られぬよう厳重に選んでいたつもりだ。万が一に備えて、用意していたのも一箇所だけではない。
 それにもかかわらず、いやに早く居場所を知られてしまった。
「端から、俺の隠れ家なんて押さえていたのか。あるいは、俺たちの居場所が分かるような仕掛けをしているのか。どちらにせよ、確信は持てませんが」
「そうだな。お前の可愛い妹が、伯に情報を流しているとしても確信は持てない」
 最も疑わしいのは、神祇庁から寝返った荷葉である。彼女が密偵だとすれば、帝たちの居場所が神祇庁に筒抜けになる理由も分かる。
 荷葉は優秀な傀儡子ではないが、複数の傀儡を動かすことくらいならできる。彼女ならば、帝たちの傍にいながら、何食わぬ顔で伯のもとへ情報を流すことが可能だ。
「……荷葉には、密偵なんて器用な真似はできませんよ。伯のことです、俺の隠れ家なんてずっと前から場所を知っていたんでしょうよ。そうに決まっています」
「隠れ家を知っていたならば、火などつけず、美春を捕まえるべきだ。伯とて、騒ぎになっては困るのだから。私が傀儡であること、皇族の血が絶えたことが公になれば立場がない」
 本来、皇族の血を絶やさないことは神祇庁の責務だ。それを怠ったことが表沙汰になるのは向こうとて避けたい。神祇庁でも、帝が傀儡であることを知っているのは一握りなのだから、なおさら伯は慎重になる。
 少なくとも、火事を起こし、衆目を集める真似はしない。
 現時点で最も怪しいのは、荷葉に他ならない。彼女を疑いたくないのは、柊の私情である。そのようなこと、柊自身が一番よく分かっていた。
「何より、あの炎で異姫が死んでしまったら意味がない。神域が開くまで、異姫には生きていてもらわなければ」
「いっそ殺してやりたいですけどね。異姫がいるから、俺たちは苦しい。あなただって、ずっと苦しんできた」
 異姫など嫌いだ。ずっと、嫌いだった。自分たちを救ってくれなかった女など、この人を苦しめる者など消えてなくなってしまえば良い。
「その苦しみも直に終わる。……荷葉のことは、どちらでも構わない。寝返ったふりをして伯と繋がっていたとしても、美春に心動かされて味方しているのだとしても。私は、お前たちに負い目があるからな」
 帝が負い目を感じているのは、柊たちに限った話ではない。
 喪われていったすべての人々に対して、帝は深い罪悪感を抱えている。冬枯れを終わらせることができず、救うことのできなかった命を悔いている。
「そんなの、あなたのせいじゃありません。ぜんぶ異姫が悪いんだ」
 吐き出した言葉は、あまりにも子ども染みていた。だが、柊には帝を憎むことだけはできなかった。
 冷たい池に身を投げた、小さな子どもだった柊が悲鳴をあげている。あのときの柊を池から引き上げて、背を撫ぜてくれた手を、今もなお忘れられずにいる。
 ――この人の願いを、叶えてあげたい。
 それだけを胸に、この十年間を過ごしてきたつもりだった。



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