春告姫
五の章 17
冬枯れの景色は何処までも深く、ひたすらに不毛という言葉が似合う。
雪風が頬をなぶって、浅沓で踏みしめた地面の雪は固くなっていた。布で素足を覆い、そのうえから沓を履いたものの、足先はすでに冷え切っている。長い時間が経てば凍傷になりかねない。
赤くなった鼻をすすって、美春は睫毛を震わせる。
一歩一歩進んでも、この雪では、目的地まで近づいているのかさえ分からない。先を歩いている柊や荷葉、八重の姿さえ霞んでいる。
「寒いか?」
歩くのが遅れがちな美春を気遣うよう、帝が足を止める。
「ううん、まだ大丈夫。そんなに遠くはないんだよね?」
「行って帰って来るだけならば、半日もしない距離だ。異形にさえ気をつければ、さして危ない道ではない」
「咲哉、あんまり遠くまでは行けなかったもんね。身体が持たないから」
病弱だった咲哉には、長距離の移動は困難である。彼のための山荘ならば、京に近い場所にしか構えられない。
「すぐ寝込む男だったからな。……そう不安に思わずとも、山荘なら、お前も行ったことがある場所だ。気構える必要はない」
「もしかして、咲哉の山荘って、わたしがこの国に戻ってきたときに落ちた場所なの? 百五十年前、咲哉が療養に使っていたところ」
気づくことができなかったが、美春は四年前も今回も、同じ場所に落ちていたのだ。
荒廃した邸が、かつて咲哉に拾われた邸と同じだとは認識できなかったのは、百五十年も時が流れていることを知らなかったからだ。
「そうだ。もともと、あの地は、桜花神が異世から降臨した場所とされている。異世からこちらに至る道があるのだろう」
いま、桜の神が根づいているのが神域であっても、この世界に現れた場所も同じとは限らない。山荘こそ、桜の神が降臨した地ならば、美春がそこに招かれたのも道理だ。
神域がそうであるように、山荘もまた、二つの世界を繋ぐ道のひとつなのだ。
寒風が吹き抜けて、つい、美春はくしゃみをしてしまう。
「やはり寒いのだろう。やせ我慢をして、嘘はつくな」
帝は苦笑して、自分の狩衣を美春の肩にかけた。
冷たい衣が重ねられて、美春はその衣に顔を埋めるように首を縮めた。
優しい人なのだ。彼の左胸が伽藍堂と思い知らされてもなお、その優しさまでつくりものとは思えない。
「帝は、優しいね」
「優しい?」
「すごく感謝しているの。一人だったら、わたし何もできなかったよ。いろんなことを恨んで、どうして、って泣いてばかりいたと思う」
咲哉の死によって心が折れて、腐って、立ちあがる気力すら湧かなかっただろう。帝がいたから、美春は今もこうして歩いていける。
ずっと、美春は彼に導いてもらった。
「だから。わたし、あなたに春をあげたい」
春が欲しい、という帝の願いを叶えてあげたかった。
「異姫!」
先を歩いていた荷葉が、切羽詰った声で美春を呼んだ。
反射的にあたりを見渡せば、いつのまにか数体の傀儡が迫っていた。舞い散る雪にまぎれ、陰のように揺らぐ傀儡たちは、能面のような顔で美春を見ている。
「待ち伏せされたのか。――美春、このまま進め。そう遠くないうちに山荘だ」
いささか乱暴に、帝は美春の肩を押した。駆け寄ってきた荷葉が、よろける美春の手を掴んだ。
「こちらに!」
「待って! 帝は」
足をもつれさせながら、美春は振り返る。ろくに修理もできずにいた帝に、傀儡を相手どることができると思えなかった。
「大丈夫だ。あのような木偶、すぐに壊せる」
美春を安心させるように微笑んで、帝は操り手の分からない傀儡たちと相対した。柊は溜息をついて、美春たちを追い遣るよう手を振った。
「心配するな。八重を壊すことになったとしても、帝だけは守る」
「兄さま!」
自分の傀儡である八重を犠牲にしてでも、帝だけは守る。そうと言った柊を、荷葉は非難する。
「小言は後にしろ。さっさと、その足手まといを連れていけ」
荷葉は唇をぐっと噛むと、美春を連れて走りはじめた。
駆けていく荷葉に従いながら、美春の胸は不安でいっぱいだった。いくら柊や八重がいるとはいえ、残してきた帝の安否が気がかりだった。
やがて、雪の原が開けて、小さな邸が姿を現した。
ほとんど原型を留めていない邸は、やはり荒廃していた。池には氷が張っており、十二歳の美春が咲哉と出逢った反橋もない。
それでも、この場所こそが美春と咲哉のはじまりの地なのだ。
「箏」
この国に戻ってきたときは夜闇のせいで分からなかったが、太陽が昇っている今ならば見えるものもあった。
――崩れた邸の、折り重なった柱の奥に、綺麗に形を保った舞台があった。
二畳半もない舞台に、箏が鎮座している。
長い年月、雨風にさらされた邸と一緒に劣化してもおかしくなかったが、瑕ひとつない。艶やかな漆、描かれた花霞や張られた糸さえも損なわれていなかった。
「箏など、本当にあったのですね」
半ば呆然とした様子で、荷葉はつぶやいた。彼女はそのまま箏に近づこうと、おぼつかない足取りで進んでいく。
「荷葉さん」
美春は、とっさに荷葉の袖を引いた。胸のざわつきが治まらず、頭の奥で警鐘が鳴り響いている。
「さっき。どうして、傀儡に気づいたの?」
美春と帝は、荷葉より後ろを歩いていた。冬に冒された山道は吹雪いており、互いの姿をはっきりと確認することも難しかった。
後方にいる美春たちの危機に、どうして先を歩いていた荷葉が気づけたのか。
「傀儡子は、自分の傀儡のことなら離れていても分かるのですよ」
紅を刷いてもいないのに赤い唇を吊りあげて、荷葉が笑む。
「よくやった、荷葉」
辛うじて保たれていた丸柱の影から、獣の皮を羽織った男が現れる。柔らかな茶髪を風になびかせて、神祇庁を束ねる伯は満足そうに頷いた。
伯に付き従うようにして、男の姿をした傀儡がいる。見覚えのあるその傀儡は、内裏から神祇庁へと向かう際、美春を連れ去ろうとした傀儡だった。
美春は言葉を失くして、呆然と立ち尽くしてしまう。
「お望みどおり、箏の場所を探り、異姫を連れ出しました。帝や柊兄さまたちは、しばらくは来ないでしょう」
荷葉は落ち着いた態度で、美春の手首を掴んだ。異様なほど強い力に引きずられて、美春は伯の前に突きだされる。
「箏に、爪が揃った。あとは異姫、あなたが俺たちと一緒に神域へ向かうだけ」
うっそりとまなじりを下げて、ことさら優しい声で伯はささやく。
「……爪は、盗まれたって」
「帝にだけは、箏爪を渡すわけにはいきませんでした。ねえ、荷葉?」
さすがの美春も、伯の言わんとすることを察した。
神祇庁にあった箏爪は盗まれたわけではない。
盗んだという体で、神祇庁が爪を隠したのだ。それを実行したのが荷葉ならば、ようやく、美春は爪が盗まれたからくりを理解した。
「傀儡は、魂のない空っぽの道具。だから、箏爪に拒まれることはなかった?」
そうだとしたら、異姫でなくとも、爪を移動させることはできる。
「過去の記録によると、桜花神の伴侶の形見は、異世の血肉以外を拒むそうです。いいえ、正確には、異世の血肉と異世に纏わる魂、になるのでしょうね。その身も、その魂も異世に通じる者こそが、形見の箏を奏でるにふさわしい。……されど、魂なき道具であれば、拒まれることはありません」
神祇庁が、どのようにして爪を隠したのか。美春にしか触れることのできなかったそれを、何故、隠すことができたのか。
答えは、すぐ傍に在ったのだ。魂なきものならば、爪に拒まれることもなかった。
しかし、そこまで考えて美春は引っ掛かりを覚える。
――なら、どうして、神祇庁での帝は、箏爪に拒まれたのだろうか。
「考え事とは余裕ですね。帝たちは助けには来ませんのに」
はっとした美春は、荷葉を睨みつける。
「神祇庁を裏切ったのは、嘘だったの?」
「簡単に心変わりができるのならば、何年も神祇庁におりません。八重をつくった柊兄さまを、私は一生赦しません」
「荷葉は、ずっと兄を恨んでいる。今さら帝たちのもとには行かないさ」
荷葉は、伯の言葉を否定しなかった。おもむろに片手をあげて、彼女はまるで何かを決意するかのように目を眇める。
「けれども、あなたの望みに賛同したわけではありません。伯」
一瞬のことだった。伯の背後に立っていた傀儡は、懐から銀色に光る小刀を取り出す。
「危ない!」
叫んだ声は、すでに遅かった。咄嗟に振り返った伯が身を逸らすが、間に合わない。
伯の悲鳴があがって、美春はひっ、とか細い吐息を洩らした。
傀儡のかざした小刀が、深々と伯の右足に刺さっていた。血が飛び散って、真白い雪景色が赤く穢されていく。
「あら、ずれてしまいましたか。腹を刺すつもりだったのですが」
倒れた伯に向かって、荷葉は残念そうに首を傾げた。
「荷葉、お前!」
太腿からおびただしいほどの血を流し、伯が怒鳴る。青ざめた美春は、その場に縫いとめられたかのように動けなかった。
「私の望みは、十年前から、ひとつだけです。神祇庁も帝も、どちらも要らない。――春など、私は望みません」
「荷葉さん、あなたは」
ここに来て、ようやく荷葉の望みを理解する。春を求める帝や神祇庁とは正反対の願いを、ずっと彼女は胸に秘めていたのだ。
――春など赦せない。すべて冬枯れの呪いに呑まれてしまえ、と荷葉は願っている。
美春が連れてきたかった春は、彼女にとっては絶望そのものだったのだ。
「今さら春が来ても、死んだ者たちは戻らないのです。手を伸ばしても救われなかった人々を捨て置いて、また京の人間だけ幸せになるというの?」
荷葉は白い面をはらはらと涙で濡らす。彼女のまなざしの先には、折り重なる屍が、死んでしまった弟――八重という男の子がいるのだ。
美春は怯えそうな心を叱咤して、荷葉を見据えた。
「でも、春が来なければ、ずっと哀しいままだよ。だから、荷葉さんが哀しいことを望むなら、わたしは止める。もうこれ以上、誰も、死んではいけないと思うから」
「それをあなたが言うのですか? 一度、この国を捨てたくせに。虫唾が走るような綺麗事ばかり言うのですね」
「どうしても、止まってはくれない?」
止まってほしかった。だが、荷葉はすでに覚悟を決めていた。
「止まりません。歩みを止めてしまえば、私は死んだ人々に砂をかけてしまう。もう一度、彼らを辱めることだけは……っ」
荷葉の言葉を遮るように、美春は踏み出した。全身をばねのようにして、勢いのまま彼女に飛びつく。
荷葉が形見の箏を壊すつもりならば、美春が止めなければいけない。
「わたしは春が欲しい。だから、荷葉さんの願いは、叶えられない!」
荷葉の両肩を押して、一緒に地面に倒れ込む。衝撃に歯を食いしばりながら、荷葉の動きを封じようとする。
荷葉は腕をばたつかせて、伯を刺した傀儡を操る。傀儡は、荷葉に覆い被さる美春を退けようと、美春の首に腕をまわす。
もみ合いになった拍子に、美春の袖口から箏爪が落ちた。
料紙に包まれていたそれは、現代にいた頃、祖母から譲り受けた箏爪だ。
落下した爪が、偶然、荷葉の手に触れる。途端、小さな火花が散った。
「……っ、ぁああ!」
痛みに呻いた荷葉の手は、赤く腫れあがっていた。祖母の箏爪は、荷葉のことを拒んでいた。
――まるで、神祇庁に納められていた箏爪と同じように。
力を緩めてしまった美春は、傀儡によって乱暴に引き倒される。全身を打ちつける痛みを堪えながら、美春は顔をあげる。
よろけながら立ち上がった荷葉が、傀儡を箏のもとに走らせようとしたときのことだった。
「そこまでだよ」
山道を駆けあがってきた八重が、舞台上にある箏を守るようにして立つ。腕に抱えていた何かを、八重は放り投げた。
それは傀儡の残骸だった。
「私、の」
帝たちを足止めしていた傀儡のひとつなのだろう。
「ぜんぶ壊してきたよ。もうすぐ柊たちも来る。荷葉、あなたは不出来な傀儡子。あんな木偶、いくらかき集めたって僕と帝で十分だ。――これ以上は、だめだよ。あなたを殺さなくてはいけなくなる。今の僕はあなたに乱暴できないけれど、柊が命じるなら話は別だから」
八重は淡々と最後通牒を告げる。
「……八重は。本当の、八重なら。そんなこと絶対に言いません」
「僕は、あなたの《八重》じゃない」
その言葉に、いちばん荷葉は傷ついていた。
肩を震わせた彼女は、美春たちに背を向ける。そうして、傀儡に抱えられて、雪景色の奥へと逃げてしまった。
美春はうなだれて、その場に座り込んだ。
「怪我をしたの?」
「大丈夫。……八重は、つらくない? 荷葉さんに裏切られて」
「つらくない。僕は人ではないから、何をしても傷つかない。だから、そんな顔しないで、何でもない顔して笑っていて。その方が、僕たちはずっと強く在れる。ねえ、柊」
ようやく山荘まで辿りついた柊は、小さく頷いた。後ろには帝もいる。
「そうだな。道具が壊れるのは、いつだって使う側の責任だ。迷いや惑いが、お前たちを壊してしまう。……荷葉は、傀儡子としては失格だな」
壊れた傀儡を指差して、柊は笑う。
「どうして、笑えるの」
こんなときに笑みを零した柊が、美春には分からなかった。
「笑うしかないだろう、こんなの。俺は間違ったことはしなかった。なのに、何故だ! すがりつく奴らの手を振り払って、妹だけを連れて京の門を潜った。それを間違いだなんて、今も思ってはいない。俺は正しいことをした! 後悔などするものか。大事なものを守るために、他の者を捨てたことを誇りに思う」
柊にとって、守るべきは妹であり、他の人間など構ってはいられなかった。十年前、まだ十歳にもなっていなかった柊に守れるものは妹だけだったのだ。
彼は傀儡子だった。その価値をもって、妹と二人だけでも生き延びようとした。見捨ててしまった人々に罪悪感を抱きながらも、後悔はしていないと胸を張る。
「でも、荷葉さんは」
柊の守りたかった妹は、もしかしたら、ずっと自分を責めていたのかもしれない。
冬に巣食った異形に殺された家族、幼い弟、そして苦しみながら見捨てられていった縁もゆかりもない数多の人々が、彼女の心をずっと蝕んでいたのだ。
春が来るなど赦せない、と彼女は泣いていた。死んでしまった人たちに与えられなかったものを、見捨てた者たちが享受することなど赦せない、と。
「荷葉は優しい娘だった。京の門を潜ったとき、苦しむ奴らの姿を目に焼きつけて、あいつは何を想ったのだろう。もしかしたら、死んでしまった八重が手を伸ばしているように見えたのかもしれない」
柊は隣にいる少年に視線を向ける。
傀儡である八重は、柊のまなざしにある哀しみを理解することはない。故に、不思議そうに首を傾げるだけだった。
「柊は、荷葉さんをどうするの」
姿を消した彼女は、また美春たちの前に立ち塞がるだろう。
「さあ。あれを守ってやりたいとずっと思っていた。死んでしまった八重にも、頼まれていたからな。俺は荷葉を殺せるだろうか」
柊は自嘲する。美春には、それがすべてを諦めている者の笑みに思えた。
「荷葉さんは赦せないって、言ったけど。それでも、わたしは春が欲しいよ。それが見捨てられてしまった人たちへの裏切りだとしても」
救われなかった人々にとって、いまさら生き残った人間たちが幸せになることは認められないのかもしれない。
だが、それでは哀しいことは何も終わらない。
「綺麗事だな。余所者だから、お前はそうやって綺麗なことを言えるんだ。口ばかりのくせに。……おい、立てるか。その程度の怪我で動けないなど、らしくない」
柊がぞんざいに声をかけると、太腿の傷を押さえていた伯が顔をあげる。青白い顔をした彼は、いかにも不機嫌そうに唇を歪めた。
「野蛮な傀儡子と一緒にしないでくださいよ。この血を見れば分かるでしょうに。ひどい怪我ですって」
「ひどい怪我のわりに、口だけは良く回る。大人していろ、死にたくないなら」
「言われなくとも、大人しくしていますよ。まだ死にたくはありませんから。はあ、もう止めです、止め。今回は譲ります。あなたたちが春を呼んだあと、神域に戻るための手段を考えますよ」
「ずいぶんと、あっさりと引くんだな」
「そりゃあ、昔の神祇庁なら、死にもの狂いで神域を目指したでしょうが。俺には、そこまでする情熱はありませんよ。あんな場所に追い遣られているのは我慢なりませんが、地位も名誉も、国が滅んでしまったら意味がない」
額に脂汗を滲ませながら、伯は自らの傷口を止血しはじめる。彼の足下は血で真っ赤に染まっていた。
「まさか荷葉が裏切るとは。春が来るなど、赦せない、ね。死んでいった者たちのことなんて、忘れてしまえば良いだろうに。いつまでも気にかけて、憐れな娘ですねえ」
「……それだけ、優しいんだよ」
思わず、美春は口を挟んでしまった。門の外にある死体を穢れと嘲笑った伯と違って、荷葉は優し過ぎたのだ。
「愚かの間違いでは? 死んでいったのは、単に運が悪かっただけだ。誰のせいでもない。そんなものに罪悪感を抱け、というのはおかしなことです。俺が伯として生まれついたのも、荷葉や他の連中が京の外に生まれたのも、すべては運ですよ。たまたま京に生まれただけで憎まれるなんて、可哀そうなのは、むしろ俺たちですって」
自分だけが正しいと信じている人間が、罪悪感など抱くはずがない。伯からしてみれば、死んでいった者たちは路傍の石に過ぎないのだ。
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