春告姫

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  五の章 18  

 形見の箏が納められた舞台に、帝は腰を下ろしていた。
 物憂げな彼の隣に、美春は座る。あまりの寒さに身震いをして、帝から借りている狩衣を羽織り直した。
「箏、無事で良かったね」
「だが、爪がない。荷葉から取り返さなくては」
 美春は首を横に振って、袖口から箏爪を取り出す。
「わたしの、おばあちゃんが言っていたの。この爪は、桜に娶られた姫君の形見だって。わたしは桜の神様の血を継いでいるんだって」
 荷葉とつかみ合いになった際、この爪は彼女を拒んだ。美春がごく普通の箏爪だと思っていたものは、神祇庁にあった箏爪と同じだったのだ。
 帝は目を見張ってから、ゆっくりと肩を落とした。
「なるほど。異姫は、皇子と同じだったのか」
 桜の神と、その伴侶だった女。その子どもたちは、最低でも二人いた。
 一人は美春たちの世界に置き去りにされ、美春まで血を繋げた。
 もう一人は、異世に渡った彼らの間に生まれ、この国を治める皇子の血筋となった。
 美春がこの世界に攫われてきたのは、決して偶然などではない。この身に流れる血潮が、この国へと縁を繋いだのだ。
「形見の爪と、箏が揃っている。だから、神域の門は開くよ。哀しいことは、ぜんぶ終わりにしなくちゃ。荷葉さんのことも止めたい」
「分かりあえないだろう、もう」
「分かりあえなくても、傷つけあうことは止められる。このままじゃ誰も救われない。そんなの嫌だよ。哀しい思いをたくさんした人を、これ以上、苦しめたくない」
 これは、荷葉の言う綺麗事だ。恵まれて生きてきた美春が願う道は、荷葉にとっては夢まぼろしで、身勝手そのものだ。
 だが、すべて冬に呑まれる未来など、美春には認められなかった。
「荷葉は、お前を憎んでいる。赦しはしない」
「憎んでくれたって良いの。あのままでいたら、荷葉さんを大切に想う人も傷つく。大切な人を傷つけてしまったら、荷葉さんだって傷つくから」
 荷葉は泣いていた。柊とて、妹のことを想って嘆いている。思い合っている兄妹は、まだ手遅れではない。二人はやり直すことができると信じたい。
「まだ間に合うよ。間に合わなかった、わたしとは違う」
 美春は手遅れだったが、彼らの手は愛する人に届くはずだ。
 神域で朽ち果てたであろう咲哉と、すべて終わってから戻ってきた美春とは違う。
「お前は、いつもそうだな。お前の心にはいつも咲哉がいる。春を望むのも、過去を悔いるのも、すべてあれのためだ」
 帝は遣る瀬無さを堪えるように、額に手を当てた。
「帝?」
「荷葉にとっての傀儡の八重は、お前にとっての私だ。生きていた咲哉を否定し、その場に居座り続けた化け物。――さぞかし、憎いのだろうな」
 帝は顔を歪めた。自らを化け物、と称しながら、そのことに帝自身が傷ついている。
 謝りたいのに、言葉がうまく出なかった。
 ごめんなさい、と謝罪することはできなかった。化け物ではないと伝えたところで、虚しく響くだけだ。
 だから、美春は小さく息を吸って、箏爪を指に嵌めた。
 箏に手を伸ばして、そっと絃を爪弾いた。長い歳月が経っているはずなのに、その箏の音色は、不思議なほど澄んでいる。
 この爪を、箏を持っていた姫君は、いつもどんな気持ちで音を紡いでいたのか。
 きっと、愛しい桜の神を想っていただろう。
 美春が箏を奏でるのは、咲哉を想ってのことだった。彼が少しでも安らいでくれることを願って紡いだ音は、美春が捧げることのできる誠意でもあった。
 好きと言葉にしてもなお伝えきれない想いを、音に乗せることで形にしたかったのだ。
 美春は絃に指を滑らせながら、浅く呼吸を繰り返す。
 柊の隠れ家で、こんなの要らなかった、と帝は零した。
 傀儡の身を嘆いて、誰よりも厭っていたのは帝自身だった。だが、今、十六歳の美春が箏を弾いてあげたいのは、傀儡である帝なのだ。
 眠れぬ彼に、起きていても見られる幸福な夢をあげたかった。
 最後の絃を弾いて、美春はゆっくり顔をあげた。
 あなたを厭っているわけでも、化け物だと思っているわけでもないのだと、言葉よりも雄弁に伝わっていることを願う。
 一瞬とも永遠ともつかぬ時間が二人の間に流れる。黙り込んでいた帝が膝をついて、美春の顔を覗き込んだ。
 肩を軽く押されて、気づけば美春は板敷の床に押しされていた。
 絹糸のような白髪が、美春の頬に触れる。吐息が重なりそうなほど近くに、彼がいた。冬の匂いが美春たちを包んで、寒風に肌が粟立つ。
「美春」
 名を呼ばれる。それは焦がれ、潰えてしまった初恋の男の子の声ではなかった。
 柔らかな唇が触れて、美春は瞬きを忘れた。
 氷のように冷たい唇を割って、舌が歯列をなぞる。吐息さえも奪う口づけに、指先から凍りついていくようだった。
 やがて唇が離されたとき、そこにいたのは美春の知らない人だった。
 ――咲哉とそっくりなのに、咲哉ではない男の人がいる。
 魂など宿らない傀儡の身でありながら、たしかな熱を宿して美春を見つめていた。
 美春の頭を挟むようにして両手をついた彼は、再び、美春に口づけようとする。
 咄嗟に身体を反転させて、美春はうつぶせになる。這って逃れようとするが、押さえつけるように背後から抱きしめられた。
「逃げるな」
 耳元でささやく声は優しげだったが、有無を言わさぬ響きが込められていた。
 冷たい唇が首筋に触れて、うなじを掠める。
「ど、して」
 美春は血の気を失くした。
 重ねられていた唇が、這いずった舌が美春を惑わす。抱きしめられて、口づけられて嫌だと思わなかった。
 美春は手の甲で何度も、何度も自分の唇をぬぐった。そうしなければ、咲哉と別れた日の、触れるだけの口づけが塗りつぶされてしまう。
「先ほど、筝を弾いてくれただろう? あれは誰のための音だ」
 美春は、すぐに答えることができなかった。絃を弾いているとき、咲哉のことを考えていたわけではない。
 咲哉と同じ顔をした、傀儡を想っていた。
「私のために弾いてくれた。いま、ここにいる傀儡のために。それを愛しいと感じて、何が悪い。ほしいと想って、何故、咎められなければならない。咎めるのは誰だ? 過去の、咲哉の亡霊か。私は咲哉にはなれない。あんな弱い春宮は、もう」
 いつだって、美春を押し留めていたのは、潰えてしまった咲哉への未練だった。二度と届かない人を言い訳に使って、最後の砦にして、美春は逃げ続けた。
 ――だって、咲哉は死んでしまったのに、美春が誰かを想うなど。
「裏切りたく、ない」
「お前は、初恋だった、と言った。ならば、咲哉への想いは、お前のなかでは過去のものなのだろう? 終わったことだ」
 こちらの国で生きる、咲哉の大事な場所を守りたい、と伝えたとき、咲哉を思い出に閉じ込めた。前を向いて生きていくために、咲哉への未練を終わらせようとした。
「人の心は移ろうものだ。たった一年だけ傍にいた男。偶然が重なって、お前を手に入れただけじゃないか。そんな、もう死んでしまった男のことなど裏切ればいい。裏切って、何が悪いんだ。……私では、だめか。咲哉と同じでなければ、美春には愛されないのだな」
「……っ、ちが、う」
「違わないよ、何も」
 首元を撫ぜる凍てた指先が、堪らなく痛い。
 そして、それ以上に帝の心が痛いと悲鳴をあげているのが、苦しかった。
 美春が咲哉の姿を重ねる度、帝はどんな気持ちだっただろう。自分ではない誰かを投影されるほど、己の存在を否定されたと感じたのではないか。
 ずっと、帝を殺していたも同然だ。
 傀儡に魂はない。生きていないなら、死ぬこともない。柊ならばそう言うかもしれないが、美春は帝を殺し続けたのだ。
「好き」
 背後で、帝の動きが止まった。
 きっと美春を抱きしめる彼は眉をひそめている。美春を傷つけようとして、自分自身を傷つけている。
「嘘は要らない。叶わないと知って、哀しくなるから」
「傀儡でも、咲哉と違っても好き」
 美春は腕をついて、再び身体を反転させた。美春を押し倒した彼は泣いていた。涙が一滴も零れなくても、たしかに涙している。
「ならば、教えてくれ。嘘ではない、と」
 美春は手を伸ばした。帝の背に腕をまわして、震える腕に力を込める。
 引き寄せた彼の唇に、そっと口づけた。そのまま鼻の頭を、頬を、少しずつ口づけていきながら、美春はじっと光のない目を覗く。
 傀儡の身では、抱きしめたところで誰も温められはしないと彼は嘆いた。それでも、美春は構わなかった。
 彼が凍えるというのなら、美春が抱きしめてあげれば良い。眠れないと言うのなら、起きていても見られる幸福な夢を贈るのだ。
 ――たくさんの花を摘んで、咲哉に渡した幼かった美春。
 あのとき、たしかに美春は彼を好きだった。愛していた。十六歳の美春だって、あの小さな男の子に未練を残していた。
 けれども、涙すら流せないこの人形を、抱きしめてあげたいと思う気持ちだって、美春にとっては嘘ではない。
 好きなのだ。
 こんな短い時間なのに、どうしようもなく惹かれる心を誤魔化せなかった。
「内裏に、神域に行こう。哀しいことは、ぜんぶ終わらせるの」
 春が来て、すべてが解決するわけではない。死んでしまった人たちは戻らず、傷ついた人々の心は癒えず、冬枯れが残した爪痕は消えないだろう。
 それでも、このまま滅びていくより、痛みを抱えてでも歩いていける未来がほしい。



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